丸めた記憶
「初めて」と「新しい」はあまり混同しない方が
いいと思う。
自分が知らなかったことは、多分周りの人たちも
知らなくて、それじゃあ、しゃーないな
なんて考え方は減らしていかないとな。
色んな人が、これと同じようなことを言ってきたと思うけど、最近、本当に実感してる。
「気づいてあげること」と「共感してあげること」
は混同してはいけないなって思う。
今初めて気づいてくれたのに、
「ぃや、そぉだよねぇ」
とか言われた、腑に落ちんやんけ。
知らんかったんとちゃうの?
知ったかぶりほど悲しいものはない。
私も、あの人も。
全日制に通っていた頃の友達と久しぶりに会えば、
思っていたより遠くに行ってしまっていたことに
少し自分が情けなく思えた。
どうせできないなら頑張らなきゃ良かったと
ほんとはダメだけど少し考えてしまう自分。
お前のことも、正直きらい。
自分は偉くもなんともない。
だけど、『自分は偉い』なんて勘違いをしてなければ、もうやっていけないカラダになってしまった。
頭ではダメだとわかっていても
赤信号の交差点に何も考えず突っ込んでいく感じ。
幸い、私の周りの人間はある程度、私のアクセルの踏み間違いを理解してくれる。あの人はそういう人なのだと。
しかし、社会的観念からすれば常軌を逸している。
治すべきに踏みとどまっている自分に嫌気がさす。
人は他人に元気を与えることなどできないのかもしれない。しかし、他人の秘めたる元気を引き出すことはできるのかもしれない。
身近な人間に「頑張ったね」と言われれば
私は少し元気になる。
テレビの中で『生きよう』と連呼する佐藤二郎氏を観たとき、私は元気になった。生きようと思った。
人は皆んな、違うものである。
みんな違ってみんな良いのである。
唯一同じところがあるとすればそれは
『皆んな、誰かとは違う』ということだろう。
所詮私は『頑張ったね』と言われないと元気が出ない人間であり、されど私は『頑張ったね』と言われれば元気が出る人間である。
そういう意味では、私は近い将来、誰かの元気を引き出すことができる人間になりたい。
18歳になっても時折、涙を流す。
感情に縛られず、ただ何もないところを向いて泣く。泣けばスッキリする。即ちは、スッキリするべきだと心が訴えている訳で。
オジサンになってもお爺さんになっても、
きっとこれは変わらない。
心が子供のままなのではない。
恐らくは、それが私の心の完成形なのだろう。
心の底から貴方に会えて良かったと言える人と今年出会った。
いつまで貴方と一緒にいられるかは分からないけど、きっとその運命も受け入れられる。
だから貴方に会えて良かったと心の底から思える。
会えないって分かるようになる前に、貴方に直接伝えなきゃなと思ってます。
貴方のおかげで、こうやって歩いてます
って。
頑張ることが当たり前なんかじゃない。
たまに頑張った時に『あぁ頑張ったな私』
って思えるくらいには日々手を抜く努力をする。
そっちの方が、頑張った時に気持ちがいいからね。
因みに、頑張るのと努力するのは全く別物ね。
ウチの浴室のシャワーは、水を出してから3秒くらい経つと水圧が弱まって、また2秒くらい経って元の水圧に戻る。
んで、多分今は人生の2秒間。んー、分かりにくい。
あともうちょいでまた走れそう。
必要な時に走って、ちょっと頑張りすぎたら歩いて
必要なかったら立ち止まって休む。
ほいで、またやりたくなったらぼちぼち歩く。
朝陽が昇れば、必ず夕陽が沈む。
丸めた記憶は、皺が残っても捨てちゃいけない。
掌に潰れてしまったとしても、
涙に濡れてしまったとしても、
やっぱり手放すことはできない。
明日はやれそうな気がする。
そう思えるようになった事が、何より楽しい。
私は朝陽より夕陽が好きだ。
明日を想像できるから。
私は出会いも好きだが、別れも嫌いじゃない。
未来を、将来を想像できるから。
私は言葉を紡ぐのが好きだ。
見えないけれど、貴方を想像できるから。
少しずつ、丸めた記憶を開いていく。