天神・渡辺通りの名前は渡辺プロ創業者の渡辺晋のご先祖から名付けられたという話はおそらく事実誤認ではという考察
最近、ちょっとした調べ物で渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)が無料公開している98年発行の社史を読んでいたら、創業者の故・渡辺普氏の両親が福岡出身だと書かれており、渡辺プロのルーツが福岡とは知らなかったのでありがたい初耳ネタに感謝していたが、福岡に関する社史の内容がよく読むとおかしいことに気付いた。
以下は社史で気になった箇所の抜粋。
…福岡の歴史に興味のない方なら別に引っかかることもない説明と思うが、福岡の近現代史に多少でも詳しい方なら、上記の渡辺家の説明には正直首を傾げるのではないだろうか。
まず天神にある渡辺通りは、福岡市の近代化に尽力した明治時代の実業家・渡辺與八郎の名前が由来になっているのは(福岡では)そこそこ有名な話。
與八郎は私財を投入して取り組んだ福岡市周辺を運行する循環線の路面電車(博多電気軌道)開通から1ヶ月後の明治44年10月に、当時流行していたワイル病により46歳の若さで亡くなり、鉄道会社は故人の功績を称えて、柳橋から法院田(現・薬院)の通りを「渡辺通り」と命名した(福岡市が公式な地名として採用したのは昭和に入ってから)。
「ということは渡辺晋は渡辺與八郎の一族に当たる?」と思ったが、與八郎の先祖はもともと福岡県嘉穂郡の出身。祖父の與之助は13歳で博多の商家に丁稚奉公に入り後に「紙屋」として独立した立志伝中の商人で、その息子の與三郎も呉服商として博多で活躍し、幕末の混乱に乗じ多額の財を成した。與八郎はその「紙屋」三代目を引き継いだ生まれも育ちも生粋の博多商人で、渡辺晋氏が與八郎の一族だとすると「渡辺家は九州福岡・黒田藩に仕えた高禄の武家」というナベプロ社史の説明は明らかにおかしいのである。
では渡辺普氏の福岡における正確なルーツはどこにあるのか。
社史には晋氏の父親である泰(ゆたか)氏の詳しい経歴も掲載されており、この辺りから辿れないかと調べてみた。
日銀や蒙疆銀行などで要職を務め、福岡でも正金相互銀行(現・福岡中央銀行)の取締役だったという文句なしにエリートな経歴なので、泰について官報から経済誌まで様々な記録が見つかったが、残念ながら渡辺家のルーツのヒントになるような情報は見つからなかった。
続いて泰の兄弟についてなにか記録がないか調べてみた。
社史に名前などは記載されていないが、
という情報があり、明治〜大正時代に福岡から東京帝国大を出て三井銀行に入社したエリートがさほど多くいたとは思えないので、泰の+10歳あたりに絞り福岡出身で「渡辺」姓の東京帝大出身者を調べたら、泰の兄と思われる人物の記録が出てくるのではないか。
すると大正11年に発行された『帝国大学出身録』という本に、以下の人物の記載があった。
福岡県出身で泰より3年先に東大を卒業し三井銀行に勤務…
経歴としては完全に一致する。
というわけでこの渡辺哲三郎氏を更に調べたところ、昭和12年に出版された『人事興信録』という名士辞典に
と、「渡邊募」という父親の名前を発見したため、泰の経歴にもこの名前が記載されてないか再チェックしてみたら…
お!ビンゴ!
また同出版社が発行した『大衆人事録 東京篇』には渡辺哲三郎の経歴も記載されているが、
とあるので、この渡辺哲三郎が泰の兄、そして渡辺募は泰の父であり渡辺晋の祖父なのは確定だろう。
渡辺募の名前を調べると、明治時代の官員録に名前が残っており、九等属の判任官として福岡県庁に勤めていたことが確認できた。
また1964年に福岡銀行が発行した『第十七国立銀行史料(上)』に士族出身の株主として名前が残されており、明治15年9月に商家の内田次平、同年10月に伊丹九郎左衛門という士族から銀行株をそれぞれ10株と4株を買受け、同年の12月に中尾卯平という商人に売却した記録も確認でき、社史の渡辺家に関する記載と一致する。
十七国立銀行の設立初期に士族として株の売買に関わっていたということはおそらく黒田家の藩士出身だろう。
さらに渡辺募の先祖の名前まで判明すれば、渡辺家の藩士時代のルーツまで遡れそうなので、渡辺家の菩提寺だったという福岡市の唐人町にある妙安寺に足を運んだが、残念ながら数件ある渡辺姓の墓や墓誌から何らかの情報を得ることはできなかった。
新宿の仙寿院にある渡辺家の墓(妙安寺から分骨)の墓誌には先祖の名が刻まれているようだが、残念ながらそこまで足を運ぶ余裕もなかった。
いずれにせよ渡辺晋氏のルーツは黒田藩もしくは福岡県諸藩の武家出身だということは確かで、博多出身の渡辺一族とは完全にルーツが異なっており、両家が縁戚関係だったり、一族が渡辺通りの開発に何かの形で関わった可能性までは否定できないが、「現在も福岡市内を走る渡辺通りは渡邊家に由来するという」という社史の記述はやはり事実誤認だろう。
しかしなんでこんな間違いを公式の社史が載せているのか。
ナベプロ関連の雑誌連載や書籍をいくつかチェックしたところ「渡辺通りは渡辺家に由来して〜」という話は、雑誌『現代』1987年11月号に掲載されたジャーナリスト軍司貞則の連載『ナベプロ帝国の興亡』が初出ではないかと思われる。
この連載は1992年に書籍化されており(現在は絶版)、社史の参考書籍リストにも入っていたので、渡辺プロは恐らくこの本から、福岡時代の渡辺家のエピソードとして渡辺通りの話を引用してしまったのではなかろうかと。
…ちなみに渡辺晋は育ちは東京だったものの福岡には愛着があったようで、存命時は福岡県人会や福岡幸友録のリストにも名を連ねており、タレント養成校の東京音楽学院も早いうちから福岡に支部を設立。その歴史もあって、ワタナベエンターテインメントと福岡のつながりは今も強く、九州事業本部が07年に福岡に設立されてから、福岡の地方局にはほぼ毎日所属のローカルタレントが出演しており、東京で活躍しながら地元の仕事も引き受けることが多い福岡出身の大家志津香や瀬戸康史などもワタナベエンターテイメント所属である。渡辺晋の福岡出身の偉人としての側面を、いちど地元紙や地元局で特集してくれたら嬉しいのだけど。
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