「行ってきます。またね。」のに。
行ってきますってお別れの言葉みたい。
終わりがあって、帰る場所があって、待ってる人がいて、会いたい人がいて、やり残したことがあって、それらを背にしたとき人は「さよなら」なんて言わずに「行ってきます」という。
「行ってきます」だけが目の前に残ったまま、あの人が戻ってこなかったときの手持無沙汰。
行ってきますがお別れの言葉になった人たち。たくさんの別れ。数多くのたった一度のほんの一瞬。
テレビから流れ出てきた、あそこにいる誰かの運命を思い出して、ただただ不安に苛まれてしまう。
アタシはただ目の前の一瞬を見逃さないように抗い、手の中に残ったそれをぎゅっと抱きしめなければならない。
嘘みたいに綺麗な空は本当にある。
いつもの場所から、いつもの時間に、いつも通り歩く。
去年も2年前も3年前も10年前もずっとこの景色を知っているのに、どれひとつ同じものを思い出せないのはアタシが日々を生きている証拠。
アタシが見ている世界はアタシを中心に時間が進んでいるわけで。
アタシが大きな時計台の役割をしていて、それは一周する大きな針も小さな針も持たない。
振り返ることがあっても決して戻ることはない。
いつも通りをそっくりひっくり返して後ろ向きに歩いてみたところで、ただ後ろ向きに進んでいるだけだったんだ。
誰かに近寄ったり、たまに寄りかかったり、遠ざかったりを繰り返し続けて、止めて、始めて、続けて。
年齢を重ねるごとに、あの日が遠い昔になっていって、“変えた”ことを自分の意志で変えたことすら忘れて、いつの間にか“変わってしまった”なんて不貞腐れた。
ただただ今は、なんの変哲もなくて、うまく行ったり行かなかったりする日々がたまらなく愛おしい。
ふいに夢が終わってしまった夜。涙と一緒に起き上がるベッド。いつもよりゆっくり流れる路線バスの車窓。
何かが違うと感じるのは、その違和感が気持ちよくなかったから。
いつも通りな気もするし、決定的に何かが違う気もする。
しっくりこない胸の中にたまった何かを吐き出せないまま一週間が過ぎて、やっと大きな音を出すことを思い出す。
車酔いしているのなら吐き出しちゃえばいいのに。
大音量で誤魔化しながら、歌いながら、叫びながら、アタシを取り戻したり、違和感を受け入れたり。
そんなもんだと思えている。
笑い飛ばせるほど絶望していないし、泣きじゃくるほど深刻でもない。
少し悲しい思いをするたびに、誰かが抱いているであろう悲しみを勝手に想像して、無意味に他人の感情と競わせて、勝手にアタシが負ける。
ある程度大きな衝撃があれば笑い飛ばして諦めてしまうのに。どこか別の場所に行って大好きをもっと愛でることができるのに。どうしようもなさに泣いてしまえばよかったのに。
中途半端なところに立っている時、中途半端な表情をすることができないのです。
中途半端に生きるって難しいけど、中途半端に生きたいわけじゃない。
風呂場にいるときは、なんでも思いつく。気がする。
湿った部屋でいっぱい鼻歌歌いながら、独り言しながら、妄想しながら、できるんじゃねえのってことたちをいっぱいメモしていく。
この時間が結構楽しいし、心も体も素っ裸なわけで、ありのままそのもの。
風呂って大切なんだなっていつも思ってる。
一人の時くらい、ヤなもん脱ぎ捨てて、ゴシゴシ洗って、裸でベッドにダイブしたっていいんです。
恥ずかしくたって、そうじゃなくたって。
通信制に通っていた3年間、基本的に平日はバイトに出かけるのが遅かったから、出かけていく家族を見送ることしかしていなかった気がする。
ただいまは自分に言うことにしていた。
だから今でも一人でただいまを言うし、それは決して変なことではない。
欲を言えば誰かにただいまを言ったり、お帰りを言いたいし、そんな日々ができるだけ長く続けばいいなと思う。
例えば、家族が急に世界からいなくなったとしたら、アタシは行ってきますとただいまを言い続けるのかな。
あなたは?
時計台はまだ生きている。
その限り世界も動き続ける。
みんなおかえり。
ほら、時間だよ。
また会おうね。
行ってらっしゃい。