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「勉強をさせる」ことに、後ろめたさを覚える人へ 東京大学こまば哲学カフェ 第一回「勉強とからだと心の繋がり」哲学対話

「勉強をさせる」ことに、後ろめたさをどこか覚える多くの人へ贈ります。

 ~哲学対話の思考の記録 ~

 これは哲学対話の純粋な記録ではありません。哲学対話を経て考えたぼくの思考の記録です。

 当日の流れを正確に記述したものではないことを、ご了承ください。

 ~「勉強をさせる」ことは後ろめたい?~

 哲学対話「勉強とからだと心の繋がりを考える」の始まりの問いに選ばれたのは、「勉強をさせるのはなぜ大変なのか」というものだった。

 さて、「勉強をさせる」という言葉に、どんな印象を受けるだろうか。

 ぼくは、どこか後ろめたさを覚える。似ているが違う言い方で、「塾講師時代に生徒には『勉強をしていただく』と思っていた」と語る参加者の方がいた。この言い回しにも、なにか後ろめたさの含みを感じる。

 この「勉強」にまつわる〈させる側〉の後ろめたさは、どこからくるのだろうか。

 この後ろめたさについて、今回の対話の経験を通して書いてみるのがこの文章の主題だ。

 ~トイレトレーニング 学習する〈からだ〉、勉強する〈からだ〉~

 対話中に、トイレトレーニングが話題に挙がる。

 これを「勉強」だと思っていなかったぼくとっては、生々しく印象的に残った。言われてみれば、たしかにトイレトレーニングは「勉強」だという感じがしたからだ。

 想像してみる。

 トイレトレーニングという「勉強」を大人が赤ん坊にさせる以前から、赤ん坊はきっと、排尿・排泄について「学習」をしている。からだに感じる不快と結果を徐々に結びつけ、おなかの不快そのものを予兆として、排尿・排便という結果に結びつけていく。

 オムツのとれた子どもが、ときに自分の排泄感を見逃して、お漏らしをする。その時の「あーぁ」と驚いたような排泄の様子は、〈からだの感覚と結果の結びつき〉が、学習によって徐々に形成される成果であることを教えてくれている。

 一方、トイレトレーニングという「勉強」は、自分のからだにだけにはおさまらない。

 排泄感に気がつくだけではだめで、自分のからだをトイレに移動させてそこに出てくるものをおさめなくてはいけない。これは赤ん坊自身には合理的な理由のない、大人がわの都合で行われる「勉強」だ。それは社会に参加「させる」ための勉強でもあり、社会に参加「してもらう」ための勉強でもある。

 そう考えると、ギリギリまでからだのサインに気づかず、「オシッコー」と叫びながら駆け込みトイレの目の前でやらかしてしまう光景は、赤ん坊時代の終わりと、社会参加の始まりの端境期(はざかいき)のようにも見えて、感慨深い(考えすぎという話もあるが)。

 親と赤ん坊。勉強をさせる〈わたし〉と、勉強をさせられる〈あなた〉。この二者の間には、どこか乖離や分断がある。膜のような、見えない断絶がある。そんな感覚の芽生えを、トイレトレーニングの話し中に覚えた。

 ~ 「勉強」の類義語は〈参加〉や〈移動〉? 「箸の持ち方」も添えて~

 先に書いた「勉強をしていただく」と表現した参加者の話を聞いていくと、この「いただく」という言い回しはサービス業ゆえではなく、「自分の学問の世界にわざわざ〈参加〉してもらう」という感覚から生まれているものらしい。

 この〈参加〉という言葉は、〈移動〉と言い換えてもいいのかもしれない。実際、トイレトレーニングとは、自分のからだの都合ではなく、社会の都合に合わせて自分のからだをトイレにまさしく〈移動〉させることだ。

 そして、対話の中で「勉強に〈飛び込む〉」と言う表現も聞かれた。ここでは、勉強をすることの表現が、からだの〈移動〉という隠喩で表されている。

 そういえば、今は昔になったが、勉強のできる子どもに「末は学者か大臣か」(死語かな?)と言った。これも、勉強が社会階層の〈流動〉をもたらすものとして強く捉えられていたからなのだろう。

 箸の持ち方という話題もでた。

 この対話では、自分が勉強だと思っていなかったものがたくさん「勉強」として出てきて、思わず唸った。 

 子どもの頃に、正しい箸の持ち方を教えて欲しかったという。たしかに首相の箸の持ち方が話題にあがるなど、箸の持ち方一つで「お里が知れる」(これも死語か)と私たちは思っている節がある。「箸の持ち方」を通して、その家庭が透けて見えるという感性だろうか。

 これなども、「正しい箸の持ち方」が自分の属しているものを上にも下にも見せるという〈移動〉を含んだ意味があるように思う。

 ただ、不思議なのは、この「正しい箸の持ち方」の正しさが、どのように正しいのかを私は知らないまま、ぼくはこの感性を受け入れているということだ。

 ここでの「正しい」は、どうやら機能のことではない。日常生活で問題なく食事ができている方でも問題となるのが「正しい箸の持ち方」で、つまり、日常生活上でのつかめる・つかめないかを問題にしていないからだ。そしてなぜか、「正しい箸の持ち方」の「正しさ」が何なのかをよく知らなくてもそのジャッジには加われてしまう。

 「正しさ」を問題にしない「正しさ」の不思議がここにはあって、それは「勉強」というものと、深く関係しているように思う(※1)。

 ~「勉強」を追い求めて 生きることと「勉強」を重ねて考える~

 「勉強」の意味には〈正しさ〉というものは含まれていないのかもしれない。対話中にふとそう考えたのは、次のような話が出たからだ。

 「病気で末期の方で、必死に勉強をする方がいる。しかし、必死で勉強すればするほど、効果のない代替療法にはまっていってしまう」。

 この時の「勉強」は、「生きられる」とうい世界への〈参加〉へと向けられる。治療法の「内容」の〈正しさ〉は二の次になっている。生きたいという切実な思いが、痛いほど実感と伝わってくる「勉強」の一例だった。

 ここにいたって、真理や確からしさを追わない、〈正しさ〉を含まない「勉強」というのが目に入ってきた。世界への〈参加〉と〈移動〉とを目的とした「勉強」だ。

 その例の一つに、「社会勉強」という言葉が浮かぶ。

 学校や会社や業界の数だけ「社会」があり、その「社会」の数だけ「社会勉強」がある。社会勉強の「勉強」の中身とは、〈どのように振る舞えばその社会に参加できるか〉もしくは〈避けることができるか〉を指すように思う。

 他方、「その社会が〈正しい〉のか」という問いは、「社会勉強」の「勉強」の中に含まれていないように思う。

 たとえ〈正しい〉内容がゼロだとしても、〈正しい〉内容を歪曲するものであっても、人がある場に移動・参加するために行われるもの、それも「勉強」とぼくたちは呼んでいるのではないだろうか。

 そうして、「勉強」が〈信念〉に限りなく近づくこともある。

 学校教育のなかで「江戸仕草」や「水への伝言」が、教科の姿を借りてある種の信念を運んでいたことが顕著だが、私たちはときに正しさの検証を避けて〈信念〉を勉強し、そして、〈信念〉を勉強〈させる〉ことが可能なのだ。

 ~ とりあえずのまとめ 参加者のことばを借りて ~

 「勉強」には、真理や確からしさを求めて学習する「内容」を指す意味がある。それと同時に、「人の移動・参加を促す」という意味がある。この対話を経て、そう思うようになった。「勉強」とは、非常に〈社会〉的な活動なのだ。

 勉強を〈させる〉ときの後ろめたさというのは、この二つの意味のうち、後者に関わるものだろう。勉強をさせるものは、その相手を移動させ参加させる世界や社会を、信じていなければならない。けれども、移動させようとしている社会を私たちが信じきれていないとき、その〈移動させる〉ことには後ろめたさが伴う。

 反対に、学習者が勉強から逃走している(ように見える)とき、それは真理や確からしさに近づくことを避けているのではなく、「勉強」が暗に〈参加させよう〉としている〈世界〉や〈社会〉を避けているのかもしれない。

 勉強を〈させる〉自分は、相手をどんな〈社会〉に連れて行こうとしているのか、自覚的であったか。自問すると、怖くなる。

 その先の〈社会〉を意識していなければ、責任の半分しか果たしていないではないだろうか、と教訓めいて書きたいが、ぼくは信ずるべき〈社会〉を描けているだろうか。

 この不安こそが、後ろめたさの根源なのかもしれない。

 対話のあとに、療育に関わっている参加者の方が、こう書かれていた。

「その子のいまいるところ、行こうとする世界をよく観察し、その移動を見届けることに注意深くなった気がします。 

 教えるという立場にあるものが、こっちに来いと引っ張るのではなく、行き来して相手がいつか、またぐかもしれない。という感じで。

教える者や親の葛藤も同じかもしれません。(※2)

 至言だと心から思う。

(※1)「正しい箸の持ち方」については深く身体文化に関わるもので、このような短い言及で考えることには、腰が引けるというのが正直なところである。

(※2)Twitter アカウント Macさん(@yyenjoylife)から引用です。掲載許可をいただき、ありがとうございます。


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