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アーヤ藍『世界を配給する人びと』の「人びと」

アーヤ藍の『世界を配給する人びと』を、まるで友達から旅先の話を聞かせてもらうような気持ちで読んだ。
夢を追いかける内容でありながら、「夢の叶え方」を説く本ではない。それが、とても心地よかった。夢や人生の目標を「立てなければならない」という〈圧〉を強く感じさせる推薦入試の只中にいた僕に、その闊達な語りたちがひどく染みた。

この本に登場するのは、世界で得たものを心に留めるだけでなく、自らの意思で「配給」する5人の人物。彼らは皆、自分の足で人生を歩きながら、行き先や進む方法を見つけていく人たちだ。
たとえば、マダガスカルからバニラを輸入するビジネスを通じて、人と人とのつながりを再構築しようとする武末克久さんの「全部自分の言葉で話ができる」という言葉は、象徴的だ。

かつて「森林破壊を本気で止めたいと思っているのか?」と聞かれて、言い淀んだ自分とは違って、今は現場があって、実際の物を作っていて全部自分の言葉で話ができる。もう、何も怖いものがないというか、後ろめたさがないというか、ものすごく気持ちがいいんですよ。(P106)

アーヤ藍『世界を配給する人びと』(春眠舎)

「何も怖くない」「後ろめたさがない」という言葉の清々しさが、大学受験指導に追われていた当時の僕には眩しく、そして羨ましく響いた。

「自分の言葉」といえば、雪にまつわる作品を作り続ける遠藤励さんの言葉も心に残った。

山との対話をしていると、「山が穏やかに開いている時」って確実にわかるんです。逆に日々山とコンタクトしていないとわからなくなる。だから、1、2日ぐらいなら大丈夫ですけど、一週間もその山に入っていなかったら怖いです。そこから数日間は周囲から情報を得たり、ちゃんと山と対話してからじゃないと入れないです。(P174)

アーヤ藍『世界を配給する人びと』(春眠舎)

アーヤさんが「遠藤さんの話には、どっしりとした『根っこ』がある」(P170)と述べるように、体験を通じて得た確信がその言葉には溢れている。
手ずから世界に触れ、観念ではない「その世界」を他者に手渡していく行為の中に、人を圧倒する生命力を感じた。

でも実は、僕が一番勇気づけられたのは、編者アーヤ藍さんのコラムにある邦題を決めるエピソードだ。

映画『The Case Against 8』は、同性婚を否定する議案「提案8号」の裁判を追った内容で、日本では『ジェンダー・マリアージュ 〜全米を揺るがせた同性婚裁判〜』という邦題がつけられた。しかし、このタイトルについて、アーヤさん自身はこう述べている。

ただ、同性愛は本来「ジェンダー」ではなく「セクシャリティ」に関わるものだ。当時はまだセクシャリティという言葉が日本に浸透していなかったことや文字数が多いこともあって、敢えて「ジェンダー」を選んだ。そういう経緯もあり、今でもこの邦題がベストだったかは分からずにいる。日本でもLGBTQや同性婚についてよく話題にのぼるようになった今、あらためて邦題をつけるとしたら、全然違うタイトルにするかもしれない。(P87)

アーヤ藍『世界を配給する人びと』(春眠舎)

このエピソードに、まだ世の中に浸透していない「世界」を手渡すことの難しさや葛藤を感じた。

まだ世に届けられていない「世界」だからこそ、手渡すのは難しい。そして、まだ気づかれていない「世界」だから、手渡しでしか届けられない。そして、まだ届ける途中だから、届くものは完璧ではありえない。
このもどかしさに耐えながら、届けることに進んでいる人びとがいる。ここに強く心が震えたのは、僕自身が、どこに・どう進んで行けばいいか迷う不安の中にいるからだ。

「世界」を手ずから届ける行為には、手渡しのような「配給」という言葉がとてもよく似合う。だから、『世界を配給する人びと』というタイトルが僕はとても好きだ。
「世界」を受け取るため、「世界」を配給する勇気を得るため、僕はきっと、この本の中の人達に何度も話を聞きに戻ってくることだろう。

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