アルプスの旅 5 モン・フォール
モン・フォール、ヴェルビエ
十五日目
シャモニからヴェルビエへ移動し、モン・フォール小屋へ
TMR(モンブラン急行) シャモニ発 八時四十五分
マルティニ着 十時十九分
セント・バーナード急行 マルティニ発 十時五十三分
ル・シャーブル着 十一時二十分
ポストバス ル・シャーブル発 十一時三十分
ヴェルビエ着 十一時五十五分
ゴンドラ ヴェルビエ発 十二時三十分
ルイネット着 十二時四十五分
モン・フォール小屋着 十四時三十分
ゴンドラ 山麓駅発 十五時三十分
モン・フォール着 十六時
モン・フォール発 十六時三十分
山麓駅着 十七時
モン・フォール小屋着 十八時
ヴェルビエはシャモニから東へ直線距離で三十キロメートルの位置にある。ここにはスイス最大のスキー場があり、冬期はスキー客で賑わうが、年間を通じ若者たちが集まるスポーツ・リゾートである。
また、ヴェルビエはアオスタとマルティニを結ぶ交通の要所であったグラン・サン・ベルナール峠に近く、セント・バーナード山岳救助犬が活躍した地としても有名である。
シャモニからツェルマットまでの山々をトレッキングするオートルートの中継地モン・フォールへはここから登る。モン・フォール展望台は標高三千三百三十メートル、モン・ブランとマッターホルンの中間にあり、両山群の間には視界を隔てる高い山がなく、三百六十度の展望がある。
南のイタリア側からモン・ブランを望んだ後、北側からもと、シャモニからサース・フェーに移動する途中でヴェルビエへ立ち寄ることにした。
その日は早々に朝食を済ませホテルを出た。シャモニの駅まで石畳の歩道が続いている。二人で、それぞれに重いスーツケースを転がしながら歩いた。駅前に早朝から開いているスーパーがあり、時間に余裕があったので中へ入ってみた。食料品と雑貨が並んでいたが、たくさんのフランスワインが二つの大きな棚を占有していた。安さにつられ、お茶代わりにとメドックの赤を購入しザックに入れた。
モンブラン急行のその日の便はマルティニまで直行したので、シャトラで乗り継ぐロスがなかった。
マルティニ駅で重いスーツケースをライゼゲベック(チッキ)にし、次の滞留地であるサース・フェーまで送った。運賃は一つ当り十スイスフランだった。
マルティニからセント・バーナード急行に乗りセンブランチャーへ、ここでオルシエール行きと分岐し終点のシャーブルへ、更にポストバスを乗り継ぎ、シャモニを発って三時間後やっとヴェルビエに着いた。
オルシエールからバスを乗り継ぐと、ベルナールを通りアオスタへ至る旧街道の旅になる。かつての難所ベルナール峠はトンネルで抜けられるようになり、山岳救助の勇士セント・バーナード犬も子どもたちのペットになった。
ヴェルビエは明るいスマートな街である。ゴンドラ乗り場までの道筋にスポーツ店やブティックが軒を並べている。交通の便が悪いせいか、日本人は見かけなかった。
モン・フォールのゴンドラは二日通用券が六十七スイスフランで、スイスカードの割引がなく他の観光地より割高であった。モン・フォールの頂上へ行くには三つのゴンドラを乗り継ぐ。最初のゴンドラを下りると、見晴らしの良いテラスカフェがありビールを取り昼にした。
シャーブルの谷を見下ろしながら、しばらく車道を歩き、前方にモン・ブランが見えるあたりで山道に入った。
モン・フォールにいたる南斜面一帯のお花畑がきれいだった。山腹に水量豊富な小川が流れ、太陽の恵みが降りそそぎ、植物に良い環境なのだろう。
スキーに格好な斜面を登り、標高二千四百六十メートルにあるモン・フォール小屋を目前にしてから一時間かかった。
ごつい小屋番に、「ジェ フェ マ レゼルヴァスイオン、ジュ マベール ロミー 」と、フランス会話本のメモを見ながら挨拶すると、「OK」と返事があった。この地方はフランス語圏で、予約するとき言葉が通じず苦労したが、多少は英語も分かるらしく安心した。
この地方の山岳民族は長身で足がきわめて長い。我々の胸の高さに彼らの腰が付いている。先祖代々岩登りを習いとするうちに、足が伸びたのであろうか。いまではアルプスを仕事場とするに、さぞかし便利なことだろう。また痩躯で、がっしりとした体に大きな頭があり、顔が長いので、中年になると、おしなべて、いかつい感じになる。シャモニの名ガイド、ガストン・レビュファーの写真にその典型が見られる。
手伝いの若者に小屋内を案内され、二階の個室を割り当てられた。
早速、部屋に荷物をおき、モン・フォールに上がるためゴンドラ山麓駅へ急いだ。ガイドブックに、ロープウェイは十五時半に終業と記載されている。走りに走り何とか間に合ったが、山頂からの帰りは、どうなるのだろうか。駅員に、身振り手振りで確かめると、大丈夫のようであった。
中継駅があり、そこで大きなゴンドラに乗り継いだ。雪と氷の斜面を展望台へ上がるゴンドラから、オートルートの小屋が見えた。
モン・フォールの頂上は、展望台から、さらに小さな岩山を登る。地元の人らしい家族連れが二組、賑やかに写真を撮っていた。
西に遠くモンブラン山群、南に近くグラン・コンバンのどっしりした白い山容が望まれた。
グラン・コンバンはモン・ブランとマッターホルンの中間に聳える標高四千三百十四メートルの氷に囲まれた独立峰で、アプローチは長く、登攀の高度差があり、高度の氷上技術を要する。オートルートではこの北斜面をトラバースし、ツェルマットに向かうが、ツアー中の難所である。この日、東と北側は、ガスが濃く視界がなかった。晴れていれば、エギュードミディに匹敵する眺望があるのだろう。
十六時半にゴンドラの駅員兼運転手が岩山の下まで呼びにきた。乗客がゴンドラに乗り込むと彼は駅舎の鍵を閉め、最終便を発車させた。二組の家族連れは、中継駅から我々とは別の方向に下るゴンドラに乗っていった。
山麓駅から小屋へ登る道の両側はお花畑が続き、他の山々で見かけた花がたくさん咲いていた。よく見ると、花の色や花弁の大きさが他の山のものと、少しずつ違っていた。
モン・フォール小屋は前方が古い石造りで、後の部分は木の香も新しい重厚な三階建である。内部の施設は機能的で広々としていた。山小屋には珍しい光感知式の通路灯があり、トイレ・洗面所は清潔で、コイン式ユニットシャワーまで付いていた。近くにスキーリフト小屋があるので、電力の供給を受けているのか、発電ボイラーは使ってないようだった。
向かい合わせにマットレスベッドが二つ備えられた個室は清潔であった。この日の泊り客は我々二人と、英語を話す親子、ここまで自転車で上がってきた青年の五人だけだった。
小さな山小屋風の食堂もよいが、夜は七時を過ぎても日は高く、小屋の前のテラスで山並みを眺めながら食事をする方が気分よい。
夕食はパンと野菜スープにトマト入りパスタの質素なものであったが、シャモニのスーパーで買ったメドックを開けた。この赤は思いの外上等だった。隣のテーブルにマウテンバイクの若者が手鍋とコンロを抱えて現れ、汗とニンニクが蒸れたような、えも言われぬ臭いが辺りに立ち込めた。鍋の中には溶けたチーズがなみなみと入っていた。彼は鍋をコンロにかけ、背負っていた小さなザックから大きなパンを取り出し、パンをちぎっては鍋のチーズを浸して食べ始めた。
初め、我々は、彼が小屋の若者と知り合いで二人で鍋を囲み食事をするものと思っていた。しかし、いっこうに相棒は現れず、鍋のチーズは段々少なくなっていった。我々が、食事を済ませた後も、隣のテーブルでは延々と宴が続き、結局二時間ほどかけて、さほど体の大きくないバイクの若者は五人前ほどのチーズホンデュを一人で平らげてしまった。
夕日を眺めながら、横目で鍋のチーズを盗み見していた我々は、鍋の底がきれいになったのを確認し、互いに顔を見合わせた。
小屋番が宿帳を持ってきた。記入する前に先を見ると、壮年の男性とその息子はボストンから、マウンテンバイクの若者はマルティニから来ていた。
ボストンの中学生らしい男の子は、食事の後、食堂のテーブルで日記をつけ、父親と明日の予定など話し合っていた。その後、何か用事があるらしく、一人ぶつぶつと念じてからカウンターへ行き、小屋番にフランス語で話しかけていた。その間、父親は息子の様子をじっと見ていた。
彼らは、シャモニからオートルートをツェルマットまで歩くようだ。父親の雰囲気が、地味な職業を窺わせた。彼の家族、妻と他の子どもたちを、ボストンに残して来たのであろうか。二、三週間かけて、アルプスを息子と旅する、働き盛りの父親の姿に、しみじみと心打たれた。
ひと寝入りし夜九時過ぎに目を覚ますと、遥かモン・ブランの西にメラメラと隈取した太陽がゆっくりと稜線に向かっていたが、気づく間もなく消えていた。なんとも、雄大な夕焼けであった。
十六日目
再度、モン・フォール山頂へ、その後、ヴェルビエに下り、マッルティーニ、ブリークを経由し、サース・フェーへ移動
ロープウェイ 山麓駅発 九時
モン・フォール山頂着 九時三十分
モン・フォール山頂発 十時
山麓駅着 十時三十分
ルイネット発 十一時三十分
ヴェルビエ着 十一時四十五分
ポストバス ヴェルビエ発 十三時
シャーブル着 十三時二十五分
セント・バーナード急行 シャーブル発 十三時三十三分
マルティニ着 十四時
SBB (IR) マルティニ発 十四時四十七分
フィスプ着 十五時三十三分
ポストバス フィスプ発 十六時三十分
サース・フェー着 十七時二十五分
小屋をチェックアウトし、再びモン・フォール展望台へ上がるため,
ロープウェイ乗り場へ向かった。山麓駅に下る途中の草斜面で、マーモットが数匹、巣穴から首を伸ばし我々を見守っていた。
その日のゴンドラも、客は我々二人だけであった。早朝の山頂は視界良好で、三百六十度、遥か遠くまで見通せた。
北東に遠くユングフラウなどベルナー・オーバーラントの山々が、東に目を移せばダン・ブランシュやワイズホルンなどツィナールの峰々が、その右にマッターホルンとモンテ・ローザ、そしてミシャベル連峰が続いていた。
ここから見るマッターホルンはイタリア側に肩を突き出している。
貸切の展望台で飽かず眺めていると、大きなスピーカーが運び上げられ、中継駅から大勢の人たちが上がってきた。発達障害のある人たち、体が不自由な車椅子の人たち、彼らに付き添う人たち、そのグループのスタッフらしい人たち、その中に数人、楽器を持ち民族衣装をまとった人たちがいた。
展望台でコンサートがあるらしい。その日の催しを期待する、彼らの純粋な目には我々東洋人の存在が奇異に映ったのか、何となく違和感を覚え、そこそこに下山した。
ロープウェイの山麓駅からヴェルビアに下りるルイネット駅まで、山腹を小さなシャトルバスが走っている。歩けば一時間余りかかる車道であるが、眺めが良いのでバスに乗る客は殆どいない。ヴェルビアは相変わらず地元の若い観光客で賑わっていた。ポストに下る途中のレストランでビールとピザの昼食をとり、バスと鉄道を乗り継いでマルティニに戻った。
SBBのインターシティ特急でフィスプまで行き、駅前からポストバスに乗りサース・フェーに向かった。
サース・フェーはドーム、テッシュホルン、アルプフーベル、アラリンホルンなど四千メートル級の山々によってツェルマットと隔離され、氷河に囲まれた村である。バスは氷河急行の線路に沿ってマッター渓谷を上がり、シュタルデンでツェルマットへの分岐を右に見て、サース渓谷に入った。
この谷の奥にサース・グルンド、サース・フェー、サース・アルマーゲルがあり、スキーや登山、ハイキングの基地になっている。
サース・フェーの入口には大きな駐車場があり、ガソリン車は乗り入れ禁止になっている。村には、電気自動車とポストバスしか入れない。ツェルマットは日本人も大勢訪れる国際観光地であるが、サース・フェーは地元のリゾート地といった観がある。それでも、街中で数組の日本人のツアー客を見かけた。
予定していたアラリンホルン登頂を諦めた我々は、サース・フェーで有名アルペンプルーメン・プロムナドを散策し、高嶺の貴婦人エーデルワイスとの出会いを期待した。
この旅の終わりの三日間、少し贅沢に、四つ星ホテル・メトロポールに泊ることにした。前日マルティニから送ったスーツケースは、サース・フェーのポストに届いていた。
サース・フェーの街は十五分も歩くと山に突き当たる。
ホテルのディナーは高級フランス料理だが、ドローネの特別料理を食べた後では、ありきたりだった。スイスの白ワインはシャルドネが主流で、香りと腰の強さに特徴をもつが、赤は平凡なものが多くフランス料理との相性もよくない。
どこの民族も食を楽しむ文化をもつ。しかしながら、素材の鮮度や特長を見分け、繊細な香りと味の違いを愛でる伝統は、特定の地域で育った人たちに限られるのではないか。
スイス・ドイツ語圏の街で美味しいものを食べたいときは、スイスの郷土料理かイタリア料理店を選ぶのが無難だ。