人さまの自転車を間違えて持ち帰った顛末
「もうあかんわ」と空(くう)を見つめた経験は数知れない。こう書きながらまた空を見つめて思わずため息をもらしつつ苦笑いだ。もうほんとあかんのよ、笑うしかないのよ、的なおはなしを、この機会にひとつご披露させていただきたく思います。
今はもう社会人となった息子が小学校の、確か3年生くらいの頃。少し離れたマンションに住む友達の家に自転車で遊びに行った。初めて行くマンションに自転車で、というのは心配だったけど、ご近所に住む息子の同級生とそのお母さんが連れて行ってくださるというので、ありがたくお願いしたのだった。
そろそろ帰ってくるかなという頃、そのお母さんからケータイ(スマホ以前の時代)に電話があった。
「〇〇(息子)くんのね、自転車の鍵が違うみたいで、開かないの」
「うーん、なんで?」と思いつつ、合鍵を持って現場へ行き、息子が持っている鍵とわたしが持参した合鍵を使い、わたしと連絡をくれたお母さんとで必死に解錠を試みるも、どうしても合わないし、開かない。
――はい、タイトルでおわかりの通り、そうです、他人の自転車だったから、開かないんです。違うのは「自転車の鍵」ではなく「自転車」そのもの。
ちょっとイキりたい小学生男児と、そんな息子にカッコよくあって欲しい親心が選ばせるスポーツタイプの自転車の、ボディカラーは黒ベース。10台に一台くらい同じものがあったって全然不思議じゃないのに ! ちょっと振り向けばそこにはまったく同じ色と形の正真正銘息子の自転車が、解錠されるのを待っていたはずなのに!
なんでここで誰も気づかなかったのかと何度思い返しても不思議だけど、思い込みとはおそろしいもの。息子の自転車と信じきったわたしたちは、おかしいなあ、なんでかなあと、さんざんいじったあげく諦めて、息子は、同級生のお母さんが家まで送ってくださるというのでお願いし、わたしは息子の(ものだと信じて疑わない)自転車を持ち帰ることにした。
固定された後輪を持ち上げながら歩くには結構な距離で、腕が疲れてヘトヘトだ。そんな中でも疑問を抱かなかった当時のわたしよ、わたしよわたしよ、ばかなのか!と思い出すたび自分の頭をこづきたくてたまらない心境に陥る道中だ。
それでもせめて、そのまま帰宅できていれば良かった。
あと少し、あと一本道路を横断すれば我が家がすぐそこに、というときだった。さしかかった新聞屋さんの前に、ちょうど夕刊の配達を終えてくつろいでいる体のおじさま方が何人かいて、自転車の後輪を持ち上げながらひいこら歩くわたしに「おいどうしたどうした」と声をかけてきてくださった。
これこれこういうわけで鍵が開かなくなっちゃったので持ちあげてますと説明するとおじさま方、そりゃ大変だとわらわら集まって
なんとチカラづくでもって、鍵をぶっ壊して外してくれたのです。
^_^
( この場面思い出すたび冷や汗が出る )
さて、鍵が外され、あと少しの距離を軽快に帰宅したわたしにこのあと衝撃の展開が待っていたことは言うまでもありません。
我が子の自転車がないと知ったお母さん → 探すと全く同じ自転車がある → 名前が書いてある(!) → 母たちの連携プレーで我が家に連絡がくる → 平謝りで鍵の壊れた自転車をひとまずお返しし、無傷の我が息子の自転車を持ち帰る。
怒涛の顛末はこんなところだけど、もちろんこれで話は終わりません。なんせ人さまの、大事なお子さんの自転車の鍵をチカラづくでぶっ壊してます。鍵だけじゃなく本体にも傷がついているのにちがいなく、とにかく不具合全部直してもらってその修理代をお支払いしなければ。
後日あらためて菓子折り持って謝りに行き、お代を支払おうとしたところ、「修理代かからなかったのでいりません」とにこやかに辞退の申し出を受けるというこれまた衝撃の展開となりました。なんでも自転車屋さんがこの事態を「珍しいこともあるものだ」と、無償で直してくださったとのこと。
思い込みからとんでもない事態を引き起こし、多数のみなみなさまに多大なご迷惑をおかけしたわりには、穏やかに和やかにコトは済んでしまいました。みんななんていい人なんだ。だからこそ余計に肩身が狭く申し訳ない思いは時を経ようと変わらずあるけれど、同時にこのとんだ珍事をいつかネタとして昇華できればいいなあと心ひそかに願った、20年近く前のできごとです。
昇華の機会をありがとうございます!