満目青山は心にあり(独立宣言)
闘病すでに4年。三度の手術、一度の放射線照射、さらに化学療法を経てなお根治できない。これでは激務に耐えられないと判断し、13年余前に創刊した月刊誌の仕事を辞すことにしました。調査報道の第一線に立つという私の使命も幕引きが近いと信じます。
謡曲に「弱法師」(よろぼし)という名曲があります。沈む日を拝んで浄土への転生を祈ろうと、四天王寺の西門に杖をついて現れる盲目の俊徳丸の物語です。入り日が落ちていくと、群衆がいっせいに拝みだすのを気配で察し、「さりながら盲目なれば、そなたとばかり、心あてなる日に向かひ」じぶんは拝むしかない。満目青山は心にあり、「おう、見るぞとよ、見るぞとよ」と声を発しますが、足もとはよろつき、行きあう貴賤の人びとに突きころばされ、「人は笑ひ給ふぞや、思へば恥づかしやな」と身を伏せます。
シテの弱法師には能面があって、眉間に微かに皺を寄せ、呆けたような無性に哀れな表情です。落語にその翻案「菜刀(ながたん)息子」がありますが、あのオチは哀しくて笑えない。これからは、弱法師のように過去も明日もない世界です。映画「死ぬまでにしたい10のこと」(原題 My Life Without Me)のようにリストをつくってみました。
ドイツ語の本を翻訳してみたい。これは田畑書店にお願いして、エルンスト・ユンガーの小説『ガラスの蜂』を10月に出版する予定です。ドローンの黙示録といった内容で、ドイツ語は大学で教わったきりなので後輩の助けを借りました。
リストの次は、映画の字幕を手伝ってみたい。これは文春と博報堂DY MaPのおかげで9月27日からシャンテ系で公開される『ハミングバード・プロジェクト』で実現しました。
その次はザ・ニューヨーカーのように知的に「美しい雑誌」をつくることです。いままで言わなかったことに口を開きたい。ユークリッドの『原論』(ストイケイア)にあやかり、またストア派のように禁欲的という意味を込めて「Σtoica」(ストイカ)と名づけました。
こうしてリストをひとつひとつ消化していけば、いつか「私のいない世界」にたどりつくでしょう。ベンヤミンの幻の雑誌「新しい天使」のごとく、後方へ退いていく「しんがり戦」は、たとえ虚空に吠ゆ、であっても一声を発し、一礼して去らんとするものです。いましばらくは、弱法師のように「今は狂ひ候ふまじ、今よりさらに狂はじ」と念ずる日々です。
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