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(日記)意味の美しさ

意味の美しさ、ということについて考えていた。

美しいものに常に励まされている。応援ソングより、おいしい食べ物より、楽しい体験より、励みになるのは常に美しいものだと思う。詩歌や、アイドルの一糸乱れぬパフォーマンスや、花とか、なんでも良いけど、自分に作用するのではない、ただ美しさを発揮しているものを見るのがいちばん楽しくて嬉しい。

文章を書いたり読んだりするときにはさまざまな美しさにふれる。

最近久しぶりに再読した本、オーシャン・ヴォンの『地上で僕らはつかの間きらめく(On Earth We're Briefly Gorgeous)』には、モチーフや言葉の使い方の美しさが溢れていた。ベトナムからアメリカに渡った詩人が連ねる言葉は、横溢するほどの綺麗さを持っている。

記憶は選択。母さんは僕に背中を向けたまま、神様みたいな口ぶりで、かつてそう言った。でも神様なら、きっとその二人の姿が見えるだろう。梢の若枝が輝き、晩秋の紅葉の中でしっとりと濡れた松の森の向こう。枝の間を抜け、茨をくぐった錆色の日差しの中、一本一本地面に落ちる針葉の間から、母さんは神の目で彼らを見る。

オーシャン・ヴォン『地上で僕らはつかの間きらめく』(新潮社)

一文一文が、端正な刺繍のように綺麗。ここに浸っている時間がとても好きだ。単語ひとつひとつのモチーフの美しさ。それから、切れ味の美しさ、とでもいうべきなのか、説明書には許されないような言葉の使い方、躍動の具合の美しさ。浸る心地よさはどれもやめられない。

でも、それらを超えて「意味」の話をしたい、と思う。しなければならない、と最近は自分に課している。気に入ったビーズを探すように言葉やモチーフの美しさを楽しむのも大好きだけれど、そこに書かれているものは何なのか。意味は何。

『地上で僕らはつかの間きらめく』の中で、ダンキンドーナツで向かい合う母と息子のシーンが印象に残った。物語の核に触れる部分なので詳しくは書かないけれども、あの「真実の交換」にはとても胸をえぐられた。最初に読んだときは言葉を追うのに必死で気が付かなかった、意味の美しさ。

自分が本当に美しいと思える意味って、なんだろう。言葉からではなく、意味のほうから表現したいと叫び出すようなものは。

高校の部活で出場した合唱コンクールで、部員が6人ほどの学校の歌を聞いたときのことをよく覚えている。お世辞にも上手とは言えなかった。とはいえ胸に迫ったのはなんだったんだろう。彼らが命を使って歌い上げていることが誇張でなく尊く思えた。あれは意味として美しかった。

それから、大事なものを表すためにずっと探していた表現をふいに見つけることができて、ぽろりとこぼしたそれに共鳴してくれる人がいたとき(東京都と北海道という距離がありながら!)。あれは嬉しくて、美しかった。

たまに、いつか子どもができたときのことを思い浮かべる。たとえば見慣れた河原をゆっくりと歩くだけで、その子の視点に自分の視点を重ね合わせて感動するようなときが来るのだろうかと思う。そう思うだけで泣きそうになる。これもたぶん、意味として美しい。

言葉があると、ものを見つけられるのと同時に、隠すこともできる。横溢する源泉には実は何もないんじゃないかと思うときがある。響きや景色に惑わされないで。陶酔ではなく受け止めて、感動をして。

そういうことをなんとなく考えていた。だいぶ涼しくなってきて、考え事のしやすい季節。

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