見出し画像

たまにずっとを

アタシはとらわれているらしい。
やらなきゃいけないのに、やりたいことがあるのに、今のうちにやった方がいいのに、せっかく朝起きたのに、今日着たい服を着れたのに、髪型がいい感じに出来上がったのに、あと2歩目を踏み出せばすぐそこにあったのに、未だここにいるのは「とらわれているから」らしい。
気を抜けば力も一緒に抜けて絵に描いたようにへたり込んでしまう。

今まで頑張っていなかったアタシがいたとして、なぜか頑張れてしまうものに出会った時、頑張れているこの時間が愛おしくて仕方なくて、この時間が少しでも長く続けばいいなって心のどこかで思っていて、動かなくなるか、目に見えるどこかが壊れるかしてしまわないと止まらない。
誰かに止められるのもつらいし、急に電池が切れてしまうのも悲しくて。
まだ頑張りたいのに動かなくなったとき、生きることの不器用さに腹が立って、感情のやり場がなくなって、すっきりすることのない涙を流すことになる。

20年も生きていながら未だこのシーンの回避をする方法を知らない。

モノローグをうまく使って生きていきたい。
思ったことはすぐに口にした方がいいと思ってやってきたからに、独り言を叫び散らしながらここまでやってきてしまった。

秘密を胸においておくことが苦手である。
いいことがあったらすぐ誰かに伝えたくなるし、一緒に喜んでくれればいいなと期待と共に解き放って、見事に地面に散り積もるのを視界の端っこでとらえてから無かったことにしている。

心の中にとどめておいた方が面白いことがあることを知った。
その方が巡り巡ってうまくアタシをいい方向に運んでくれるらしい。
とはいうものの、ここに書き連ねてきたものはすべてモノローグといえる。
もっといっぱい喋りたいことがあったはずだから、口から溢れ出してしまう前にここに書いておかなければならない。

無くなるものにこそ意味がある。
と最近よく考えるわけである。
どっかの住職が書いた死生観のそれとは異なるベクトルで話していきたいのだが、ここんところのアタシは失ってしまったものや感情を取り戻したいという願望に突き動かされながら生きている実感があるし、多分これからもしばらくはそんな生き方をしていくつもりである。
なんとも過去3年ほどの充実した日々を忘れられないでいるらしい。
新しい場所と新しい人を今は抱きしめながらいい形になっていけば。

学校から帰るバス。
丘の上から遠い日本海まで見渡すことができるパノラマ。
オレンジ色の街を数十秒眺めて、やがて草むらやら民家やらに隠れてしまうんだけど、あのひと時が結構好きだった。
日が短くなって、今日が終わるのも早く感じて、星がきれいで、エアコンのフィルターを掃除して、お布団を引っ張り出してきて、短い秋が始まった。
今日が終わって、今週が終わって、いつの間にか今月が終わって、気が付いたら今年も年末なのさ。
夏を暑がる余裕もなくぶどう園のバイトと部活を夢中でこなしていれば季節が一つ終わりを告げたのです。

いつも一緒なわけじゃない。
毎日会ってくれるみんなも、週に一回同じ講義室になるあなた方も、月に一回ストーリーを更新しているあの子も、二か月だけ同じバイト先で仕事するあの人たちも、十年ぶりに再開したあなたも、毎日迎えに来てくれるあなたのことも。
「いつも」「ずっと」じゃなくてたまに、別れて再び出会ってを繰り返して気が付いたら一緒にいてくれるあなたたち皆んなが大切。
もう大好き。米くらい好き。


舞台からの景色は、高校で『怪物の夜明け』『ひだまり』を歌った時とは打って変わり、何も見えないほどに眩しかった。
煌々と焚かれた何発もの照明に照らされて、アタシは一人の社会人を演じた。
紙面に起こした台本では十行に満たないセリフ量ではあったが、アタシなりに役に対して愛とこだわりをもって見つめ続けた二か月間。
その日々の淡い輝きが、あのステージの明かりだったのだと気づいた頃には、ただの20歳に戻っていた。
憧れで飛び込んだ世界にやっと着陸したのだ。
我ながら結構な手前によるソフトランディングと言えるだろう。
ステージとはなんて素晴らしい世界なのか、高校生ぶりに思い出した。
目覚めである。夜明けである。
太陽に手を伸ばして本当に良かった。

デビュットしたばかりだが、ほんの少しずつ憧れの女性に近づいていくことを、今はただ楽しもうと思う。
そしてイメージを体現する難しさを一身に感じながら、アタシはアタシ以外の人々を生きてみたいと切に願った。

世界が広がっていく音を聴きながら。
いつか下から眺めた世界を見つめながら。

いいなと思ったら応援しよう!