「開かれた社会とその敵 ● 第一部 プラトンの呪文」
開かれた社会とその敵 第1部 プラトンの呪文
カール・ライムント・ポパー (著), 内田 詔夫, 小河原 誠 (翻訳) 未来社
読んでいる途中で焼失したのでこの本は全部読んでいないのだが、最近の安倍首相の言動やゴーン氏の逮捕劇、右翼的に傾きつつある社会傾向などを感じるにつれ、下に書いたような考えが浮かんできている。この考えは、もともとこの本の冒頭から展開されているプラトン批判に影響を受けていると思う。読んだところまでの内容を思い返して反芻してみると幼いころから感じてきた権力への嫌悪の原因が分かった気がするのだ。
リーダーというのはどうも苦手だ。なるのも嫌だし、上に立たれるのも鬱陶しい。彼らが振りかざす「保護」は「支配」と同じものだ。支持者は「依存」の代償として進んで「搾取」される。この関係性を外さなければ社会は良くならないんじゃないか。
プラトンのいうような賢人は残念ながらリーダーにならない。リーダーになりたがるのは人を支配する事に長けた利己的な威張り屋ばかりだ。賢人はリーダーという立場の欺瞞や矛盾を理解している。
共産主義が上手くいかなかったのは強力なリーダーがいたからだ。彼らは民衆を扇動する事で支配し搾取した。理想と裏腹に民衆と対等に生きる道を選ばなかった。リーダーという存在は欺瞞に満ちている。共に産み出そうといいながら押さえつけて上前を跳ねる。
リーダーは「人を纏めるのは大変な事だ」と言うかもしれない。「頼られて便宜をはかって見返りを貰って何が悪い」と言うかもしれない。けれど、そう言ってあたかも人のためと装って、戦争を起こすのは決まって愚かなリーダー達だ。
リーダーがいない世界を想像してみよう。人の纏まりは緩やかに周辺で融け合って争う主体も対象もぼやけてしまうだろう。周辺国にもリーダーはいないから侵略される心配もなく国境線をひく意味もない。大体自治の枠組みなど、この境界で纏めようという作為がなければ何の意味もない恣意的なものだ。纏めてくれとも、便宜をはかってくれとも頼まないのに、勝手なことをされて税金を取られているのは昔からそうだったからという単なる慣習に過ぎない。時代も変わったのだから変えた方がいい。
リーダーなど居なくても民主的にルールを決めれば社会は成り立つ。
古代ギリシアの例があるではないか。
権威主義的なリーダーを封じるには一人ひとりが依存心を無くさないとダメだろう。魚心あれば水心。頼りたい人が居るから頼られて有頂天になるリーダーも生まれるのだ。
自立した市民にリーダーは無用だ。
もっとも、誰かに依存せざるを得ない社会的弱者も居るだろう。しかし、彼らにとっても、リーダーがひとりいるよりも、リーダーに付け入る隙を与えない善意の賢明な市民がたくさん居た方がいい。
コミュニティーは社会的弱者の周辺からできるという話を聞いたことがある。確か「おせっかい教育論」という本の中に出てきたのだったと思う。社会的弱者を利他的に援助しようと賢明な人々が集まるのだ。権力者の周りに有象無象がおこぼれにあずかるために集まるエセコミュニティーとは対照的だ。本来目指すべき社会がどちらかは明らかだろう。
とはいえ、今はまだ権威あるリーダーに依存する社会だ。
どこにも権威のないコミュニティはないだろう。中心人物にその気がなくても、すぐに太鼓持ちが集まってきて権威を付加していく。そういうわけで権威のあるリーダーは直ぐには居なくならない。
誰かに依存しない一方で、行動を起こすときには支配ではなく共助に向かう強い意志を持つ人を増やすには教育しかない。
教育で下記のような人間を注意深く減らす努力をすべきだ。
リーダー依存症の特徴
自分で考えないで、すぐに人の考えに影響される。
上手くいかないことは人や社会のせいにする。
自分にとっての損得だけで動く。
助けてもらうことはあっても人助けはしない。
人助けは国や自治体に任せればいいと思っている。
人が損をすると自分が得した気分になる。
威張り屋リーダーの特徴
人に力を揮える自分を立派だと思っている。
外に仮想敵国を作り依存者を結束させる。
依存者を搾取し手足のように使いたてる。
指揮を高めるために威勢の良いことを言う。
威勢の歯止めが利かず越境行為に走る。
このような人々で構成された社会から早く脱したいものだ。
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失っても思い出す本の話
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