地下足袋の生活から、生きる喜びを考える
澄んだ空の青も、花の色も、この季節きれいですね。
はじめまして、こんにちは。石川といいます。
ぼくが書くことは、きっと、さっぱりわからない人もいるだろうし、その逆に、なんて当たり前のことしか書いていないのだろうと、そう思う人もいるかもしれません。
お互いに顔が見えないままの手紙ですから、少し長いひとり言だと思ってください。
~ 地下足袋(じかたび)をはいて暮らす。 ~
ぼくは年間350日くらい地下足袋をはいて生活しています。地下足袋というのは、とび職の方や造園の職人さんがはいているあれです。海外では税関の方が「Oh! ニンジャシューズ!」と喜んでいました。
日本でも珍しいためか、ちょくちょく地下足袋に話題をふられます。まれにからかうように話題にあげる人もいて、その時はこころから悲しくなります。でも、多くの人は純粋な好奇心から話題にあげてくれるようです。
一番多い切り出され方は、「それって、健康にいいんですよね」です。だいたいの場合、ぼくは「らしいですね~」と返します。正直、よくわかりません。はいてもはかなくてもよく風邪を引くので、関係ないかもしれません。
その次に多いのが、「なんで地下足袋なんですか」というもの。これが一番困ります。「好なんですよ~」と答えてみたり、「健康にいいらしいんで」と信じてないことを言ってみたり、「体の使い方を学べるからなんです」とひねり出したり。
今まで何十回かきかれて、その都度けっこう真面目に考えて答えました。でも、どの答えも自分にとってしっくりこないんです。地下足袋は好きですし、もしかしたら健康にもいいのかもしれません。足の裏も、確かにうまく使えるようになります。でも、それが地下足袋をはいている理由なのかと考えると、自分で腑(ふ)に落ちないんですね。
理由は説明できなくても、自分の説明が本当のことではのはわかるんです。 そう感じ始めると、説明をするたびに嘘の重ね塗りをしているようで、自分に対して心苦しくなりました。
でもですね、じつはこの問い自体は好きなんです。ただ説明するのがいやなんです。かといって、答えたくないわけではないんですよ。
なんか、変ですね。なんでしょう、これ?
~ 説明できないことの大切さ。 ~
少し脱線して、変かもしれなくて、でも、当たり前かもしれないことを書きます。
説明というものについてです。
ぼくは先生という職業なので、たくさん説明をします。また、ひとに説明をもとめます。だからときどき、説明ってなんだろうって考えます。
説明って、ひとに分かってもらうためにすることですよね。で、他人にも分かるということは、その「説明の中身」は、ぼくだけが(君だけが)理解できるものじゃないってことです。当たり前のことかな? でも、ぼくはこれをとても不安に思うことがあるんです。
例えば、宇宙で唯一無二(ゆいいつむに)の存在である君が、君の気持ちや感覚を説明する。説明は他人に分かってもらうことで、他人にも分かるってことは、その説明の中身はは君だけの唯一無二のものではないってことだよね。でも、君は唯一無二だ。だから、唯一無二の君の感覚を他人に説明するとき、そこには抜け落ちるものが必ず出てくるはずなんだ。なぜなら、本当に君だけのものは、ひとには決して伝えられないから。だって、君は宇宙で唯一無二の存在なんだから。唯一無二ってのは、複製できないって事だからね。
で、ぼくはその「説明から抜け落ちたもの」が、説明の中身よりも大切なときがあると感じてるんです。
「なぜ地下足袋なんですか」と話しかけてくれる方の期待する答えってなんでしょう。経験的にいうと、知りたい答えの中身は地下足袋を履くとどんないいことがあるのか? という気がします。あってるかな? つまり、地下足袋の機能・効能だと思うんです。でも、本当に正直に書くと、この問いに答えようと思索(しさく)したとき、問いがぼくを連れて行ってくれる場所は、ぼくが唯一無二の〈ぼく〉であることに関わるような場所なんです。地下足袋に備わっている効能ではなく、地下足袋と〈ぼく〉の触れあいにしか生じない場所ですよ。それは、けして他人には再現できない。再現できないというのは、説明できないということです。だから、説明を重ねるたびに、相手に分かる形にするたびに、それはぼくがたどりついてる場所とはかけ離れたものになっていく。で、それがいやなんだなって、この前気がついたんです。
問いを味わうのは好きだけど、説明はしたくないというのは、そういうことです。 地下足袋をはじめてはいて26年、日常的にはくようになって10年くらいで気がついたので、ずいぶん時間がかかりました。
どうでしょうか。みなさんは、こういう感覚ありますか?
なんでこんなことを書いているかというと、みなさんが個人個人の人生を歩んでいく上で、この「説明できないこと」を大切にすることが、あなたが〈あなた〉であることを、守ってくれるような気がするからです。
ぼくは、ひとには説明できない自分をみつけることで、少し安心して〈自分〉になれるようになった気がします。
同時に、それぞれがひとには説明できない〈自分〉をもっているなら、それを犯さないようにどうしたら生きられるのかを、考え始めた気がします。
~ 評価の内側と外側 ~
当たり前かもしれないし、変かもしれないことを、また書きます。
唯一無二のものって、評価できると思いますか。
ぼくは、唯一無二のものって、本当には説明できないと思うんです。説明できるってことは、相手を別のものに置き換えられるってことだから、それが完全にできたら、相手は唯一無二じゃなかったってことになる。 で、評価って、他人が分かるようにしたものにしかつけられないんです。だって、なんなのか全く分からないものを評価するって、できないからね。 説明って、他人にわかる形にすることで、だからそれを評価できて、テストの問題が「説明しなさい」が多いのはこういう理由なんだと思うんです。逆に言えば、評価をつける側はなんでその評価を相手につけられるか、相手に説明できなきゃいけないってことだと思うんだよね(みんなも、「俺の好みが評価の基準だ!」て、言われたら「説明」を求めるでしょ)。 で、だからぼくは、唯一無二のものって評価できないと思うんです。評価の外にある。
それでね、ここが大事なんだけど、君って唯一無二の存在なの。ていうことは、君の多くは説明できない。ていうことは、評価できないの。
でもさ、評価できない・されないからって、君がないわけじゃないよね。
むしろ、そこに〈君〉がいる。ぼくは、そう思う。なぜなら、その評価の外にあるものが、唯一無二の〈君〉なんだから。
もちろん説明も、とっても大切なもので、説明を通してたくさんのものを共有して社会は回っている。でも同時に、どんなに君が言葉や情報で分解されても社会に還元されない〈君〉をつまえることも、君が幸せに生きていくために必要なのかなって最近考えてるんです。
僕が受け持つ科目は成績をつけないけど、それは、そんな評価の外にある〈君〉を見つけてもいい時間でもあるんだよ、っていう科目からのメッセージだとぼくは思ってるんです。
君は、どう思っていますか。
地下足袋から、ずんぶん遠くまで来た気がするし、進んでいない気もします。
みんなに会えるのを楽しみにしています。
皆さんの◯◯という教科を担当する石川です。
よろしく。
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