ヨーロッパ・スキー旅行 2
ウイーン観光
2005年 3月4日《サンモリッツ→ウイーン》
スキーも終わり、あとはウイーンを見物して帰るだけ。ウイーン到着を早めようと、予定より早く9時の電車でサンモリッツを発った。
シュクオルでのバス乗継ぎも無駄なく運び、インスブルックに4時間半で着いた。しかしながら空港に電話すると、ウイーン行きの空席は予約していた便しかなく、厳寒の街へ繰り出す元気もない3人は、インスブルック駅と空港の待合室で4時間余を持てあますことになった。
駅構内にはバーやスーパーがあり、ここでビールと不味いスナックの昼食をとり、土産にモーツアルトのチョコレートを仕入れ、リムジンバスで空港へ向かった。
空港のチェックインカウンターではチロルの若い女性たちが応対していた。ローカル便のスチュワーデスも地元の若い女性である。彼女たちの目玉がなんとでかいこと。二つの眼窩はゴーグルみたいに顔面を占有し、それに負けじと高い鼻と大きい口がバランスよく自己主張している。われわれの扁平な顔とは随分違う。珍しもの見たさで、見惚(みと)れているうちウイーンに着いた。
ウイーン空港でパスタの夕食を済ませ、街まではリムジンバスを利用、バス停からホテルまで500mほどの石畳をトランクを転がし歩いた。
予約したホテルはリンクの停留所前にあった。5階建雑居ビルの2階と3階を占めたペンション形式のホテルで、フロントと食堂が2階にあり、我々の部屋はそこから一旦外部の廊下に出て3階のホテルに入り、廊下を通ってから、部屋のドアを開けて辿り着くややこしい構造になっている。外からビルに入るには大扉があり、夜間は鍵を使わねば入れない。キーホルダーには3つのキーが付いていた。
このペンションはウイーンでも高級クラスらしく、ケンプなど有名人の写真が飾られていた。
3月5日 《ウイーン》
朝食はコンチネンタル、いままでのホテルと殆ど同じメニーだが中味は少し上等になっていた。パンとコーヒーに、ハムとチーズ、ヨーグルトがつき、シリアスと牛乳、乾しプルーンもある。これに生野菜が付けば申し分ないのだが。
ウイーン見物は、一昨年秋ウイーン、プラハ、ブタペストを一人で旅したOさんの案内。
先ずホテル前の市立公園でブルックナー、シューベルト、シュトラウスなど音楽家の銅像を見る。中国人観光客が大勢来ていた。リンクに沿って街の中心部ケルトナー通りまで歩いた。目抜き通りを重厚な観光馬車が自動車や路面電車と並走し、世紀末の家並みに似合う。
王宮、スイス宮、シュテファン寺院、ペーター教会などを見学し、地下に歴代皇帝の棺が眠るカプツィーナ教会に入った。西洋人の死者を弔う特異な心情が伺える。
シュテファン寺院はあまりにも巨大で威圧された。12世紀ロマネスク様式の教会として建築され、14~15世紀にハプスブルグ家のルドルフ4世によってゴチック様式の大聖堂として改装された。石造りの説教壇、彫刻、彫像、カタコンベ(地下墓地)がある。
ミュージカルの切符を買いにインフォメーションに行くが、既に子どもたちの春休みに入っているとかでサウンドオブミュージックは売り切れていた。シェーンブルン宮殿のオランジェリーコンサートがあったので早速その切符を購入した。
ペーター教会は観光ルートから外れているのか、見学者が少なく静かな教会の雰囲気を味わえた。
ウイーンで2番目に古いバロック風の教会で、教壇は聖ヨハネがモルダウ川に身を投げるところが彫られ、バロック芸術の極致といわれている。
JALの店で土産を購入、そこの店員の紹介で「ほのぼの」というラーメン屋で昼にした。味噌ラーメンの味は日本の店と較べ遜色ない。マスターの日本語があまりにも滑らかだったので、聞くと19才まで東京にいたとか。久し振りで心地よい江戸弁を耳にした。
午後は美術史博物館へ。
エジプト、古代ギリシャ、ローマの彫刻、ルーベンスなど古い絵の数はルーブル級といわれるが、バベルの塔などブリューゲルの絵も有名。
あまりにも数が多く疲れた。Yさんと私は一刻も早くホテルに帰りひと休みしたかったが、元気溌剌のOさんが反対。結局カフェ・モーツアルトでお茶にした。ザッハトルテが旨かった。
夕食は日本料理屋優月ですき焼きとしゃぶしゃぶ。その後、地下鉄でコンサートに出かけた。団体ツアー向きに組まれたモーツアルトとシュトラウスのアラカルトだったが、久し振りの楽音で心が洗われた。
帰りの地下鉄で物乞い出会った。戦後間もない日本にも傷痍軍人を名乗る
連中がいた。彼らは汚れた白衣を着て傷もない膝を剥き出しに首から乞食袋をぶら下げていた。このスタイルが万国共通なのか、ウイーンの乞食もズボンの裾をまくり寒々と片膝を出していた。彼に小銭を与える乗客がかなりいた。仕事が一段落すると、彼は車輌の隅で小銭を数え、寒さに堪らずズボンの裾を下ろし一息ついていた。ウイーンの地下鉄は改札口がないので彼らは容易に乗車できる。
インスブルックでもレストランに浮浪者が入ってきて客に物乞いし、マスターにつまみ出されていた。オーストリアは貧富の差が大きく乞食を許容する文化があるのだろうか。
3月6日 《ウイーン》
今日はわれわれ二人がお上りさん観光ルートを歩き、Oさんは独り美術館を巡る。
先ずはシェーンブルン宮殿へ、昨夜の音楽会は宮殿東陵だったので地下鉄の乗り方は分かっていた。U4でシェーンブルン下車、宮殿正門まで少し歩く。空気が冷たかった。
9時入場、1時間余見学した。この宮殿は16世紀に建てられたそうだが、20世紀初め近代的に改装されている。皇帝の日常生活が伺えるもので、執務室や会議の間、儀式を行う大ギャラリーはありきたりだが、王妃の化粧室、子ども部屋、トイレ、浴室などは興味深いものだ。
40の部屋がある広大な2階は皇帝一家の居室だが、その下の1階部分は召使たちの部屋であったか。現在1階部分は第二次世界大戦後の住宅難のおり、仮住まいとして移り住んだ人たちが、そのまま居住しているとか。
宮殿の裏手に1.7ヘクタールの庭園があり、その一端に日本庭園もあるそうだが、一面の雪ですべてが覆い尽くされていた。庭園の南丘にグロリエッタという臣下の死を悼んで築かれた建物があるが、そこまで歩くのに20分かかった。この丘の上から、ウイーンの中心街を望む景色も素晴らしい。
騒々しく中国語が飛び交うので見ると、若い10人位のグループが記念写真を撮りあっていた。昨夜の音楽会場でも大勢の中国人観光客が来ていた。
数年前のヨーロッパでは見られなかった光景である。これも中国経済隆盛の表れか。
広い庭園ではクロカン・スキーを付けた地元の中学生らしいグループが快活にトレーニングしていた。
グロリエッタ裏手の林では、老夫婦が手をさしのべて小鳥に餌付けをしていた。
庭園内の林を抜け、動物園の側を通り宮殿正面に戻ったのは11時過ぎであった。U4でリンクに戻り、次はカールスプラッツに出かけた。
モダンな広場の前にバロック建築のカールス教会があった。日曜日でミサが行われ、最後の滴礼に立ち会えた。ミサに参加しているのは旅行者が多いようだ。
この広場ではカールスプラッツ駅が人目を引く。新旧建造物が並存するこの地域は面白い。日本では奇抜な建物の殆どが数十年で姿を消す。時代の評価に耐えるものが少ないのか。
この近くにある分離派会館セセッシオンにも足を延ばした。クリムトの作品が2、3点展示されていた。
この界隈は何となく物騒な雰囲気があり犯罪の臭いがした。
腹が減ったので昨日のラーメン屋に行ったが日曜で休みだった。優月でシュニッツエルのカツどんを食べた。
午後は市電Dでベルヴェデール宮殿のオーストリアギャラリーへ行った。
ベルヴェデール上宮と下宮の間に広がる庭園は雪に覆われていたが、離宮は美しい眺めであった。
オーストリアギャラリーの入口が分からず、上宮の周りをうろうろした挙句、近くにいた日本人らしき若い女性に聞くと目の前が目的地であった。
20代とおぼしき凛としたこの女性、ウイーンを皮切りに1ヶ月をかけてドイツを巡るそうで、その心意気に感心した。
ここに展示されている絵画は見ごたえがあり、たっぷり2時間をかけクリムトやシーレを堪能した。4時にオペラ座の前でOさんと待ち合わせ、ホテルに戻った。
夜は最後の晩餐と洒落、市庁舎地下にあるラートハウスケラーに出かけたが、ここも日曜日で休み。次の候補、グリーヒェンバイセルを目指しリンク内を西から東に彷徨ったあげく、子犬を連れた親切なおばあちゃんに出会い、店の近くまで案内してもらいやっと辿り着いた。
ここはウイーン最古のレストランで、建物は13世紀のもの、店は16世紀から営業しているという。3人でシャルドネ1本空けた。
ライトハウスケラーに向うリンクの中で、太い黒枠のメガネをかけた東洋系の女の子が、われわれに注目していた。市庁舎前で下車した時、Oさんに近寄り、「前にお会いしませんでしたか?」と尋ねて来たので、さすが艶福家のOさんと一瞬聞き耳を立てたが、人違いであった。彼女は市庁舎に隣接するウイーン大学に留学中で、文学を専攻しているとか、1年目を修了したそうで少し疲れがうかがえた。
ウイーンでは、シーズンオフのせいか日本人団体旅行客は少なく、1人で旅する若い女性が目についた。自然体の彼女たちは、皮膚の色は異なるもののウイーンの街にとけ込んでいた。
3月7日 《ウイーン》
12日間の旅が終った。朝食はいつもどおり。荷物の整理も終わったので、もう一度街にでた。市立公園を通り、ミッテ駅を覗いてみた。ここも通勤客が多い。クアハウスからベートーベン広場に出て大きな銅像を撮りホテルに戻った。
ホテルをチェックアウトしリムジンバス乗り場まで歩き空港へ。早めに搭乗手続きして免税店を物色したが適当な土産が見つからない。妻と娘に靴とチョコレートを買った。免税手続きをして払い戻しを受けるため、何度も出国窓口を通ったのでパスポートに3つも出国審査印が付いた。
搭乗待合室で隣にいた青年に声をかけるとウイーン子で日本の友だちに会いに行くとか、ネクタイとスーツが似合う好青年だった。
3月8日《成田》
帰りもエアバスA320だったが、通路側に席を取ったせいか疲れが少なく早々と成田についた。
八千代台までの京成電車は清潔で車窓の景色も明るく、あらためて日本はいいなと思った。駅からタクシーで家に、風呂に入り、直ぐラーメンを食べに出かけた。その夜はよく眠れた。
2年前に出かけたスイス登山旅行は帰国後1ヶ月も疲れが残ったが、今度のスキー旅行では驚くほど疲労が少なく数日で日常に戻った。