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ミルフォード&ルートバーン・トラック

ニュージーランド旅行

ニュージーランドはオーストラリアの南東2000kmに位置し、面積27万500k㎡(日本の約4分の3)、ちぎれた長靴の形をしており足首の部分が北島、脛の部分が南島で2800k㎡先に南極がある。
人口は430万人、我々が訪れた2001年当時は380万人だった。住んでいる人より羊の数の方が多い。時差の3時間分だけ日本より東に位置する。スポーツが盛んで、ヨットレースの最高峰アメリカズカップではアメリカと並ぶ常勝国であり、ラグビーのオールブラックスは世界ランキングで常に上位に位置する強豪、登山やトレッキングも盛んで、エベレストを初登頂したヒラリーはニュージーランド出身である。
その頃、TVで豊かな自然を満喫できるニュージーランドのミルフォードトラックが紹介され、引退したばかりのテニスプレーヤー伊達公子氏が出演していたので、このトレッキングになおさら強い関心を持った。
インターネットで調べるとミルフォードとルートバーントラックを組み合わせたトレック・ツアーがあり参加することにした。
日本とは季節が逆で、我々が出発した11月の終わりは春の初めであった。
ミルフォードとルートバーンは南島の南にあるテアナウを基地としている。ニュージーランド南島の中央を縦断しているサザン・アルプスの影響で西海岸から山間部にかけて多量の雨や雪が降る。この温暖多湿の気候が、かつて日本のいたるところで見られたブナの森を育み、未だ豊かな自然が残されている。このトレッキングでは日本で失われた自然や森が見られると期待した。
 11月26日に成田を発ち、シンガポール経由でクライストチャーチへ、1泊後クイーンズタウンに移り、観光とトレッキングの準備、翌朝バスでテアナウへ、ここから船で最初の宿泊地グレイドハウスに向かう。ミルフォードの山中を三泊してトレッキング終点のサンドフライポイントへ、ここから船で最終宿泊地のマイターピークロッジへ、翌日はミルフォードサウンドのクルーズ、午後バスで再びテアナウへ、ホリディインに1泊し、翌日からルートバーントラックに参加した。
ルートバーンは二泊三日で歩き、バスで再びクイーンズタウンに戻った。
翌日は北島のオークランドに移り2泊、市内観光と湾内クルーズを楽しみ、シンガポール経由で12月10日成田に戻った。14泊15日の行程だった。

ニュージーランドの略図

 ニュージーランド全図
ニュージーランド南島

クライストチャーチ(CHC)

 人口34万人、南島で最も大きい美しい都市、イギリス風な落ち着いた街である。大聖堂を中心に街が広がっている。公園が多く、いたるところに花が咲いていた。
シンガポールを経由した成田からの直行便は翌11月27日の昼前に郊外の空港に着いた。

CHC空港
CHC空港正面

 市内へは空港バス(Big Red Bus)を利用した。

市内へのバス停

昼頃、大聖堂近くのThe Heritage Christchurch Hotel にチェックイン。

ホテル  Heritage Christchurch

 時差ぼけもなく、荷物を置いて直ぐ市内観光に出かけた。
市内中央にある大聖堂はゴシック様式で、尖塔の高さ63m、最上階の展望台から街が見下ろせる。

大聖堂
大聖堂前の広場
広場でチェスを楽しむ人々
現代風なモニュメント

大聖堂前の広場には現代風なモニュメントがあり、屋台が出ていた。

大聖堂展望台から見下ろすCHC 左手奥に住宅街が見える

市内観光は路面電車・トラムとシャトル・電気バスを利用した。

市内を走る路面電車
トラムの車掌さん
無料のシャトルバス

市内を東西に循環するトラムは車掌が観光案内をしてくれ、便利だった。
一日券で乗り放題。一方無料のシャトルバスは街を南北に循環していた。
本格的なシーフード料理を楽しめる店とガイドブックにあったPescatoreを探して4時間ほど市内を歩き回り、やっと見つけた目的地は閑静な住宅街に立つオフィスビルの2階にあった。この店は洒落たイタリア料理店だったが、予約が必要で断られ、なおさらに疲れた。
花で囲まれた住宅街の家々はガーデニングが見事だった。

花に囲まれた住宅

再び大聖堂に戻り、夕食は北側のコロンボ通りの2階にあったThe Mandarin、ガイドブックでは本格的中華料理とあったが平凡な家庭の味だった。CD(カンタベリービール)が旨かった。

翌11月28日、トラムに乗ると、車掌にブタニックガーデン(植物園)を勧められた。
園入口で案内車に乗り広い園内を巡回、バラ園、NZの巨木が見事。

園内には250種のバラがあるという
園内の巨木

植物園を出て市内観光

トラム停留所近くにあったアートセンター
見学に来た子供たち

その日の午後、バスで空港に戻り、QTN(クイーンズタウン)に向かった。

CHC空港

クイーンズタウン(QTN)

南島中央を横断するサザン・アルプスの山々に抱かれ、氷河に削られたワカティブ湖に沿って広がるクイーンズタウンは、風光明媚な観光地でビクトリア女王の名に相応しい街といわれている。
CHCからQTNまでは1時間のフライト、Air NZ.のB-737はValleyを縫うようにして着陸、タクシーで市内のホテルに向かった。

QTN空港 山々に囲まれている
QTN空港 B-737

ワカティブ湖畔に沿うビーチ通りのParkroyal hotel にチェックイン、
ショッピング街のスポーツ店で、トレッキングに必要な地図、帽子、バーナーを購入、
ゴンドラで市内を見渡せる標高790mのSkyline Complexへ上った。
展望台からの眺めはQTNを眼下に、遠くサザン・アルプスを望み、別世界のごとし。

サザンアルプスに囲まれたワカティブ湖
ワカティブ湖畔に広がるQTN
QTNの街

 空には当時まだ珍しかったパラグライダーが舞っていた。

QTNを舞うパラグライダー

18時からDOCの事務所でミルフォード・トレッキングの説明会があった。参加者46人のおよそ三分の一が日本人だった。
20時に湖畔のBoardwalk Seafood Restaurantを予約、しばらく席が空かずバーでビールとバーボンを飲む、テラスのテーブルに移りサーモンのサラダ、生牡蠣、メインディッシュはラムステーキ、どれも格別に旨し、ニュージーランドのシャルドネがとても美味しかった。23時ホテルに帰った。

ワカティブ湖畔中央がパークロイヤルホテル、右手前がレストラン
ワカティプ湖畔の夕暮れ  

ミルフォードトラック

 ミルフォードトラックはニュージーランド南島の南西部にあるテアナウ湖の北からクリントン渓谷を遡り、マッキノン峠を越えて北上し、サザーランド滝を源流とするアーサー渓谷をタズマン海のフィヨルド、ミルフォードサウンドまで下る全行程五十四キロのトレッキングコースである。

ミルフォードトラック行程

1880年ミルフォードサウンドの移住者がアーサー渓谷上流にサザーランド滝を見つけサザーランドトラックが開拓されたが、その先は岩壁に阻まれていた。
当時、南島中央部のオタゴ地方からミルフォードサウンドへ連なるルートの開拓が要請されていた。
1888年マッキノンがテアナウ湖北岸からクリントン渓谷を上り峠にたどり着いた。彼は岩壁を迂回しアーサー渓谷側に下山するルートを見出してミルフォードサウンドに到達した。ニュージーランド政府はこのルートを整備し山小屋を建てトレッキングコースとした。
フィヨルドランド国立公園中心部の渓谷とブナ林の中を歩むこのコースはミルフォードトラックとして有名になり、「世界で最も美しい散歩道」といわれている。
フィヨルドランド国立公園にはたくさんのトレッキングコースが設けられ、世界中のハイカーたちが集まってくる。
ニュージーランドの国立公園や森林公園はDOC(自然保護局)の管理下にある。一泊以上のトレッキングをする時はDOCに届け出る必要があり、山小屋を利用する時は使用料を支払う。公認ガイドと認可を受けたツアー会社だけがトレッキングガイド業を認められている。
インターネットで調べると、ニュージーランドのウルチメイトハイク社がミルフォードとルートバーントラックを組み合わせたガイド付きトレック・ツアーを募集しており、早速申し込んだ。トレッキングシーズンが始まる半年前のことであった。ミルフォードトラックが四泊五日、ルートバーントラックが二泊三日、中一日をテアナウで休養し、ツアーの前後はQTNに泊まる九泊十日の行程である。
我々が参加したツアーメンバーは四十六人、アメリカ、日本、カナダ、イギリス、オーストラリア、それに地元のニュージーランド、日本人以外は殆どの人たちがカップルで世界中から集まっていた。日本人はアメリカに次いで多かった。我々二人を入れて十三人、山の会の十名が団体参加していた。
トレッキングに必要な物は一組の着替え、上履きのスリッパ、パジャマ、髭剃りと化粧品、サンドフライ防虫剤、ストック、保温水筒、カメラとフィルム、ヘッドランプだけである。
トレッキング中の飲み物はガイドが用意し、ロッジではビールにワイン、ジュース類が購入できる。ザックと雨具、シューズも借りられる。日本人は全て自前の高級装備を身につけていたが、外国から来た人たちはこの嵩張る三点セットを持参せず借用品を使っていた。
翌朝、11月29日、ホテルに貴重品を預け、チェックアウトを済ませてステーションに集合、バスはテアナウに向け9時半に出発した。
クイーンズタウンを出てワカティプ湖の東岸を巡り、そのままハイウェーを南下しラムズデンから西に方向を変えテアナウ湖南端にあるトレッキング基地の町テアナウに向かった。
クイーンズタウンからテアナウまでのハイウェーを百七十キロ、荒涼とした牧草地に外来種ルピナスの群生、羊の群れ、牛の群れ、それとテアナウに近づくと牧鹿の群れも、人家がなく、まして人の姿はなく、時おり車が行きかう、まるで異次元の世界を走るようだった。ポイントごとにドライバーの説明があり、ニュージーランド訛りの洗礼に驚いた。
十二時、テアナウのセントラホテルに到着、ホテルではバイキング・ランチが用意され一時間の休憩を取った。

テアナウ湖に係留されたボート

テアナウ湖畔に出てみると、シーズンオフで静かな湖にマウントクックから飛行機が着水し、桟橋にパイロットと客一人が降りてきた。ホテル前でツアー参加者四十六人の集合写真を撮り、いよいよトレッキング出発地テアナウダウンズへ向かった。テアナウ湖東岸を遡りテアナウダウンズでバスを降りると小雨が降っていた。

テアナウ湖 テアナウダウンズからグレイドワーフへ向かう

桟橋を渡って大型ボートに乗りテアナウ湖を北に向かう。小雨に煙る両岸に山が迫り、次々と入江を縫って奥へ進み行き着いたところがグレイドワーフの桟橋である。いよいよここからトレッキングが始まった。
最初の宿泊地、グレイドハウスまで1.2km、15分で着いた。インターネットで見覚えあるロッジと大きな標識が出迎えてくれた。

最初の宿泊地 グレイドハウス

 広々とした草原にたたずむロッジは正面本棟の奥に幾つかのコテージが渡り廊下でつながり、別棟にユーティリティ小屋がある。
ミルフォードトラックが拓かれたとき、1896年最初に建てられたロッジである。入口で管理人が到着の確認と部屋の割り当てをしていた。日本人には奥のコテージが与えられ、部屋割りは仲間うちで決めてくれという。コテージは小さなラウンジと八人用のベッドルーム二つ、四人用ベッドルームが一つ、それに二つのバスルームがついていた。
部屋割りを決める折、間髪入れずに団体のおばさまが男性四人を小部屋にと発言があり、夫婦が個人で参加しているのだから団体グループに入れられるのは不本意だと異を唱え、結局、我々夫婦と一人で参加した横浜の女性が小さなベッドルームを使うことになった。勝手気ままなおばさま方の言いなりでは我が身の置き場もなくなるものだ。
同じ大きさのバスルームが二つ、男性四人に対し女性は九人で不均等だと、またまたおばさまの口が開いたが、男性側バスルームを女性も使えるよう提案し納得してもらった。
さて、荷物を置いてロッジ周辺の自然観察に出かけた。トレッキング初日は殆ど歩かず余裕があるので組まれた行程のようだ。時刻は夕方四時前、まだ日が高かった。
全体を三グループに分け日本人のグループはチーフガイドのイアンが引率した。
氷河で削られたクリントン渓谷は二千メートルクラスの峻峰に囲まれ、グレイドワーフからマッキノン峠に至る標高五百メートルの辺りまでブナの森が続く。トラックはロッジを過ぎた少し先で大きな吊橋を渡りクリントン川の右岸から左岸に移る。

クリントン川
クリントン川の吊り橋

 イアンの案内で定員五人ずつ恐る恐る吊橋を渡った。しっかりした七十メートルほどの吊橋だが大きく揺れた。橋上から川面までの距離は五、六メートル、大きな鱒が数匹清流の中を悠々と泳いでいた。鱒と同じぐらい太いうなぎが一匹川底にじっとしていた。
吊橋を渡るとトラックを外れ森の小道を進み、鬱蒼とした森の中でイアンが皆をとどめ植物の説明を始めた。
ミルフォードには四種類のブナがある。この辺は赤ブナが多いが、標高を増すと山ブナが茂る。ほかに黒ブナと銀ブナがある。倒木の切り口を示し説明してくれた。日本産のブナに比べ葉が極端に小さい。常緑樹でイヌツゲのように細かな葉は春に生えかわる。ブナの落葉が森の腐葉土になっていた。
イアンの英語はニュージーランド訛りの巻き舌で、おまけに耳慣れぬ植物名が混ざり尚更聞き取り難かった。薬用潅木、コショウの木、シダ類、コケ類、菌類、原生林の中には珍しい植物がたくさん繁茂していた。
散策コースはトラックを一キロほど遡るが、あいにくの雨で吊橋を戻りロッジの裏山を観察した。

レッド・ファンギが密生したケルン

裏の原生林を進むとグレイド川に出た。川原にはケルンが積まれ、その先に登山道らしい跡があった。グレイド峠を経て二千二十五メートルのトライアングルピークに続いているという。聞くと、頂上までは六時間かかるそうだ。

テアナウ湖の先に聳える山

 レッド・ファンギーが石に密生しベンガラを塗ったかのように見える。辺り一面繁殖し川原を赤く染めていた。
ガスが切れ、目の下にテアナウ湖が現れた。水墨画のようだ。
暫く景色をたんのうし、原生林に戻る。サルノコシカケそっくりなブランケット・ファンガス、下半分が真っ白い毛布のように見える。原生林の妖精、ゴブリン・モス、木の枝に垂れ下がった姿は薄暗がりのお化けだ。写真を撮るうち一人残され気づくと目の前に小鳥がいた。

人懐っこい鳥 ファンテイル

 カメラを向けたら、しきりに尾を羽ばたかせ、自慢の尾羽を撮ってくれとばかり体の周りをくるくる回る。せがまれてシャッターを押し続けるうちに皆からすっかり遅れてしまった。待っていたガイドのイアンから、その人懐こい鳥はファンテイルだと聞いた。
ロッジに戻りシャワーで体と髪を洗いさっぱりした。濡れたシャツとズボンをユーティリティ小屋に持ち込んだが、既に乾燥室のロープは洗濯物が一杯で、我々の衣服を干す余地はなかった。先占物を少しずつずらして隙間を作り、自分の衣類を重ねて乗せた。
あらためて洗濯物を見ると婦人の下着が所狭しとぶら下っていた。西洋の人たちは日本人のような羞恥感覚を持たないようだ。翌日から我々も下着を干した。部屋に帰る途中ラウンジをのぞくとバーが開かれ賑わっていた。七時の夕食まで間があり、我々も出かけていった。ビールを開けて周りを見ると、みな白ワインを飲んでいた。西洋の人たちの嗜好習慣は日本人と違うようだ。翌日から我々も郷に従った。
気がつくと指先や瞼が痒い。赤くはれていた。サンドフライにやられた。
ニュージーランドのトレッキングで最も気をつけるのは、蚋の一種、サンドフライ対策で、どのガイドブックにも書かれ、事前の説明会でも真っ先に注意された。現地で防虫薬を買い、日中はこまめに塗ったが、シャワーでさっぱりした後、素肌のまま外に出て彼奴の餌食になったようだ。幸い、痒みはいっときで遠のいた。
四十六人分の食事は半端でない。ロッジには炊事スタッフが数名いて、夕食の準備をしていた。その中に日本人の若い女性がいた。ガイドの英語に苦しんでいたので救いの神だった。食事の取り方、その後のパーティと自己紹介について日本語で教えてもらった。
夕食はカフェテリア方式で肉と野菜を選べる。ベジタリアンも歓迎される。味付けはどれも甘さがベースだが、山小屋の食事としては上出来だ。砂糖大入りニュージーランド風デザートのパイを、ブラックコーヒーのお代わりでしのいだ。
食後はロビーで国別順に自己紹介が始まった。陽気なヤンキー、シャイなジェントルマン、率直なカナディアン、豪放磊落なオーストラリアン、どこか日本人と似ているニュージーランドの人たち、カップル単位で前に出て、大方は男性が話し、女性はファーストネームを名乗り微笑むだけだが、なかに饒舌なご婦人もいた。おしなべてユーモアに富み、二度、三度とみなを爆笑させたが、残念ながら日本人だけは意味がわからずシーンと聞いていた。
日本の番では、まず練馬から来た山の会の人たち十名が会長の代表挨拶後一同笑顔で頭を下げた。
我々夫婦もありきたりの自己紹介をし、このトレッキングで心にトラブルを生じる人がいらしたらセラピストの妻が日本語でカウンセリングしますと結んだところ、不発に近い笑いがあった。横浜から一人で参加した五十代の独身女性は名前を言って会釈した。
締め括りに国別の歌を披露した。それぞれ聞き覚えのある曲だったが、どうも替え歌らしく爆笑が続いた。西洋人は遊び方が上手い。日本人グループの「上を向いて歩こう」、すき焼きソングが終わるころ四十六人は打ち解けていた。
自己紹介の後にはゲームがあり、参加者が多いアメリカと日本の対抗戦になった。玉球吹き合戦とでも言おうか、卓球台をはさんで四人ずつが向き合い、台上のピンポン球に息を吹きつけて相手側のエッジから吹き落とすのである。パーティの進行役、ガイドのスコットが選手を指名した。
日本代表は我々二人と、練馬・山の会会長、横浜の独身女性、アメリカ代表は体格のよい初老のご夫妻とロサンゼルスから来た中年の独身女性二人組みであった。代表選手が四人ずつ並ぶと、体格的には曙軍団に対抗する舞の海チームという様だった。スコットは自己紹介で印象深かった人たちを選んだようだ。
卓球台にピンポン球を載せ、いざ戦闘開始。頬を膨らせ大きく息を吹きつけるとピンポン球は勢いよく飛び出していくが、中央ラインを超え敵側のエッジに迫る辺りで急に減速する。慌てずに大きく息を吸い込んで顔面十センチ先に来たピンポン球に向け息を発射する。あわやという場面は幾度もあったが互いに譲らず、台上をピンポン球が行き来した。対戦国の応援団ばかりかパーティ全員が卓球台を取り囲み、やんやの声援が続いた。競技が続くうち、敵の弱点が見えてくる。肺活量の大きさが球速に比例する。我が相棒は喘息持ちで段々呼吸が乱れてきた。ピンポン球が中央ラインに届かぬうちに押し戻される。敵はここぞとばかりに攻めまくり、とうとう力尽きてしまった。選手たちは息も絶え絶え、四十六人は互いに握手、肩叩きあって楽しんだ。
 翌朝も小雨が降っていた。
七時に起床、ラウンジではストーブが燃え、コーヒー、紅茶に果物、温かいミルクが用意されていた。朝食までの時間、ラウンジにいると昨夜の対戦相手が話しかけてきた。彼女たちは山仲間で、ロッキーへはよく出かけるとのこと、インターネットでこのトレッキングを申し込んだ。家族のこと、趣味のこと、いろいろ話したが、どの程度理解してくれたか不明である。時々会話が途切れ、身振り手振りに日本語が混じる。先方も意思の疎通が覚束なく疲れるであろう。しかしながら、さすがヤンキー娘、その後も度々話しかけてきた。
朝食は先ずパンが出て、次に温かいソーセージやベーコン、卵料理が出る。パンだけで終わるのがコンチネンタル、ロッジの食事は質素でなかった。
朝食後、各自ラップに包んだサンドイッチを取り、自分の荷物に入れた。
準備を整えロッジ前に集まり、雨具とスパッツを着けた。
出発は九時、その日の行程はポンポロナ・ロッジの泊り場まで十六キロを五時間で歩く。一番若いガイドのスミスが先導し、三々五々歩き出した。馬車が通れるほどの広い道で、二人並んで歩ける。五人定員の吊橋で渋滞したが、直ぐに列は伸び先頭が遥か先に見えなくなった。先を競うわけでなく、マイペースでゆっくり進んだ。
すぐに個人トレックの人たちが利用するクリントン小屋の標識が現れた。
二百メートルほど分岐路に入ると清潔な泊り場とトイレがあり、個人トレックの人たちが数人出発準備をしていた。小屋の裏は草原で見通しがよい、ガスの先に山が見えた。

自然観察の遊歩道があり、ガイドの説明を聞きながら一巡した。
サンドフライの食虫植物が湿地の底に赤く毒々しい花弁を開けていた。

サンドフライを捕らえる食虫植物

暫らく行くと、右手前方の山の岩肌に幾つかの白い筋が見えた。ヒレレの滝だ。

ヒレレの滝

ヒレレの滝のランチ小屋に近づくころ沼地があった。

沼の中で立ち枯れた木々に苔が密生し、えもいわれぬ光景を作り出している。大正池の太古版という様はニュージーランドでしか見られない。
苔や菌類、シダ類など原生植物がたくさん生き残っていた。
カナダ人ご夫妻が一つ一つの植物を丹念に接写レンズで撮っていた。
ランチ小屋に着くと既に先陣が出発するところだった。濡れた雨具を脱ぎ、ザックからサンドイッチを取り出すと潰れていた。ぺしゃんこでも味に変わりはないけれど、劣悪な状況でのランチは気がめいる、せめての救いは温かいトマトスープで、粉末を湯で溶いたコンソメ味の本格スープであった。
混雑した小屋で震えながらランチを済ませると早々に出発した。標高は出発地のグレイドハウスと殆ど変わらない。赤ブナの林が続いていた。
やがて渓谷が開け草原に出た。

 小雨が止んでゴアテックスの上衣を脱ぎ腰に巻いた。
小さな標識があり、分岐点の左奥にヒドン・レイク(隠された湖)があった。見上げる岩壁から落ちる長く白い筋が静かな湖面に吸い込まれ、番いの水鳥が湖面に写った白い影と戯れていた。

ヒドン・レイク(隠された湖)

その夕べ、ラウンジの話題はヒドン・レイクでの水浴、オーストラリアのご夫妻があの摂氏十度前後の寒さの中を湖に入り泳いだそうだ。ポパイの宿敵ブルータスのようなご主人に引けを取らない奥方が嬉しそうに太い声で話していた。
日本人は直ぐに心臓麻痺などの心配をするが、さすがオーストラリアンは豪快だ。
分岐点に戻ると深い渓谷の遥か先に峰々が見え、マウント・バルーンとマウント・ハートに挟まれたマッキノン峠がはっきり姿を現した。

翌日の峠越えが晴れればミルフォードトラックのハイライトをたんのう出来ると期待をかけた束の間に雨が降ってきた。
道は再びブナの林に入った。
雨の中をひたすら歩むと左に小さな避難小屋があり、その先の川を渡ると直ぐポンポロナ・ロッジに着いた。まだ三時前だったが雨天のせいか薄暗かった。
ロッジは斜面に建てられ、ラウンジと食堂、二つのコテージが一段ずつ上に延びている。ラウンジと食堂、調理場、管理人室は二フロア―で棟続きだが、二つのコテージは屋根付きの階段でつながっている。下のコテージにシャワールームがあった。
管理人の中年女性に到着を報告し部屋割りを受けた。六人部屋はイギリス男性が下のベッドを占有していた。空いたベッドに荷物を置き、相棒の所在を捜しに行くと、上のコテージの女性部屋に入っていた。
シャワーを浴びて衣類を洗いに下の流い場へ降りると、ここも先発組で混んでいた。流しが空くのを待つうち、またもやサンドフライにやられた。そのときの彼奴は獰猛で痒みが四、五日続いた。
部屋に戻るとヒレレ滝の沼地で追越したカナダ人のご夫妻が到着していた。ここは男部屋でないらしい。部屋割りをしていた管理人を捕まえ事情を言うと、我々の名前を夫婦と理解せず他人であると勘違いしたそうで、さっそく相棒を部屋に呼び寄せた。
五時半からロッジのバーが開き、その夜は白ワインを飲んだ。
六時から翌日の説明会があった。その日の行程もスライドに映され、・・れば・・たらの素晴らしい景色を見せてくれた。
七時から夕食、英語圏の人たちとの同席は疲れる。
十時の消灯までラウンジは開いていたが、非英語圏の人たちは早々と自分の部屋に帰った。
十時に相部屋のカナダ人夫妻とイギリス紳士が戻るころ、我々は夢の世界にいた。
 翌朝は六時に起床、激しい雨が降っていた。
ラウンジに行くと十数名の人たちがコーヒーや紅茶を手に緊張した面持ちで外を見ていた。
その日の行程は、標高差七百メートルを登りマッキノン峠を越え、アーサー渓谷を下り、クインティンロッジまで十五キロを七時間かけて歩く。雨が降ると厳しい一日になり、南極から強い南風が吹くと夏でもマッキノン峠は雪になる。
朝食は予定よりも早く七時に済んだ。
七時半、先発隊はマッキノン峠を目指し出発し、我々も直ぐ後を追った。
外気温は五度、峠では吹雪になるかも知れない。ブナ林が終わるころ個人トレックの人たちが利用するミンタロ小屋の標識が見えた。
腕につけた高度計は六百メートルを指していた。前線が通り気圧が降下していた。
小さな釣橋を渡り道はジグザクの登りにかかったが、喬木が潅木に変わり大きな折り返しを六つ数えるとなだらになり早くも峠に近づいた。
高度が上がり、遮るものがなく、雨と風が一層強く感じられた。突然目の前にインターネットで見覚えがあるマッキノンの記念碑が現れた。風を避け大釣鐘状に石を積み上げた記念碑の裏側にまわると数人が休んでいた。
峠付近は見晴らしがよいはずだが、五十メートル先も見えない。留まると、雨に濡れた冷たい手袋の先から体中に寒さが広がってきた。早々に避難場所を離れ峠の小屋に向かった。
記念碑のあたりは幾つかの小道が入り組んでルートが分かり難くなっている。注意深く標識を捜し草つきの岩地を東に向かった。道ははっきりしていたが、直ぐ近くにあるはずの避難小屋がなかなか現れず、気合を入れて進んだ。手元の外気温は三度、冷たい雨と強い風のせいで体感温度は氷点を越えていた。
記念碑を離れ三十分が経っていた。またも突然、道の向こう側に避難小屋の大きな屋根が見えた。道を下り小屋をまわると入口が二つあり、部屋は個人トレックとガイド付きトレックに区分されている。
ドアを開けると暖気が待っていた。壁に架かった大きなガスヒーターが二つ赤々と燃え、先行組が暖を取っていた。我々もザックを下ろし、ゴアの上着を脱ぎベンチの席を確保し、さっそく熱いトマトスープを飲みながらサンドイッチを頬張った。小屋の中は狭く、互いの濡れた衣服が触れ合った。
皆が寒さで赤い顔をしていた。
ニュージーランドの人たちは、この冷たい雨の中をゴム製の短い雨合羽と半ズボンで腿から下をずぶ濡れに平然と歩き、暖かい小屋の中で彼らの脚はピンクに染まっていた。長年の習慣が遺伝子を変えたのか、我々にはとても真似ができない。我々の衣類はポリエステル・マイクロフォローファイバーの下着に薄手のフリース、下着と同じ素材のロングパンツを着け、中厚のゴア上下を雨具兼アウターとしていた。
小屋で暖を取るうち、下着の汗は直ぐ乾くので衣類の雨と寒さ対策に不満はなかったが、唯一の失敗はフリースの手袋で防水が必要だった。
続々と後続集団が到着し、小屋の中は立錐の余地がないほど込み合ってきた。ランチが済むと早々に、まだ体が温まらぬまま、裏にまわりトイレを使い、身震いしながら冷たいゴアを着け出発した。
クインティンロッジまでは六キロを三時間で下る。行程の標高差は九百メートル、ルートはアーサー渓谷からマッキノン峠を見上げる垂直の岩壁を避けて右に大きく迂回する。峠の西にマウント・バルーンの裾野を巻いてジグザクに下り一時間ほどでローリング川の源流に出た。
マウント・バルーンから雨が溢れ落ち、源流近くの草つきの岩斜面一帯が洪水になっていた。ローリング川の渡渉地点はロープが張ってあったが、膝近くまで水を潜り流されそうになりながら辛うじて渡った。渡渉地点の先で赤いパーカーを着た若い女性のDOC管理官が一人、大雨の中トランシーバーを片手にトレッカーたちの渡渉を見守っていた。その傍らにキーアが一羽、管理官と同じ姿勢でじっとうずくまりトレッカーを見ていた。DOC職員のつもりか、まさかのときは管理官を補佐しどんな役目を果たすのか。

渡渉を見守るキーア

この地点が著しく増水すると通行できず、トレッカーはヘリコプターでロッジまで運ばれるという。ローリング川の左岸を下っていくと木道になる。木道の板一枚一枚に金網が張り付けられビブラムの靴底が滑らぬ配慮をされていた。
木道が切れ吊橋を渡るとブナの森に入った。原始の森には羊歯や苔が繁茂していた。

再び急斜面をジグザグに下ると道はなだらかになり、T字路の分岐点が現れた。標識に従い左に進むとクインティンロッジの広場が見えた。
手前が個人トレックの小屋で、奥の大きな建物がガイドツアーのロッジである。到着は午後二時半、朝ロッジを出てから七時間かかった。ずっと強い雨が続いたので、景色に感動しカメラを出す余裕もなかった。渡渉に手間取ったにもかかわらず予定通りのコースタイムだった。高低差がある割にトラックが整備され楽に歩けた。マッキノン峠での寒さも計算に入れていた。しかしながら、ローリング川の増水には驚いた。源流付近では瀬を歩くようだった。ニュージーランドのトレッキングでは靴の中に水が入るをいとわない。ロッジで管理人の女性に到着を報告し、部屋まで案内してもらった。
その日は、先頭グループの数人に次いでロッジに入ったらしく、中庭に面した個室を占有できた。管理人から「濡れた上衣からキーを出して、ベランダの手すりに掛けなさい」と言われたと思い、上衣のキーに疑念を抱きながら、濡れた衣服を室内に持ち込んではいけないと勘違いし、ゴアを脱いで外の手すりに掛けた。それを見ていた管理人が雨具を手にすっ飛んできた。
彼女は我々に雨具の破れた箇所を見せ、「衣類や靴を外に置くと、このようにキーアが鋭い嘴で穴を開けるからベランダに出してはいけない」と身振りをまじえ注意してくれた。
 その日、次の行程はサザーランドの滝を見物に行く。我が相棒は、雨中の七時間とローリング川の沢歩きで疲れたらしく、サザーランドはパスすると言い、さっさとシャワールームに行ってしまった。
ベランダから見ると小降りになっていたが、外に出ると依然として強い雨が降っていた。個人トレック小屋の先に標識があり、サザーランド滝への道がブナの森の奥に続いていた。
この道はミルフォードトラックで一番歴史がある。急坂を上ると滝の轟音が聞こえてきた。百二十一年前、滝の命名者、サザーランドが友人とアーサー渓谷を遡り、このあたりで移住者としては初めてこの轟きを聞いたのだろう。彼らはアーサー川を探検するにあたり、先住民から壮大な滝の話を聞いていたのかもしれない。大雨でアーサー川の水面が渦を巻いて歩行路に迫っていた。

アーサー川の奔流

北アルプスの黒部で台風に遭ったことがある。薬師沢出合いにいたが、黒部本流の水嵩が見る見る増えて、あっという間に三メートル近く水位が上り大吊橋が押し倒されそうだった。一抱えもある大きな岩がピンポン球のように跳ね返りながら流れていった。その時の奔流をまざまざと思い起こした。
滝壷あたりまで十数メートルに近づいたが、水飛沫の風圧でその先に進めなかった。渇水時には滝潜りが出来るそうだが、荒れ狂うサザーランド滝の素顔も拝めなかった。
翌日の行程説明会は夕食後の八時に変更された。日本人グループが夕食を済ませると、団欒の輪に入らず、さっさとベッドルームに戻るのを見かねた対応と理解した。シャワーと濡れた衣服の始末を終えて夕食までの二時間は長かった。
ロッジの暖炉で暖まりながらストレッチをしていると陽気なヤンキー娘がやってきて、「サザーランドの滝に行きましたか?」
「物凄い水量と風で何も見えなかった。あなた方は?」と問い返すと、
「遠くからちらりと見たけど、近づいたらハリケーンに遭ったようでした」「ナイアガラ・ホールに似ていますね」と切り返すと、話題が止まり、行きつ戻りつしているうちに、互いにナイアガラの滝を経験していることが分かった。
「ああ、ニアガラ・フォールね」

  翌日は二十二キロをひたすら歩く。
朝、ベランダに出ると雨が上り広場に靄が立ち込めていた。
昨夜、ベランダでこつこつ音がした。人の足音ではない、うつつは何かと思いながら眠ってしまった。音の主はキーアだった。ベランダにタバコの吸殻が散乱していた。昨夕遅くまでヘビースモーカーのカナダ人ご夫妻が喫煙用ベンチに座り雨に煙る広場を眺めながら一日分の紫煙をたなびかせていた。吸殻入れが鶏舎の餌箱のような形をしているのでキーアが間違えたのだろう。人まねしたがるキーアはタバコの味を覚えたのか、フィルターまで啄まれた残骸がベランダ一面に散らばっていた。
 その日は早めに身支度を調え集合時間前にロッジを出た。
既に数人が集まり、ガイドの動きを注目していた。七時半、ガイドのスミスが歩き出すと我々も彼らと共に従った。集合時間の十五分前だった。
道は森の中を進む。小川を幾つも渡りどんどん下る。右手にマウント・エリオットの山裾から無数の滝が流れ落ちていた。先頭グループの歩きは速かった。リズムを取って呼吸を整えながらひたすら進んだ。アーサー川の左岸に出て暫らくすると個人トレックの人たちが使うダンプリンハットに着いたが、ザックを下ろさずトイレ休憩もせず、そのまま次のポイントに向かった。崩壊地を過ぎると再び森の中に入った。巨大なブナの大木に苔が密生し、根元には羊歯のクラウンが繁茂していた。道はゆるい下り勾配で、ほとんど小走りに進み、ボートシェッド小屋に着いたのは先頭のガイドとイギリス紳士の二人連れに次ぐ三番手であった。
熱いお茶が入るころ後続集団が続々到着してきた。その日の行程は最終ポイントまでお茶のサービスはない。ポットに熱い紅茶を詰めガイドの出発を待つうち、また雨脚が強くなってきた。
これだけ雨が続くと誰でも山を下りたくなる。休憩もそこそこに皆は出発の準備をしていた。給茶サービスが一段落し、ガイドのスミスが腰を上げると待っていた人たちが一斉に動き出した。
アーサー川に架かる長い吊橋を渡ると森の中を木道が続く。マッカイ・クリークに架かる吊橋を渡ると分岐点がありマッカイ・フォールズへの道があるが、数人はそのまま下山のメインルートを進んだ。再びアーサー川に近づき、ポセイドン・クリークに架かる吊橋を渡る。雨が小降りになり、アイダ湖が現れた。
ガイドのスミスはマッカイ・フォールズの説明に残り、我々のグループがトップを歩いていた。ブナの森をどんどん進むと避難小屋があり、個人トレックの人たちが休んでいた。十二時前であったが我々もトイレを使い昼食にした。
朝食に出たリンゴを二つザックに入れてきた。ニュージーランドのリンゴは酸味があって美味しい。小ぶりのリンゴを丸ごと齧り、懐かしさを味わった。ポットの紅茶でサンドウィッチを頬張り、お腹を満たした頃ガイドのイアンが到着した。昼食場所は少し下にあるジャイアントゲート・フォールズとのこと。我々数人はそのまま出発したが、橋を渡ると、なるほど滝を見ながらお茶を飲むには格好の場所があった。
雨が降ったり止んだり、アイダ湖は時々姿を現し、正面にマウント・アイダやオデッセ・ピークが望まれた。このトレックで初めて見る山の景色にカメラを取り出しシャッターを切るうち相棒は道を急ぎ姿が見えなくなっていた。遅れじとピッチを上げたが、再々にマウント・アイダやオデッセ・ピークが姿を見せるのでその度にロスタイムが増え追いつくことを諦めた。

マイペースで歩くうち、前方に小屋が見えそれが最終地点のサンドフライポイントであった。雨は上っていた。
小屋の先に広場があって33.5マイルポイントの表示があり、その先に桟橋があった。相棒は濡れたゴアの上衣を広場に広げ、久し振りの日光浴をしていたが、そこは名にし負うサンドフライの広場、彼奴らが群がっていた。最終ポイント表示の前で完歩記念の自前の撮影を済ませ、早々に小屋の内に逃げ込んだ。

ミルフォーヂトラック最終ポイント
33.2マイル表示

小屋ではイギリス紳士二人が休んでいた。十分もするとガイドのイアンが到着し、お茶の準備を始めた。紅茶のお代わりをするうちに、三々五々と完歩者が増えてきた。時刻は一時半、ミルフォードサウンドへは三時の船に乗る予定であった。
こんな所でどうして時間をつぶそうかと思案している我々に、イアンが二時の船で先に行くかと問うを渡りに荷物をまとめ桟橋に行くと個人トレックの人たちを乗せた船が待っていた。

渡り船を待つ人たち

船は対岸のミルフォードサウンドまで直線距離で四キロ、半島を迂回して進むがあっという間に港に着いた。切り立つ断崖のいたるところから滝のように水が落ちていた。波止場に入る直前にひときわ大きなボーウェン・フォールズという滝があり、山頂から直接海面まで豪快に落下していた。船尾から入江の先を見ると氷河によって削り取られた垂直の壁がどこまでも続き靄にかすんで墨絵の光景だった。

ミルフォードサウンドからその日の宿、マイターピークロッジまではおんぼろバスに乗る。まだ閑散としたロッジでは連絡があったのか大柄な管理人が先行の五人を迎えてくれた。

マイターピークロッジ受付

ここは山小屋というよりもリゾートホテル風である。広々としたラウンジ、大きなダイニングルーム、フロントの前は土産物コーナーがあり品揃えが豊富だった。鍵の繋るツインルームの床にザックの中身を広げ、シャワーを使い、大きなベッドで久し振りに手足を伸ばした。後続組みが着くまではまだまだ時間があり一眠りしようかと思ったが、ランドリールームがあるのを思い出し、覗いてみると大型の洗濯機と乾燥機が据わっていた。早速部屋から二人分の汚れた衣服を抱え出し、洗濯機に放り込み、三十分後、また出かけ乾燥機に入れ替えた。お蔭で次のトレッキングに準備万端整えた。
後続部隊は三時と四時の船便で、集合時間までまだまだたっぷり時間があり、速く歩いた儲けは思いのほか大きかった。
六時からラウンジで完歩証の授与式が始まった。
ミルフォードトラック五十五キロの完歩証には主任ガイド、イアンのサインがあった。見開きに、トレッキング出発時テアナウのホテル前で撮った集合写真がA四サイズに引き伸ばされ、期待に満ちた顔々が微笑んでいた。
ヤンキー娘は最前列中央に、イギリス紳士の二人は二列目の左端に、ヒドン・レイクで寒中水泳したオーストラリアご夫妻は二列目中央に、ヘビースモーカーのカナダ人ご夫妻は後列の左端に、練馬山の会の人たちは右端にかたまっていた。そして、どういうわけか我々は最前列のヤンキー娘の隣に座っていた。集合写真のポジションはそれぞれの性格を表しているようで面白い。
もう一つ興味あることに、日本人は夫婦離れて写るもこだわらないが、西洋人は必ず夫婦が隣り合わせに位置せねばならず、この例外を見たことがない。完歩証は一人ずつ名を呼ばれ、イアンから手渡された。
名前を呼び上げるスコットの口調がおかしく一同その度に爆笑、我々も少しはユーモアを聞き分けられるようになっていた。西洋人たちは国が違っても英語圏同士で根は同じ、四日間のトレックですっかり友達になっていた。完歩証を受け取ると両手を突き上げ友達同士でエール交換していた。
日本人は経済面で対等になったが、文化的にはまだ国際化途上と痛感した。
八時からディナーが始まった。
大テーブルが五つ、練馬山の会が一つのテーブルを占有し、我々は日本人グループからはじき出された。英語圏の中で食事をするのは難行苦行、リゾートホテル並みの折角の料理が味気なくなると覚悟しながら席に着くと、目の前のニュージーランド女性が話しかけてきた。

Aご夫妻、隣のご主人は医者で、ご当人はニュージーランド三菱自動車に勤めているとのこと。子どものこと山歩きのことなど話しあううち、彼女は敬虔なクリスチャンで我々と同じ宗派のペンテコステに属すことが分かった。ニュージーランドではペンテコステは少数派でプロテスタントとは区別されているとも聞かされた。メール交換を約束し分かれたが、興味あるディナーのひとときで味の方はすっかりお留守になっていた。
翌日は、桟橋を九時に出てミルフォードサウンド・クルーズに向かった。

ミルフォードサウンド・クルーズ船
タスマン海の入江突端近く

入江の突端はタズマン海に面し、突端まで往復二時間のクルーズである。相変わらずの雨で視界は悪かったが、途中、断崖の下、岩の上に数頭のオットセイがいた。その先の岩の上にはペンギンが見えた。

再び桟橋に戻り、バスに乗り換えて国道九十四号線をテアナウを経てツアー最終地のクイーンズタウンに向かった。バスが山を登っていくとホーマートンネルがある。この山の中の長いトンネルはミルフォードサウンドからテアナウへの道路を通すため十八年間かけ完成され、このトンネルのお蔭でミルフォードトラックを歩いた人たちは再度マッキノン峠を越えずにテアナウに帰ることが出来るようになった。
トンネルを抜け暫らく走りディバイドの駐車場で休憩した。
ここがルートバーントラックの登り口で、実に我々は次の日再びこの場所へ来た。
テアナウに近づくと荒涼とした景色が現れた。

国道94号線の風景

牧草地の丘陵一面に在来種の黄色いエニシダが群生し、その先の小高い丘に外来種の紫色のルピナスが繁茂していた。繁殖力が強い同じマメ科であるが異様な色彩バランスである。
ミルフォードサウンドから二時間でテアナウのセントラホテルに着いた。我々はここでバスを降りツアーを終えた。
五日間寝食を共にした仲間が、我々が次に行くル-トバーントラックの無事を祈り、別れを惜しんでくれた。練馬山の会の人たちはミルフォードトラックだけでは物足りなく羨ましそうだった。ニュージーランド三菱の女性とご主人とは写真を撮りあいメール交換を約束した。最終日に先頭を競ったイギリス紳士たちと握手し、しばしば言葉を交わしたアメリカ娘と肩を抱き合い別れの挨拶を重ねた。
初日以外は雨だったが、ブナの森、ロッジでの交流、山から落ちる滝、アイダ湖のもやる景色、充実したミルフォードトラックの毎日だった。

                               

 ルートバーン・トラック

ニュージーランドの地図を開くと、南島の南西部には氷河で削られた渓谷や湖、入江が数多く見られる。その中心に広がるフィヨルドランド国立公園の中央にテアナウ湖があり、この大きな湖の南端にトレッキング基地のテアナウがある。
テアナウ湖の東方約五十キロの位置に南北に細長い典型的な氷河湖、ワカティプ湖がある。
観光都市クイーンズタウンはサザン・アルプス南部の山々に囲まれ、美しいワカティプ湖畔に拓かれた街である。

ミルフォード・ルートバーン トレッキング行程図

クイーンズタウンとテアナウを結ぶハイウェイは国道94号線で、テアナウからテアナウ湖の東岸を北に遡りミルフォード・トラックの出発点テアナウ・ダウンズを経て山岳地帯に入り終点のミルフォード・サウンドまで続いている。テアナウからミルフォード・サウンドまでの間をミルフォード・ロードという。
ルートバーン・トラックの出発地点ディバイドはこのミルフォード・ロードの峠にある。

ルートバーントレック行程図
晴れればの景色

ルートバーン・トラックはフィヨルドランド国立公園の東に連なる山々をテアナウ側のディバイドからクイーンズタウン側のルートバーン・シェルターまで歩くコースで、全長34km、一方通行のミルフォード・トラックとは異なりクイーンズタウン側から入りテアナウ側に抜けることもできる。
12月初め、我々はミルフォード・トラックのガイド付きトレッキングをしたが、引続きルートバーン・トラックを歩くためテアナウに留まり、その日の夕方、街を散策した。

テアナウの街

テアナウはミルフォードトラック出発日、バスで立ち寄りホリデーインで昼食を取ったところ、その時には湖畔のボート桟橋で写真を撮った。

ニュージーランドのそこここで見られた巨木

前日までの4日間、山小屋の食事は決して粗末ではなかったが単調だった。その夜、我々は久し振りのディナーを楽しみにホリデーインのレストランでテーブルを予約した。
メニューを見ていると隣のテーブルでニュージーランド人らしい年配の夫婦が大きなロブスターを旨そうに食べていた。目はロブスターにひかれたが、我々の胃袋には負担が重そうで魚中心の軽いコースを選んだ。
ソムリエが勧めてくれたホーク・ベイのシャルドネは酷がありサーモンや鱒によくあった。白ワインを一本空け、その夜はぐっすり眠った。
クイーンズタウンのステーションを7時に出るツアーバスは国道94号線を通り9時半頃テアナウに着くので我々はホテルでゆっくり朝食をとった。
チェックアウトをすませロビーで待つと、ツアーバスが2台ホテルの正面前に入ってきた。
最初の大型バスにはミルフォード一日ツアーの表示があり、タウンウェアーの乗客がどやどやと降りてきた。大半が日本人であった。その後に止まった中型バスからはトレッキングシューズをつけた人たちが降りてきた。
ルートバーン・トラックのネーム入りフリースを着た若い女性が我々の前に近づき、「ロミーサンデスカ?」
突然の日本語に戸惑っていると、「ルートバーン・トレックのシェリーです。お目にかかれて光栄です」と型通りの挨拶後、ホテル内のミーティングルームに案内された。早朝クイーンズタウンを出たガイドツアーは、ここで軽食を取ることになっていた。総勢二十人のツアー参加者のうち日本人が14人もいた。個人で申し込んだ我々2人と旅行社の募集に全国から加わった12人の日本人に対し白人は6だけだった。
ガイドはシェリーとジャン、それに若い男性、ジェミーの3人。このツアーは日本人が多いので、日本語に堪能なシェリーがスタッフに加わったようだ。彼女は半年前まで2年間、日本の高校で英語の先生をしていたそうだ。「宮城県の角田にいました」彼女は漢字で市名を説明した。
たった2年間の滞在で日本語がどうしてあのように上手くなるのだろうか。ツアーバスは10時にテアナウを出発し、ミルフォード・ロードを北上しディバイドに向かった。
ホテルを発つ時は小降りだった雨が山岳地帯を進むにつれ激しくなり、11時過ディバイドに着いた頃には本降りになっていた。バスを降りると肌寒かった。ルートバーン・トレックの出発地点、ディバイドは駐車場と小さな避難小屋とトイレがあるだけの殺風景な所である。
ツアーメンバーはガイドの指示に従って手早く雨具をつけザックを背負い、避難小屋の裏手にある登山口からルートバーン・トラックを登り始めた。
パーティーの先導は若いガイドのジェミーがつとめラストはジャン、日本語が分かるシェリーが真中に入り、この編成はトレッキングが終わるまで変わらなかった。
森林帯の中を最初のポイント、キーサミットまで緩やかな登りが続く。かなり激しい雨が降っていたが、歩き始めて緊張していたのかペースが速く1時間ほどでキーサミットに着いた。天気がよければここから展望台を往復するが、あいにくの雨で視界がきかず、展望台をパスしそのまま次のポイントに向かった。キーサミットから少し下るとハウデン湖の辺に小さな小屋があり、ランチの準備ができていた。いつの間にか先頭を歩いていたジェミーが小屋に先行してお湯を沸かし、お茶の支度をしていた。
このハウデン小屋は個人トレックの人たちも使うが、ガイドツアーのためにガスボンベやバーナーを鍵をかけた物置に備え、ツアーメンバーのランチやティータイムに利用されている。
ランチは野菜とハムがたっぷり詰まった大きなサンドイッチでホテルを出るとき各人に渡されていた。先のミルフォード・トラックでは朝渡されたサンドイッチがザックの中で潰れなさけない形になってしまったので、ルートバーンに入る時はプラスチック容器を用意し美味しいサンドイッチを食べることができた。冷たい雨の中を1時間以上も歩いてきたので雨具の下まですっかり濡れ小屋に入ったときは身震いしたが、熱い紅茶を何杯も飲んで次第に温まった。パーティーのラストを確保してきたガイドのジャンが到着した頃はランチを終えすっかり元気になっていた。
40分ほど休憩し、次のポイントのマッケンジー・ロッジに向け出発した。ハウデン小屋からマッケンジー・ロッジまでは3時間の行程であるが途中休憩を取らない。各人がそれぞれ自分のペースで歩く。ただし必ずガイドが先導し、ラストは責任者のガイドにサポートされている。
ルートバーン・トラックは分岐点が多いので、ルートから外れるときは必ずその場所に荷物を置いてガイドに知らせるよう指示されていた。この決まりを守らないとツアー全員に迷惑をかけるが、天気の良い日など写真を撮るため黙ってルートを外れる人がいる。それは日本人に多いということだ。
道は相変わらずブナ林の中を進む。海抜八百から九百メートルの高さなのでミルフォードの低地にあった赤ブナでなく、山ブナである。山ブナの葉も小さいが緑葉樹で春に新しい葉が生えるとき冬を越えた葉が落ちる。ミルフォードの赤ブナは樹木が密集し樹齢数百年の大木やたくさんの幼木も見られたが、ここの山ブナは整然と太さもそろっていた。
マッケンジー・ロッジまではエイルサ山脈西斜面の森林限界に近いところを進む。標高千メートルを越える高地は殆ど草木がない岩山である。雨が降ると山から一度に水が流れ落ちる。

ルートのいたる所で右手の山から流れ出る小さな沢を横切って進むが、この大雨で水量が増えていた。沢の踏み石は水没し、くるぶしを越えた水がトレッキングシューズの中に浸入してきた。
ミルフォードトラックでも雨が降ると歩行路は水の通り道になることが多く、そのようなときでもガイドに従い水溜りを避けず道の真中を歩いた。
ニュージーランドのトレッキングでは靴の中に水が入るをいとわない。
ロッジで夕食後の団欒にこのことが話題になった。濡れた靴は乾くが踏まれた植物は元に戻らないのだ。柵や木道で自然を保護している国からきたトレッカーたちはニュージーランドの森で人間が自然に入るときのマナーを教わった。
ハウデンの小屋を出てブナ林の斜面を1時間ほど歩くと轟々と滝の音が聞こえてきた。山頂の湖から流れ落ちるイヤーランドの滝である。
先導のガイドが滝の手前でパーティーをとどめルートの確認に行った。暫くして戻ってきた彼は、後続のシェリーとジャンの到着を待ち3人で再び滝を見に行った。
ルートは待機した場所から右に折れ滝の側を通るらしい。三人は直ぐに引き返してきた。
「通常のルートが危険なので回り道をする」シェリーはパーティーを3つに分け、それぞれのグループにガイドが付いて脇道を行くことが決まった。
ジャンが滝の様子を見るかと尋ねたので付いて行くと、右に曲がり大きな岩陰を抜けた途端、風圧で体が飛ばされそうになった。水しぶきでほんの目の先が見えない。
脇道は少し戻ったところから小さな涸れた沢を下る。踏み跡がなく標識もないのでガイドなしでは分からない。
「激しい雨で滝の水量が増えたときに使う道です。普段通らないので石の上は滑りやすくブッシュがあって歩きにくいので十分に注意してください」
3つのグループはガイドの指示に従って足場を確かめながら潅木をかき分けて進みイヤーランド滝の下を渡り斜面を上って正規のルートに戻った。およそ30分かかった。雨は相変わらず強く降っていた。
そこから暫く登りが続いた。天候がよければ左手にホリフォード渓谷が見下ろされ雪を頂くダーラン山脈を展望できるはずだが、あいにくの雨で間近に繁茂する木々の先に視界はなかった。
この辺りは標高千メートルに近く、植生がブナから潅木に変わっていた。
ハウデン小屋を出てから3時間経ち道は山を巻きながら下りになった。もう一息でマッケンジー・ロッジだ。吊橋を渡り林の中をドンドン下るとロッジの黒い屋根が見えた。時刻は5時近かったが、日暮れは遠く余裕をもってその日の泊り場についた。

マッケンジー・ロッジ

マッケンジー・ロッジでは大柄な管理人のマリーが出迎えてくれた。
マリーの指示に従い、ベランダの手すりに濡れた雨具をかけ、靴を脱ぎザックに入れてきたスリッパと履き替え、割り当てられた部屋に入った。我々の部屋は廊下の奥で二段ベッドが2組あった。背後の壁に明り窓があり、天井には小さな豆電球が一つ点いていた。雨天の夕方ではあったが部屋の中は暗かった。
環境を損ねぬよう配慮されたロッジなので、裏手には木立が迫り電力は太陽光でまかなわれている。雨天の日は明るくないが不満を言えない。
相部屋の2人は横浜から来た中年のご夫妻であった。彼らは山行に慣れているらしく、てきぱきと持参したシーツを広げベッドを作りザックを開け荷物を整理していた。我々は一刻も早く濡れた体を流したく、タオルを持ちシャワールームへ急いだ。
シャワールームは2つあり、それぞれシャワーボックスと脱衣ボックスをつないだユニットが2つ並び、その前に大きな洗面台が2つ置かれていた。トイレのユニットも2つずつあった。20人の客に対してこれだけの設備があり不便を感じなかった。シャワーユニットごとにガス湯沸器が備えられ、湯量は細いが十分に体を洗えた。下着のまま石鹸をつけシャワーで流し、洗濯を兼ねすませた。濡れたシャツや靴下も洗面台で洗い脱水ローラーで絞り乾燥室のロープにかけておくと翌朝にはすっかり乾いていた。そんなわけで、下着と靴下の替えは一組あれば十分であった。
先のミルフォード・トラックのロッジでも同じようにして濡れた衣服を乾かした。
乾燥室があると聞いていたが、下着だけは余分な替えを持参した。しかしながらツアーの女性たちが堂々と下着をロープにぶら下げているのを見て、我々もそれを見習った。
シャワーと濡れた衣服の始末が終わるとそれぞれストーブが燃えているロビーに集まった。ロビーの本棚にはニュージーランドの山の本や写真集、植物図鑑などが載っていた。
皆は清潔なソファーや床に腰を下ろし、本を見たり歓談しながら用意された飲み物をとり食事までの時間をゆったり過ごした。
ロビーに続く広いフロア―が食堂で、ツアーメンバーとガイド全員が向き合って座れる大きな食卓テーブルが置かれ、食堂の一角に調理台があった。
3人のガイドたちが着替えもそこそこに夕食の準備をしていた。大きな肉の塊をスライスしパン粉をつけ薄く油を引いたフライパンでカツレツを焼く人、大きなジャガイモを茹でる人、野菜サラダを揃える人、どの料理にも心がこもりとても美味しかった。食卓の背後のテーブルにはコーヒー、紅茶、ジュースなどの飲み物と食事の時に開けられた赤と白のワインが用意され、それぞれの好みで選べた。
食後は10時の消灯までロビーでくつろいだ。日本人が多く、気疲れせず過ごせた。
広々とした清潔な室内、充実した設備、贅沢ではないが心なごむ食事、ゆとりある時の流れ。日本の山小屋は貧弱なうえハイシーズンはベルトコンベアに変貌し、総じて便所の臭いがする。人が多いというだけで、何故にこうも違うのだろうか。
 翌日も小雨が降っていた。
朝食は8時、オレンジジュース、トマトジュース、牛乳、紅茶とコーヒーにトースト、それにベーコン、ソーセージ、焼きトマトなどの温かいメニューが加わる。トーストにつけた養蜂国ニュージーランドの蜂蜜はさすがに旨かった。
帰国後、焼きトマトを試みたが、日本の甘いトマトではあの甘酸っぱい味が出ない。
昼のサンドイッチは朝食のテーブルに並べられた材料から各自好みの物を選ぶ。ニュージーランドでは小さなリンゴが美味しかった。子どもの頃食べた酸味のある懐かしい味だった。
サンドイッチを詰め身支度を整え九時にロッジを出た。
濡れた雨具をつけ湿った靴に足を入れるのは気持ちの良いものではないが、歩き出すうち不快感を忘れた。
ロッジを発った直後、一瞬ガスが消え目前に標高1820メートルのエミリーピークが現れた。慌ててカメラを取り出しシャッターを切った。ルートバーンで捕らえた唯一の山の素顔であった。

エミリーピーク、標高1820m

 マッケンジー湖に向かって低い潅木の生い茂る道を進み湖畔に出ると先導のジェミーがパーティーをとどめ二人のガイドを待った。

再び巻き道を取ることになった。パーティーの前後が逆転し、ジャンが先導し湖から離れ踏み跡のないブッシュをかけ分けて進んだ。この迂回路の入口には標識がついていた。

ルートの中腹からマッケンジーロッジを見下ろす

連日の雨で湖面は一メートル近く上昇していた。
迂回路を抜けるとブナの原生林が続いた。薄暗い木立の中でオームの仲間、キーアを見かけた。我々がすぐ側を通っても、キーアは目を閉じたまま冷たい雨に濡れじっと雨宿りしていた。

原生林のキーア

やがて道は上りになった。標高千八百四十八メートル、オーシャンピークの裾を大きくジグザグに登る。
まばらになった潅木により添いながら高山植物が競って咲いていた。

フィヨルドランド・ロック・デイジー

長い花序に小さな白い釣鐘ようの花をいっぱいにつけたツガザクラに似た植物は日本の山を思わせた。
草地になった辺り一面、黄色い小さな花がてんてんと咲いていた。ミヤマキンバイそっくりの素朴な花である。
人参のようなハースト・キャロット。セリ科の植物は薬草が多い。葉を噛むと苦かった。複散形花序に白い小さな花が密生し薬効より観賞に適すようだ。
3年に一度しか開花しないというパイナップル・スクラブがパイナップルに似た葉の先にポインセチアのような形をした赤い花をつけていた。珍しい花だがグロテスクである。
其処此処で目立ったフィヨルドランド・ロック・デイジーは、マーガレットと見紛う高嶺に咲くキク科の花、白い花びらと黄色い管状花は一層艶やかでオモトのように厚く大きな光沢ある葉がしっかりと大輪の花を支えて根生し、まさにフィヨルドランドの女王である。
標高は千メートルを越え、本来ならばホリフォード渓谷の先にダーラン山脈が見えるはずであった。しかしながら雨で視界がない分だけ近くの対象に集中できた。大きく右に回りこむと平坦な道になった。オーシャンピークの西斜面を歩む。吊橋を渡り、千三百メートルの尾根筋を越えると少し下りそのまま北に進む。ホリフォードの谷から吹き上げる風が強くなった。激しい雨で百メートル先が見えない。体をかがめ足下を見ながらひたすら北に向かって進む。前方おぼろげに山が現れ、右手の斜面をジグザグに登ると小さな小屋が見えた。ハリス峠の避難小屋だ。
周囲を点検してからポーチにザックを下ろし雨具を脱いで飛び込むようにして小屋へ入った。
小屋の中では既にジェミーがお湯の準備をしていた。個人トレックの先客も数人休んでいた。ニュージーランド人らしい若いペアー、白人の若い男性と日本人らしい若い女性のペアー、それに単独行の日本人男性がいた。
彼らの荷物は大きく雨に濡れ重そうだった。女性のザックも60リッター・クラスであった。ガイド付きツアーの我々は一組の着替えと防寒衣、洗面具にタオルとシーツ、保温水筒、非常食とヘッドランプを携帯すればよかった。それにランチのサンドイッチとカメラを加えてもザックの重量は八キログラムを越えなかった。
個人トレックでは3食自炊の荷物とシュラフも持参するので、ルートバーン・トラック3日行程の荷物は20キログラム近くなる。高低差が少ないコースなのでさほどきつくはないものの、ガイド付きツアーに950ドル(5万2千円)払う価値はあるのだが。
ジェミーのお湯が沸く頃、ガイドツアーの人たちが次々到着した。コーヒーに紅茶、粉末を溶かしたトマトスープが用意され、彼らは座る場所を確保し温かい飲み物をとりながら賑やかに大きなサンドイッチを食べ始めた。
個人トレックの人たちは土間に腰を下ろし、押し黙って冷たいランチを頬張っていた。単独行の男性は静かにEPIのバーナーでお湯を沸かしていた。同じように悪天候にあいながら待遇の違う人たちが狭い小屋の中で一緒にいるのは気まずいものだ。我々は気つけ薬としてチタンのフラスコにコニャックを入れてきた。熱い紅茶に砂糖を入れ、そのコニャックを数滴たらすと小屋内に芳香が広がった。周囲の視線を感じ、隣に座っていた単独行の人にフラスコを渡すと、彼は自分が沸かしたコーヒーにコニャックを入れ、ニヤリとして隣にフラスコを回した。そんなわけで、すっかり軽くなったフラスコが小屋内を一周し戻ってきた時には、個人トレックの人たちも打ち解けていた。
ニュージーランド人の若いペアーと単独行の日本人はクイーンズタウンの登山口であるルートバーン・シェルターから逆コースで入った。ニュージーランド人と日本人のペアーは我々と同じコースを行くとのこと。東京から来た単独行の人はニュージーランドに1ヶ月も滞在してたそうで、マウント・クック周辺やミルフォード・トラック、テアナウ湖の近辺も歩いてきたという。
「先ほど、ここからコニカルヒルを往復してきましたが、まったくなにも見えずただ歩いたというだけでした。たいした登りではありませんでしたが」と助言してくれた。
コニカルヒルは先ほど前方に見えた山で、避難小屋の裏手から整備された登り道がついていた。天気がよければ標高1515メートルの頂上から360度の展望がきくはずであるが、後から着いたガイドのシェリーも同じように言ったので、誰もコニカルヒルには出かけなかった。
避難小屋は小さいのでガイドツアーの20人全体を収容することができない。食事がすんだ者から順に先に進まねばならなかった。我々は後続の到着を待たずに小屋を出て、ガイドのジェミーを先頭に標高1280メートルのハリス峠を越え東に向かった。少し下ると道の左側が雨の中に切れ落ちていた。崖下50メートルにはルートバーンの源流ハリス湖があるはずだが、靄がかかり湖面もうかがえなかった。足下に注意して進むうち、雨はいくぶん小降りになった。道はなだらかになり、左方にルートバーン左俣の奔流が聞こえてきた。右手のオーシャンピーク北斜面から水が溢れ落ち、草むらのあちこちにマウントクック・リリーが咲いていた。

マウントクック・リリー

一本の花軸から十数本の花柄が集散し、花柄の頭に可憐な白い花が一つ付いていた。花のかたちはケシに似ているが花弁が多くシホンのように柔らかで深い、西洋人形のようだ。ジャイアント・バターカップと言われ、リリーと呼ばれるが、れっきとしたキンポウゲ科キンポウゲ属である。蓮華座のような盾形の大きな葉が太陽と夜露をとらえ、氷河期からずっと変わらずサザン・アルプスの王女を守ってきたのだろう。

歩行路のすぐ側まで顔を出しているマウントクック・リリーを見つけるたび、レンズについた水滴を拭きながら何枚も写真を撮った。
道草をするうち先導のジェミーは遥か先に見えなくなっていた。
山から落ちてきた水がコースのいたるところに溢れ、未開の地を進むようだった。

標高は千二百メートル付近であるが氷河で削られた谷間は苔とイネ科の植物しか生えない荒涼とした褐色の岩礫地である。雨に煙る奇異な光景のなかに一人取り残され、まるで太古の世界に迷い込んだようであった。
吊橋を渡ると再び下り、ルートバーン左俣の流れに近づいた。川に沿った木道を行く。水飛沫を浴び轟々たる水音を聞きながらドンドン下ると、ひときわ大きな滝に出た。

滝の横を右に曲がると、ルートバーン滝のロッジがあった。その朝マッケンジー・ロッジを発つとき正面に見えたエミリーピークの裏側にあたる。
エミリーピークとその西に並ぶオーシャンピークを左から大きく迂回して北側に到着したことになる。

ルートバーンフォールトロッジの裏
ルートバーンフォールトロッジ

先行していたジェミーがロッジのベランダに出迎えてくれた。
雨具を手すりにかけ靴を脱いでロッジに入ると、管理人のアマンダが部屋割りと乾燥室、シャワールームの在りかを教えてくれた。
このロッジは前夜のマッケンジーより大きい。ベッド数に余裕があるのか、四人部屋の個室を使わせてくれた。空いているベッドに荷物を広げ、早々にシャワーを使い、濡れた衣服を乾燥室に干して一息ついた。
時刻は三時を過ぎていたが、夕食まで十分な時間があった。しばらく休もうとベッドで横になると直ぐ眠ってしまった。
気がつくと二時間近く経っていた。山小屋での個室に、すっかりリラックスした。
 ロビーでは四、五人の日本人グループがツアーコンのN氏を囲み、だるまストーブにあたっていた。我々二人を除く日本人十二人は旅行社が募集した「N氏と歩くルートバーンとテアナウ十日間」に参加した人たちだった。
N氏は二十年前、仕事でニュージーランドを訪れる機会があり、そのままサラリーマンを辞めしばらくニュージーランドの山々を歩き回ったそうで、その後トレッキング・ツアーガイドを生業にしている。ルートバーン・トラックのガイドつきトレッキングはニュージーランドのウルチマート・ハイカー社が運営している。
トレッキング参加希望者は世界中からFAXやE‐メールで直接同社に申し込むのであるが、日本の旅行社を通じて申し込むこともできる。
N氏のようにルートバーンに精通し現地の言葉がわかる人が同行してくれると非常に心強く、日本ではこのような企画に人気がある。
下のフロアーからも笑い声が聞こえてきた。
日本のご婦人方が若い男女を取り囲んでいた。おばさま方はN氏の通訳がないと外国人と会話できないはずだが、互いに意気投合している様子であった。後で聞くと、おばさま方は若い二人を新婚さんと睨み、興味にひかれ乗り出したようで、彼女たちの目と鼻の利くこと、こういうことに関しては言葉の障壁がないようだ。
 二メートルを越えていようか、ひたすら背の高い物静かな男性はボストン在住で、小柄で純朴な感じの女性はカナダに近いニューハンプシャーから来たという。並んだ背丈と同じぐらいに年の差もありそうに見えたが、似合いのカップルだった。そのとき二人はハネムーンであったが、ロッジに着くといつも静かに厚い本を読んでいた。
 もう一組はいつもラブラブのカップル。学生らしさが残った男性と闊達そうな女性は、毎日パーティーの先頭を我々と競いあった。
おばさま方によると、二人で一緒にシャワーと使いキャッキャと戯れていたそうだ。ロビーではいつも二人より添って相手の体に手を回し触れあっていた。日本人には正視しがたい光景だが、そのうち慣れて蚤取りペアーと映るようになった。
食事のときに話し掛けると、二人はコペンハーゲンから来たそうで、奥さんは英語が苦手、ご主人は四か国語を話せるビジネスマンだそうで、ユーアー・エブリタイム・ラブラブと言うと苦笑していた。
 更に、もう一組は我々に理解し難い中年ペアーであった。体格優れた二メートル近い男性は、動作、素振りがいかにもしとやかで、あまりに大柄ではあるが女性のような雰囲気を発散していた。一方は熊のようにがっちりした体躯で髭面、雄壮を絵に描いたような男性だった。二人に交わされる言葉はほんの僅かかで、無言でも意思の疎通ができるようであった。
おばさま方の興味を引いたのは彼らの組み合わせで、いつも想像をめぐらせていた。
 四国からは四十代半ばの商店主が小学校の同級生と彼女の友達と連れ立って来ていた。独身の同級生が引っ込み思案なのでよく外国旅行に誘うのだと言うので、店の留守は誰にと聞くと、おかみさんがしっかりしているから大丈夫と曰(のたま)われ、いつも三人一緒で、馬鹿を言ってははしゃいでいた。
 東京から三十代の男性が一人で参加していた。勤め先がベンチャーの成長企業で好況らしく、海外旅行が語学研修として奨励され有給休暇と補助金が出たそうだ。「入社した時は小さな会社でしたが、いまは大きくなって古い社員ほど優遇されています」と伏し目がちに語った。
出しゃばらずいつも人の蔭にいたが、忘れられない人であった。
  もう一人存在感ある女性がいた。ヒマラヤもスイス行った。カナダも行った。ミルフォードも行った。あそこも行った、ここも行った、と事あるごとにその場の人たちが知らない自分のツアー体験をご披露し、何度も同じ話をする人で、どこのツアーにもいる一人だった。七十才を超え五十代の介添えが二人同伴していたが、いつもパーティーのしんがりをつとめガイドのジャンに後押しされていた。

  翌日も雨が降っていた。
その日の行程は十一キロを四時間で下るだけ、ルートバーン・トラックのハイライトは前日に終わっていた。八時からの朝食はいつもの緊張感がなく、既に里心がついていた。
出発前にシャワールームをのぞくと管理人のアマンダがシャワーボックスを清掃していた。
ニュージーランドの女性は活発だ。いたるところで働く姿が見受けられた。ルートバーン・トラックのロッジは女性一人で管理されている。広いロッジの掃除、ベッドの清掃、電気設備や給湯設備の整備、外回りの清掃など一人で楽々こなしているように見えた。
食事の支度は朝食も夕食もサンドイッチの材料も三人のガイドが準備する。仕事の分担がはっきり区分されているようだ。
 天気が良ければ裏のルートバーン滝を散策するが、その日はロッジを発つとそのまま次のポイントに向かった。

エミリーピークの北斜面を進み沢筋に出ると大きな山崩れの跡があった。
巾八十メートルにわたり山肌が削り取られルートバーン川まで落ち込んでいた。降雨時には落石の危険があるらしくガイドが見守るなか足早に通り抜けた。森林帯の中を一時間も下ると分岐点があり、すぐ先にルートバーン小屋があった。小屋の前をルートバーン川が流れている。
広い川原に出ると正面から大きな北俣の支流がほぼ垂直に交わっていた。

ルートバーン川の合流点

合流点対岸の山が異常にせり出している。氷河に削り取られた谷筋なので奇妙な地形ができのだろうか。晴れていれば絶好のビューポイントであろう。

小屋で早めのティータイムをとり、最後のポイントに向かった。ルートバーン川の左岸を下り、大きな吊橋を渡って右岸に移るとブナの原生林が続く。

毛皮のように厚い苔で覆われたブナの古木はまるで童話にでてくる人形のようだった。行けども行けどもブナの原生林が続く。この辺は大きな赤ブナが多かった。
ルートバーンの本流から離れ、小川をいくつか越え、吊橋を渡り、山裾を回り、しばらく行くと再び本流に出た。氷河で削られた川筋は崖が切り立ち、整備された道を歩むといえ濁流に足がすくむ。

ルートバーン本流

コペンハーゲンから参加した新婚さん、健脚でいつも我々と先頭を競った。

コパンハーゲンの新婚さん

ツアーを先導した若いガイドのジェミー、吊り橋手前の木道を行く。

ガイドのジェミー

対岸の川原の先に立派な小屋があり、人が見えた。崖ふちの木道を通り、大きな吊橋を渡ると広い道路に出た。そこがルートバーン・トラックの終点で、トレッキングはあっけなく終わった。

 終点で待っていたジェミーと先ほど見えた小屋まで道路を遡ると、個人トレックの人たちがバスを待っていた。ハリス峠の避難小屋で会った日本人の女性もいた。若い頑健そうな人たちばかりだった。
濡れた下着を着替え、遅い昼食をとった。
この小屋には湯沸し設備がないので、震えながらサンドイッチを食べた。
ルートバーン小屋から標準三時間の行程で平坦な道ではあるが、パーティーのトップとラストでは一時間の差があった。しんがりを務めた人たちは着替える暇もなくサンドイッチを頬張りながら迎えのバスに飛び乗った。
山に入ると、足の弱い人はいろいろな不利益をこうむる。パーティーに、やっとの思いで追いつくと直ぐに出発しなければならない。一番疲れているのに休憩時間は短い。小屋に着けば残ったベッドに押し込まれ、最後のシャワーはお湯が少ない時もある。それでも山行を止められない。山を下りれば苦しかったことは忘れてしまい良い思い出だけが残からである。
 おんぼろバスに揺られルートバーン川を下り、ワカティプ湖に至る道路を湖北の町グレンオーキーに向かう。車酔いしそうな道路だ。一時間ほどでグレンオーキーの小さなホテルについた。
早速、ビールで乾杯、里の空気を味わった。バーの壁にはダーツボードや古い写真が飾られ英国の匂いがした。
この景勝地はルートバーン・トラック逆コースの起点であるが、釣や乗馬、ゴルフ、キャンプなどに来る観光客も多いようだ。パーティー全員で記念写真を撮り再びバスに乗り込みツアーの出発地クイーンズタウンに向かった。
 夕方四時、十日前に泊ったパークロイヤル・ホテルに到着、ここに泊る四人がバスを降りチェックインした。
フロントに預けた貴重品とミルフォード・トラック最終日のホテルから転送された荷物を受け取り、シャワーを浴びてベッドに仰向きトレッキングの余韻を噛みしめた。
 二時間後、近くのガーデンズ・パークロイヤル・ホテルでルートバーン・トラック完歩祝賀パーティーが始まった。
ツアー参加者全員とガイド3人がディナー・テーブルについていた。皆こざっぱりと着替え、達成感に満ち晴れ晴れとしていた。

二人組みの背の高い男性はチェックのブレザーに淡いブルーのシャツをアスコットタイで決めていた。一方の熊さんは相変わらずのジーンズ姿で笑顔を見せていた。長身男性隣の女性はパーティだけに参加した彼のパートナーか。
横浜から参加のご夫妻、ボストンの新婚夫婦、デンマークの若夫婦、それに我々は単身者には得られない充実した時間を過ごしてきた。感動を分かちあえる伴侶と行動を共にしたからである。
パーティは九時過ぎに終わり、ガーデン・パークロイヤルホテルの部屋に戻った。

ガーデン・パークロイヤルホテル

オークランド(AUK)

 翌12月7日、11時にクイーンズタウンを発ち北島のオークランドに向かった。ニュージーランド最大の都市オークランドは南北を港に囲まれマリンスポーツが盛んである。ダウンタウンはお洒落な店が並びレストランもたくさん見られた。

ダウンタウン、シティホール
高級品が並ぶショッピング通り
街のシンボル ハラーズ
スカイシティ・カジノ&スカイタワー

街は12月の初め、サンタの飾り付けが見られた。

街は坂が多く眺めが良い。市内にいくつもの公園があり、宿泊したハイアット・ジェンシーの近くには緑豊かなアルバート公園があった。

クリスマスツリーの大木
太極拳をする人たち

テアナウで見かけた外来種ルピナス

  その夜はダウンタウンにあるレストラン・写樂で日本食を楽しんだ。
お刺身、天ぷら、寿司、どれも銀座一流の店に劣らず、むしろ鮮度は遙かに銀座を超えていた。あんなに美味しい天ぷらを食べたことがない。シャルドネを飲み過ぎてだいぶ酔った。タクシーでホテルに帰った。
 翌12月9日、午前中フェリーで対岸のデボンポートに渡り、落ち着いた美しい街並みを散策した。たくさん写真を撮ったはずだが、残念ながら手元に見あたらぬ。
シティの港に戻り、埠頭に建つビルのレストラン・チンチンキーで昼を、海洋博物館でアメリカンカップズの展示を見学した。
 その日の午後の便で成田に向けオークランド空港を出発した。経由地のクアラルンプール国際空港は開港直後の世界で2番目に大きい空港で、その大きさに驚いた。
トランジットが5時間たっぷりあり、空港内をぶらつき買い物をした。
ここで相棒は、シンガポール航空スチワーデスの制服を買い、しばらくドレッシングな装いとして着用していた。インドカレーの香辛料につられ覗いてみたが、怪しげな雰囲気で入場は遠慮した。

             スケジュール

 費用概算
ミルフォード&ルートバーン トラック 9泊10日
           参加料 4890Z$(26.5万円)
航空運賃       シンガポール航空   19.8万円
          ニュージーランド航空   8.7万円
ホテル代金         3泊       3.1万円
持参外貨        Z$ 1500Z$ (8.1万円)
持参 円                  10.0万円
費用合計                  76.2万円

特異な装備品
  山靴 ダナー、ザック60リットル、 
  カメラ ニコンF100 24~120mm
      ペンタックス マクロ 100mm
  フィルム ASA400 15本、 
          800   3本、
          100      2本

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