挫折と弱い自分
今,教育TVでやっている『宇宙わたる教室』というドラマを追いかけている。
というか、心待ちにしている。
今回は特にオジサンの心に来てしまった。
簡単に説明すると、主人公は何らかの理由で正統派の研究者の路を自らスピンアウトしてしまい、今は自由研究を続けつつ定時制の高校の教師をやっている。
そこに集まる生徒は定時制に通ってるということで多様な過去や問題や環境を抱えているものが多い。
そんな中で自主的な4名を集めて科学部を立ち上げた先生。
テーマを自分たちで決め、学会に論文を発表できるよう実験とデータ取り、考察を深めている、、、。
そこでぶつかる、有形無形の困難。
今、科学部は部外者の妨害により挫折しようとしている。
挫折。
挫折について話したい。
俺は今まで数々の挫折をして来た。人であれば当たり前に。
中でも1番大きなものとは今も戦っている。
多分、この戦いは死ぬまで続くであろう。
37歳にして労働という土俵から降りざるを得なくなった。
サラリーマンでいられなくなった。
30を過ぎて天職だと思っていた営業から、他人の依頼を持って道を変えた。
営業から技術に転向したにもかかわらず、役割はあまり変わらず、
仕事自体は面白く、同僚をどんどん増やせるという機会にも恵まれた。
そんな仕事に携わりつつ、俺は最も大事なことを怠った。
というか見ない振りをした。
自分の身体の事。
人生で自分だけで責任を取れることってほぼないんだよね。
自分の身体の事以外は。
これはどんな人でも最後の責任は自分で取るしかない。
助けてくれる人はいるが結局は自分でどうにかするしかない。
同僚が、パニックに陥っていた。
朗らかで、周りを明るくしてくれる稀有な存在だった。
そんな彼がいきなり離婚という壁にぶち当たった。
親権を取られることが特にショックだったようだ。
プロはプライベートを仕事に持ち込まない。
よく言われることだ。
それは、嘘だ。
無理なんだよ。プライベートと仕事を完璧に切り替えることなんかできるわけがない。
と、弱い俺は思っている。
切り替えスイッチを能動的に力を込めて切り替えるしかないのだ。
ふと気づくとプライベートに切り替わってしまうスイッチを。
彼のプライベートはズンズンと仕事を侵食し始めた。
戦力であったはずが錘になってしまった。多分自分をそれで追い詰めていたんだろう。
単純なミスはクリティカルなものに変わっていった。
宙を見ている時間が増え、やたら汗をかくようになった。
本社に出向いて社長に談判した。
彼は苦しんでいる。一時的に退避できないだろうか?
怒られた。それはお前が心配することじゃあない。
お前がやるべきは彼を出来る限りフォローする事だろうと。
何様のつもりだ?と。
当時の我が社は社長以下フラットな組織を目指しており、ミドルマネージメントは存在しなかった。社長から一社員への今で言うOne On Oneの上意下達制度を布いていた。
組織へのフォロー、業務のミスのフォロー、お客さん社員からのシールド、
プライベートのフォロー。
俺は上司ではない。管理者でもない。あーしろこーしろとは言えない。
そこで俺は最悪の選択をしてしまった。
あまりにもミスが増えたので、同僚としてマイクロマネージメントに近い行動連絡を求めた。当時、手順書がある作業も遂行できなかったからだ。
上司ではないがそこまで見ないとミスが直接お客さんに影響してしまう。
上司もいなければ部下もいない。社長は遠く本社に陣取っている。
窮地に陥っての最悪の選択だった。
朝、その日に計画しているジョブの連絡と注意点の共有。
定時前に、その日やったジョブの振り返りと反省点。
後は外部へのメールは全て自分宛にBccを入れてもらった。
簡単に言うと、同僚の一挙手一投足を見張っているわけである。
自分の仕事も含め回すことはできたが、ストレスが半端なかった。
ミスも減らない。
よく呑みにも連れ出した。家に帰るのが嫌だろうから。
俺のマイクロマネージメントは彼の余力をすり潰してしまった。
ある日社長に仕事を辞めて実家に帰りたい旨申し入れしたようだ。
ようだというのも、その動きを俺は全く知らず、辞めてから知ったと言う体たらくだった。
敵である俺にはそんな相談できなかったんだと思う。
彼は会社を辞め実家に戻った。社長のほぼ命令だったようだ。
俺は悲しかった。朗らかな同僚を失ったこと。
そんな状態に彼を追い詰めていたこと。
大好きな呑み仲間を失ってしまったこと。
当時、お客様で大きなプロジェクトがあり、
全国グループ社員が使う業務システムの大規模改修で
サーバハード、上位のロードバランシング、
RDBMSエンジンの変更、チューニング、
かかるデータのバックアップとデータの書き戻し、
サーババックアップのストレージエリアネットワーク設定、
その先のテープメディアへの書き出しと
全体的なスケジュール策定、
上記のためのテスト環境のサンドボックスの物理的構築、
作業手順書の作成、運用手順書の作成。
触ったことがなく、開示されている情報がえらく少ないDB2という
ビッグブルー製のRDBMSと格闘していた。
上記のようなインフラ構築と運用設計という重い案件に着手していた。
他のことをやる、考える余白が消えていった。
辞めていった奴への感情だけが置いてけぼりにされた。
とにかく忙しかった。
残業は規制されていたので定時で終われるよう密度の濃い、手戻しが発生しないようなウォーターフォールな仕事を心がけた。その過程で自分の中で削れてゆく何かがあった。
カリコリと何かが音を立てて俺を蝕んでゆく。
毎朝起きると最悪の気分だったが、
シャワーを浴びてネジを巻き直した。
そんなある日、シャワーを浴びながら同時に小用を足していた。
汚くてすまん。
下を見ると流れ落ちる湯がオレンジ色に染まっている。
「うわーーーーー!!!!!」
叫ぶのに充分な異変だった。
だが、しばらく病院になんて行く暇は作れない。
見ない振りをするのがやっとだった。
半年ほどで仕事にも区切りがついた。
半休をもらって病院に行った。血尿が出ているようです。
結果は腎機能の低下。
今すぐどうこうではないが不可逆性の臓器であるため、
今から保存生活を送る事を勧める。
ちょっと先になるけど、栄養指導教室があるからそれに出るようにと。
できれば嫁さん同行で出席してくれと。
二週間先の話だ。
突然、倒れた。
熱は40度、頭は割れるように痛く、扁桃は真っ白な菌に覆われて、
何も喉を通らない。
横になって寝ると苦しくて、四つ這いになって、柱にもたれかかって気を失うように寝ていた。
忘れもしないある日曜日、午前5時半ごろ。
四つん這いでも息が苦しくなった。
心臓は今までないほど早鐘を打ち続けている。
限界だ、救急車を頼む。
寝ている嫁を起こして電話を掛けて貰った。
救急車が来るまでに着替えや身の回りのものを揃えた。
日曜日だった。
病院に先生はいない。当直医だけだ。
近所の病院を断られ、鎌ヶ谷にある三次救急病院に運び込まれた。
既に意識は朦朧としており話はできなかったようだ。
と言うのもそれから3日間は連続した記憶が全くなく、
フラッシュバックのような画面を覚えているだけだった。
入院のことについては長くなるのでまた別に記そうと思う。
大きな、大きな挫折と後悔の旅はこれから始まる。