アルプスの旅 3 モンブラン
モンブラン・シャモニ
九日目
マルティニ経由でフランスのシャモニへ移動
BOB ラウターブルンネン発 九時十分
インターラーケン・オスト着 九時二十五分
SBB IC インターラーケン・オスト発 九時四十分
シュピーツ着 十時
シュピーツ発 十二時二十分
ブリーク着 十一時三十四分
IR ブリーク発 十二時二十分
マルティニ着 十三時十三分
TRA マルティニ発 十三時四十分
シャトラ着 十四時二十六分
バス シャトラ発 十五時三十分
シャモニ着 十六時三十分
目覚めると外はまだ薄暗く、小雨が降っていた。
日本の昼時に当る時間を見計らい、駅前の公衆電話で留守宅へ電話をかけに出たが、ホテルに戻ると玄関入口のドアが自動ロックされていた。
裏手に廻るが、開いた扉はなかった。
ホテルの裏手はオーナーの住まいと繋がっていた。特別の入口でもないかと捜したが、渡り廊下の非常灯が曙の光にぼんやりと浮き出ているだけだった。
部屋の窓に小石を投げて相棒に知らせようにも、老肩では四階まで届きそうもない。
誰か窓から顔でも出さぬかと、暫らく見上げていたが無駄だった。
仕方なく駅に戻り、ホームのベンチで時が経つのを待った。
インターラーケンへ行く一番の電車が出る頃、キオスクのおばさんが出勤してきた。店に入り、雑誌などを一瞥してから、坂を上がりホテルに戻るが、玄関のドアは開かなかった。やっと起き出したのか、明りの点いた部屋が幾つか見えたが、我が部屋には変化なく、仕方なくホテルの前に佇んでいた。
六時半になって、レストランを担当している従業員が出勤してきた。
彼女はバッグから鍵を取り出すと、いとも簡単にドアを開け、目の前にいる客に会釈もせず無表情のまま中に入っていった。
そのあとドアは出るも入るも自在になった。
その日はシャモニへの移動日であった。
重い荷物を運びながら列車を乗り継ぎ、ローザンヌやモントルーなどレマン湖畔の都市へ向かうSBBの特急をマルティニで下車すると、辺りの様子ががらりと変っていた。
牧草地がブドウ畑に、のどかな田園風景は去り、車の行き交う地方都市になった。
マルティニはフランス語圏である。古代ローマ時代から南北ヨーロッパをつなぐ交通の要衝として栄えてきたそうだ。
TMR(マルティニ鉄道)のシャモニへ行くモンブラン急行とヴェルビエへ行くセント・バーナード急行は、マルティニを起点としている。
玩具のようにかわいらしい電車が閑散としたホームで待っていた。
ドイツ語圏地域は、街も牧草地もきちんと整えられている。
窓辺を飾る花は、どこの家でも絵のように美しく生き生きとしていた。冬に備え軒先に整然と積み上げられた薪の長さは、寸分の違いもないように見受けられた。
マルティニからフランス国境に近づくにつれ外壁が傷み、汚れたままになっている家が多く見られ、飾り花は少なく色褪せて萎びていた。
二両編成の赤い新型電車は深い谷を見下ろし、幾つものトンネルをくぐり抜けながら山腹を上っていく。単線の駅は停車時間が長い。人気のない駅の周りには、険しい地形と厳しい気候を避けるように小さな家が軒を寄せ合っていた。
国境の駅、シャトラ・フロンティアでフランス側の電車に乗り換えるため下車した。田舎の小さな駅は無人であった。マルティニからきた二両編成の赤い電車は乗客を下ろすと、さっさと帰っていった。
乗り継ぎ時間は二十分あまりだったが、定刻を過ぎても電車が来ない。
それから十分間も過ぎた頃どこからともなく駅員が現れ、シャモニ行きは一時間遅れると言って消えた。
薄暗い待合室に入ると、数人の客が静かにベンチに座っていた。先ほど下車した二十人近い人たちは、どこへ行ったのか。
駅前に、大きな道路が軌道に並行して走っていた。その向こう側に土産物を売っているらしい店があり、棟続きにレストランとバー(コーヒーショップ)が見えた。道路を渡って、うらぶれた店に入り、隣のレストランを覗くと大勢の人たちが団欒していた。我々は土産物屋で絵葉書を買い、駅に戻り電車を待った。
外が騒がしくなったので出てみると、マルティニから次の電車が着き、乗客がたくさん降りていた。
駅員が乗客を駅前に誘導しているので、外国人らしい旅行客に英語で聞くと、シャモニへ行く乗り継ぎ電車が急遽バスに変更されたとのこと。慌てて待合室に戻り、相棒と重いスーツケースを転がし列の後に並んだ。
程なく大型バスがやってきて、五十人近い乗客とたくさんの大きな荷物を詰め込んだ。
バスの中は席を溢れた人たちで立錐の余地もなかった。大型バスは狭い山岳道路を対向車を巧みに交わしながら進んだが、大きく曲がる度、左右の座席に人の波が倒れかかった。
後から来た電車には中国人の団体が乗っていた。シャモニへの道中、窮屈なバスの中で中国語が前後左右に飛び交っていた。中国人が群れをつくる点は我々日本人と似ているが、中華意識が強いのか、白人を仰ぎ見ることなく、総じて油断ならぬ雰囲気をもつ。
西洋人にとって、日本人は非キリスト教徒だが無害であり葱を背負う鴨にも見えるが、中国人には偏見をもつものの一目置いているのではなかろうか。
日本は経済大国になったが、対等なパートナーとして世界に認められるにはまだまだ時間がかかるような気がする。
バスは一時間ほどでシャモニ駅前に着いた。
予約したホテルは、歩いて十分ほどのところにある筈だが、疲れていたので、今回の旅行で初めてタクシーを使った。
タクシーは一旦駅裏に迂回してから、シャモニ中心街に入り、十分後ホテルに着いた。
ホテル、クロア・ブランシェは繁華街の中心にあった。
一日置きに三泊する予定であったが、相棒がモンブラン登攀を断念し、シャモニに留まることになったので、さらに一日追加する必要があった。
チェックインの際、その旨を伝えると、日本で予約した金額の七十五パーセントでルームチャージができた。スイスのホテル料金は季節変動も大きいが、予約の仕方で大きな差があるようだ。部屋は最上階だと鍵を渡された。
ラウターブルンネンのホテルでも四階の部屋をあてがわれ、重いスーツケースを運び上げるのに苦労した。レセプションの壁に部屋のキーがたくさんかかっていたので、下の階は空いてないかと尋ねたが、予約台帳をめくり断られた。翌日、日本の団体客が入った。いずこも多勢には敵わない。三つ星ホテルはエレベーターがないので、非力な年寄りは、つらい。
腰を下ろす暇もなくインフォメーションに直行し、シャモニ観光案内のホームページで知った津田氏を探した。
中央の大きなカウンターとは別な場所に日本語案内と掲げられたデスクが置かれ、ベルナデット・津田と名札があり、その前に列ができていた。
津田氏は大柄な、れっきとした西洋女性であった。列の後に並び、一時間して順番がきた。
グーテ小屋からモンブラン登頂と、イタリア、クールマイユール観光の案内を頼んだ。先ず登山経験を聞かれ、単独行の場合はくれぐれも注意するように、今シーズンもクーロワールの落石で犠牲者が出ているとのこと、高山病でヘリコプターに救助された人が大勢いると念を押された。さらに助言を得るためにスネル・スポーツの神田氏との接触を勧められた。
それからベルナデットさんは手元の電話をとり、グーテ小屋と長々と挨拶してから、予約を取り付けてくれた。
シャモニから登山口へ行くにはバス、ロープウェイ、登山電車を乗り継がねばならない。それぞれの運行時刻と乗り場と料金について、彼女は時刻表や地図の必要箇所に赤印をつけながら教えてくれた。
一番肝心なモンブランの天気について、インフォメーションに掲示された天気予報板を見ると、次の日から二日間モンブランは久しぶりに快晴であった。
クールマイユールについても必要な情報を聞き、ベルナデットさんからモンブラン登頂の成功を励まされ、インフォメーションを出た。
ツェルマットのインフォメーションでブライトホルンの状況を尋ねたとき、ガイドを付けずに登ってはいけないと頭ごなしに言われ、取り合ってもらえなかった。規則ずくめのドイツ語圏スイスと、個人主義を尊ぶフランスとの違いであろうか。
津田氏の対応はマニュアル的ではあるが、懇切丁寧、要をえて、初めて外国旅行する日本人にも良く分かった。彼女の日本語には西洋訛りがあり、それが却って語意を確かにしていた。インターネット情報で好評なのは、もっともなことである。
かなり疲れていたが、その足で繁華街の中心にあるスネル・スポーツに出向き神田氏を尋ねた。神田氏は精悍な顔つきをした五十代半ばと見られる日本紳士で、かつてはアルプスの峰々を巡ったらしいが、この二十年間スネルの店員をしながら、シャモニを訪れる日本人登山者たちの手助けをしてきたそうである。
彼から高山病を感じたら無理をしないこと、クーロワールのトラバースでは落石に注意するように念を押され、お守りに持っていった方がよいとヘルメットを貸してくれた。帰り道、ホテル近くのスーパーで登山用の食料を仕入れた。
部屋に戻ると、七時を過ぎていた。
朝から長距離を移動し、そのままずっと動きづめで、もうへとへとだった。
モンブランを登るには、まだ準備することが山ほどあったが、一刻も早く眠りたかった。夕食は外へ出ず、ホテル内のレストランですませた。
テーブルにつき、解読不明なフランス語のメニューを見るももどかしく、すべてをウェイターに任せた。
その結果が山盛りのミートフォンデュと高価な赤ワインで、確かに、山登りのエネルギーにはなった。
十日目
モンブラン登山、シャモニからグーテ小屋まで
バス シャモニ・センター発 七時
レ・ズーシュ着 七時三十分
ロープウェイ レ・ズーシュ発 八時
ベルヴェ着 八時十分
登山電車 ベルヴェ発 八時四十分
ニ・デーグル着 九時
ニ・デーグル出発 九時
テット・ルース小屋到着 十一時半
テット・ルース小屋出発 十二時
グーテ小屋到着 十六時
レ・ズーシュに行く一番のバスは、七時にシャモニ・センターをでる。
昨日、インフォメーションの津田さんから詳しく聞いたので、迷うことなく繁華街を抜け、広場の裏手を下り、市外へ通じる広い道路に出た。
日曜日で人通りもなく、すがすがしい朝だった。
バスセンターといっても、車が行き来する道路に大型バス二台分のスペースを拡幅し、小さな標識が立っているだけの場所である。
標識の前に大型バスが一台止まっていた。昨夜から滞留していたようだ。
定刻に繁華街の方から土手を越え運転手がやってきた。
始発の乗客は一人だったが、市内を循環するうち、ハイキングに行く人たちが乗ってきて車内は賑やかになった。高速道路を通り郊外へ抜けると、急に田舎景色になった。
レ・ズーシュは広い範囲の地名で、ロープウェイ乗り場はベルヴェと言わぬと分からない。運転手に促されバスを降りると、ロープウェイ乗り場にはマイカーで大勢の人たちが来ていた。
始発のロープウェイに乗り、十分でベルヴェに着いた。
ロープウェイの終点と登山電車の駅は、少し離れている。
電車線路と示された草原の道を下ると、アブト式軌道に出た。軌道の先に小さな小屋が見え、その近くに登山客が屯していた。物置小屋のような駅舎で往復切符を買い、暫らく待つと、ニ・デーグルへ行く一番の登山電車がサン・ジュルヴェから上ってきた。
ここで数十人が乗り込み、二両連結の車両は満員になった。
ザックがドアの前に山積みされ、ピッケルとザイル、ヘルメットを持った百人近い乗客は皆モンブランを目指すのであろうか。車内は登山に臨む一種独特の緊張感だ漂っていた。
登山電車はモンブラン山頂に続く長い裾野を標高二千四百メートルのニ・デーグルまで上って行く。
二十分足らずで終点に着いた。
電車から降りると、待ちかねたように大勢のパーティが続々出発した。
トイレを捜して駅裏へ回り、身支度を整えゆっくり歩き始めた。
先ずはグーテ小屋への中間地点テート・ルース小屋を目差し、駅からビオナセイ氷河へ向かう広い道を南に下ると、グーテ登山口の標識があった。
そこから北東に向かってジグザクに登り、稜線に出て方向を南東に変え、グーテ針峰から下りている側稜を登る。
快調なペースで登り続けると大きな雪渓が現れ、雪の斜面を横切るとテート・ルース小屋があった。小屋に立ち寄らず雪の斜面を直登し、そのままグーテ小屋を目指すパーティが多かった。標高差八百メートルを一気に登り、休憩するのは軟弱組なのだろうか。とても付いて行けない。
小屋でオレンジジュースをもらい、持参したロールパンで昼にした。
三十分間休憩し、小屋を出た。
グーテ針峰からテート・ルースに下る長い尾根の下部に向かって雪渓を登ると、クーロワールのトラバースがある。斜度四十度、対岸までの距離は六十メートル位だが、ザレた斜面の足下が凍結し、頻繁に小石が転がり落ちていた。両岸に亘る滑落防止のワイヤーが張られ、パーティのリーダーは確保のザイルを引っかけ渡っていた。
念のためアイゼンを付け、落石を避けて素早く慎重にトラバースした。
クーロワールを過ぎると岩の尾根筋を登る。所々にペンキマークがあり、ルートは明瞭である。
グーテの小屋は頭上に見えたが、標高差六百五十メートルを登るのに四時間もかかった。下山するパーティも多く、すれ違う際どうしても単独行はルートを譲るので、余計に遅れた。
途中でルートを外れ岩に腰をおろすと、快晴で靄もなく間近に氷河を、遥か西前方にアルプスの峰々を望めた。これぞアルプス登山と言うべきか。
ルートである尾根筋の左右はガレた涸れ沢で、頻繁に落石が起こっていた。
左側がクーロワールの沢で、頭大の岩が転がり落ちのを見た。急登部分にはワイヤーが張ってあるが、ホールドがしっかりしているので頼らぬ方が登り易い。小屋に近づくと人の声がし、糞尿の臭いがした。
午後四時、やっとグーテの小屋に到着した。食堂の受付で四十ユーロを支払い、ロッジを割り当てられた。
40年前の1962年8月に同じルートを登った先輩の登山記録では、ニ・デーグルの登山口付近まであった氷河がどんどん後退し、数年前には氷の上を歩いたところが雪もないモレーンのガレ場になっていたそうで、マッターホルンと同じように、氷河の後退がここでも進んでいるようだ。
モンブランの登山も天候の影響を受け、雨の一日目はテート・ルース小屋に泊まり、二日目に吹雪の中を難渋してグーテ小屋に登り着いたとある。
この度の登山は天候に恵まれ幸いだった。
本棟の裏にあるロッジは、中央通路を挟んでベッドスペースが二ブロック、二フロアあり、それぞれ十個の番号が附ってあった。
左ブロック、上段八番のマットレスと毛布一枚がその夜の寝床であった。
ザックを置き、スリッパに履き替えて食堂に行きビールを飲んだ。
七時の夕食がすんでも、まだ日は高く、外にでると、まだ上ってくる人たちがいた。
八時半を過ぎても到着するパーティがあり、ロッジは騒がしかった。
九時を過ぎて、やっと暗くなり静かになった。
ベッドの左隣は単独行の青年で、右隣が三十代の三人連れであった。
三人連れの人たちは、しきりに寝返りを打っていた。
その後も寝付けぬまま、老人の鼾に悩まされていたかも知れない。
十一日目
モンブラン登山、グーテ小屋から頂上を往復しシャモニへ戻る
グーテ小屋出発 二時三十分
グーテ・ドーム通過 四時半
バロ小屋着 五時半
モンブラン頂上到達 八時三十分
下山開始 八時四十分
バロ小屋通過 十時
グーテ・ドーム通過 十時半
グーテ小屋着 十一時半
グーテ小屋出発 十二時半
テート・ルース小屋着 十四時
ニー・デーグル着 十五時十五分
登山電車 ニー・デーグル発 十六時三十分
ベルヴェ着 十六時五十分
ロープウェイ ベルヴェ発 十七時
レ・ズーシュ着 十七時十五分
バス レ・ズーシュ発 十七時三十五分
シャモニセンター着 十八時
目が覚め、腕時計を見ると一時半だった。
ロッジ内に人が動くけはいがあり、暗闇をヘッドランプの白い筋が飛び交っていた。今日の行動を反復しながらゆっくり起き上がり外に出ると、もう出発するパーティがいた。ペットボトルの水をたっぷり飲み、食堂に上がった。
午前二時だがテーブルは既に満員だった。配膳口でトレーをもらい、空いた席を見つけ、スープとリゾットの朝食を喉に流し込んだ。
トイレを済ませ、スパッツとアイゼンを付け、小屋の裏から雪原に上り出た。
時刻は二時半、広く薄黒い尾根の前方にヘッドランプの明りが点々と見えた。シャモニから望むモンブランは白いケーキのようだが、グーテ小屋から上は巨大な氷雪に覆われている。ヘッドランプと雪明りを頼り、雪の上に残る踏み跡に沿って広い尾根の西の縁を歩き、やがて尾根の中央をジグザクに標高四千三百メートルのドーム・デュ・グーテまで一気に登った。
緩斜面を下り、だたっ広いコルを過ぎると急斜面になり、登りきったところはバロ小屋が立つ岩稜であった。
時刻は六時、頂上へ至る三分の二まで来た。
アイゼンで雪原を踏みしめるのは心地良い。黒飴を舐め、ポットの紅茶を飲んで一息入れた。夜が明けはじめ、登山者が列をなしてボス山塊を進むのが見えた。黙々と進む列に入り、雪の稜線を急登した。
狭い稜線は、追越し禁止の一車線のようなもので、後に付かれると、馬力の小さな登山者は後続者と歩調を合わせねばならずツライ。
最初のコブを北側から次のコブを南側から巻いて、四千六百メートルを通過した辺りから急に心肺が苦しくなった。
狭い稜線を過ぎると斜面は更に急になり、前後の登山者のことなど配慮する余裕もなくなった。立ち止まりピッケルに体を預けて息を整え、少しずつ上に進んだ。
四千七百メートル付近で右手に露岩が現れ、東に向きを変え、更に一層狭い稜線を上るとそこが広い頂上であった。
八時半、アルプスの最高峰四千八百八メートルを遮るものはなく、北方眼下に白雪の世界、エギュー・ディ・ミディが朝日を浴びて輝いていた。
東方遥か先の稜線から太陽が昇り、グランドジョラスの黒々とした針峰群が目覚めの時を迎えていた。
南側は深く切れ落ちた岩稜と太い氷河が黒々と眠っていた。
南東、クールマイユール方向に目を凝らし、明日登る予定のモン・チェティフを捜したが、闇に沈んでいた。
ザックからカメラを取り出し、シャッターを押したが動かなかった。
風が強く、露出部はマイナス摂氏十度を割っていたのかリチウム電池が作動しなかった。目出し帽をかぶっていたので歩行中は寒さを感じなかったが、感傷に浸るうち指先の感覚がなくなっていた。
続々とパーティが到着してきたが、皆とんぼ返りターンをするごとく引き返していった。焦る必要はなかったが、早く戻らねばという気持ちが勝り、十分間も頂上に留まらなかった。
戻りも大勢の登山者と行き交った。狭い稜線では、一方が斜面に足を踏み出して道を空けねばならない。多勢に無勢、単独行は押し出されルートを譲りながらゆっくり下山した。
バロ小屋を右手に見てドーム・デュ・グーテのコルまでは、快調に下りたが、百メートルに満たないグーテの登りがキツカッタ。グーテの広い尾根を下り、そこから小屋まで平らな雪原が長かったこと、石井スポーツで見つけた蜂蜜ドロップをシャブリながらがんばった。この強壮剤は、マッターホルンのヘルンリ小屋からの下りにも効いたものだ。
グーテの広い尾根に出てから、年配のイギリス人ご夫妻とチェコの壮年男性に出会い、励まし合いながら下山した。このような山での交流は元気の素である。
十一時半、グーテ小屋にたどり着き、食堂のテーブルにうつ伏せになり、回復を待ちながら一時間かけてコーラ一本を喉に流し込んだ。
タイムリミットの十二時半になり、なんとか腰を上げ、もどかしく下山の準備を始めた。
小屋から下のルートも油断できない。
昨日の登山路は、かなり凍結していたが、疲れた足では岩に爪を引っかけ躓く恐れがある。思案し、アイゼンを外した。
滑らぬよう、急斜面の岩稜に腰を落とし、慎重にホールドを探りながら下った。クーロワールでは、昨日よりも雪が緩み、アイゼンの必要がなかった。
テート・ルース小屋に到着したのは、十四時、予想外に早く下りれた。
小屋でスープとパンを取り、十二時間振りで固形物を腹に入れた。
それから下は、楽々と一時間少々でニ・デーグルの駅に着き、最終ロープウェイに接続する十五時半の登山電車に間に合った。
既に往復切符を買っていたので、順番待ちの列に並び、電車を待った。
夏休みに入ったせいか、近くにあるビオセナイ氷河見学の人たちが、大勢並んでいた。グーテ稜で出会った三人は見当たらなかった。既に電車で下山したのか遅れをとった。
登山電車が上がってきて乗り込もうとすると、駅員に押し留められた。
リザベイションとかブッキングとか言っている。車両は定員制で予約が要るらしい。そういえば先程フランス語で、何やらペラペラとアナウンスがあり、地元の人たちが、窓口で青いプラスティック片をもらっていた。
フランス語の分からぬ、イギリス人とイタリア人そしてこの東洋人の山男が、取り残されてしまった。
むっとして、ロープウェイ・コネクションと大声で怒鳴ると、ネキスト・トラムOKと返ってきた。
英語ができるのに、フランス語の放送しかしない。
地元の人たちも、知らぬ顔をしていた。フランス人は意地が悪い。
次の登山電車は、一時間後になる。
頭にきたのか、イギリス人たちは歩いて軌道を下っていった。
イタリア人のパーティは、何事もなかったように陽気に歓談はじめた。
仕方なく再び列に並び、強い日差しの下で次の登山電車が来るまで立ち続けた。
一時間遅れの登山電車は、ベルヴェまで程遠い地点で、先ほど出発したイギリス人のグループを追い抜いた。いったい、彼らはどうするのだろう。
ベルヴェでは、ロープウェイが待っていた。
シャモニへのバスの接続も待ち時間がなく、むしろ後便の方がよかった。
シャモニ・センターでバスを降り、ホテルで待っていた相棒の顔を見ると、ほっとした。
今回のモンブランは、晴天に恵まれ登ることができた。
雪の稜線も雪渓のクレバスも、視界がよければ危険は少ない。
クーロワールのトラバースは、上部を見通して落石の有無を視認し、要注意箇所の三十メートルを素早く通過すればよい。
天候がよければ、技術的には難しくないのだが、体力勝負であった。
今回の登頂では、高度障害とペース配分に苦しんだ。
四千メートルを越えると心肺機能が著しく低下し、歩行ペースが半分に落ちた。
単独で地元の人たちに混じり歩いたので、日本での登り方と違った。
彼らは、基本的に目的地まで休憩を取らない。
腰を下ろす場所がないのと、風が強いので、留まると、かえって疲労する。
初日のニ・デーグルからグーテ小屋まで、標高差千四百メートルを四~五時間で登る。
グーテ小屋から四千八百メートルの頂上までは、標高差千メートルを四~五時間、こちらは、その1.5倍の時間がかかった。
最初は彼らの間に挟まって進むが、そのペースに狂わされ疲労が過ぎた。
シャモニのホテルに戻った顔を見て、相棒は日に干した赤唐辛子みたいと言った。
山小屋は原則として予約がないと泊れない。
稼ぎ時のハイシーズンでも、日本の山小屋ように滅多やたらに詰め込まない。
夜は、一人用のマットレスで仰向けになり、ゆっくり眠れた。
隣の若者は、鼾をかかなかった。
一番たまげたのは、トイレであった。
排泄物は大も小も、山小屋直下の斜面にたれ流しである。
道理で、小屋に近づくと臭ったはずだ。
トイレの構造は、床下深く一畳ほどのステンレス板が斜めに敷かれ、その低い方の先に、直径三十センチ程の筒が繋がっていた。
ステンレス板の上に落ちたものは穴まで滑り、筒先から谷間に直行する仕掛けである。
人が乗るのはステンレス板の上に渡された二枚の足場板、その間隔は五十センチ位であろうか。
これを見て、初めはどうやって用を足すのかと悩んだ。
足の短い日本人が、股の間を五十センチも開けてしゃがめば、堪えきれず、落ちてそのまま穴に吸い込まれるのではないかと。
頂上へ出発前の明け方、止むにやまれず用事をすませた。
ヘッドランプの明りで結果を確認すると、薄暗がりに細いのが一本落ちていた。
ふと、その前方に目をやると、なんとなんと、太さが三、四センチはあろうか、長さが二十センチ位のでか物が、数本ゴロゴロ転がっていた。
唖然とし、呆れはて、我彼の馬力差は、こういうことだったのだと思い知らされた。
カメラの動作不良は痛かった。日本の冬山でもピントが合わずシャッターが下りないことがあったので、低温に比較的強いリチウムイオン電池入りのカメラを持参したが想定外だった。高度障害で判断力が鈍り、カメラの保温にまで気が回らなかった。
後日談だが、下山中にグーテ峰で出会ったチェコの男性はチェコ・フィルのチェロ奏者で、数年後マタチッチと日本公演に来た。再会を念じて、上野の文化会館にブルックナーを聴きに行き、幸いにもモンブラン登頂を祝い合えた。