Untitled 9 BaseBalls
Untitled 9 BaseBallsというのは、ぼくが20歳の頃にやっていたバンドだ。大学の講義をサボりながら、煙たいくらいに煙草を燻らせた大学の空き部屋で、4人でなんとなくやっていた。どこまでも続く学生の時間を蝕むのが目的だったから、あんまりこだわったことはしていない。
松田聖子の赤いスイートピーをやってみたり、演歌をエレキで弾いてみたり、パンクをやったり、正統派ロックに勤しんでみたり。当時はなんとなく目指していたものもあったような気がするが、どんな音楽をやろうと考えていたのか、今では思い出せない。
バンドもいつのまにか始まって、そうして、周囲がリクルートスーツを着るくらいにはいつのまにかなくなっていた。
バンドメンバーは3人が男、1人だけ女がいた。その女は坂塚といって、なんともやる気のない女だったが、なぜか飛び抜けてドラムがうまかった。背が高く、真っ黒くて長い髪をしていて、男みたいなTシャツとジーパンで、ただ、堀の深い顔立ちでなんとなく美人だった。いつも煙草を吸っていて、ドラムをたたくか、マンガを読んでいた。
バンドにありがちな恋愛はなかった、たぶんぼく含め、坂塚と付き合ったり、恋愛関係になったやつはいないだろう。なろうとも思わなかったと思う。もちろん美人な女を相手に性的な興味を持たないこともなかったが、単に恋愛関係になるには、坂塚は自分たちより大人で、怖かった。
坂塚はバンドをいくつも掛け持ちしていた。よく知らないが、都内でもちょっと名の売れたバンドチームでの活動を中心にして、知り合いのバンドのサポートに入ったりと、顔も広かった。なんで自分たちのバンドに来るのかもよくわからないくらいだった。(実際、別のバンド活動が忙しくなると急に顔をみせなくなったりもした)
あるとき、坂塚にうちのバンドにいる理由を聞いてみたことがある。坂塚は、特に何の気もなさそうに、「Untitled 9 BaseBalls」と言った。
「なんかさ、響きが良かったんだよね、Untitled 9 BaseBalls」
「名前が良かったってこと?」
「そう、なんていうかね、気の利いたファッションブランドみたいな名前じゃん?Untitled 9 BaseBalls。名前のない9つのベースボール。かっこいー♪伝説の無名試合みたいじゃん。だからメンバーもさ、やたらセンスのいいのが集まってるのかーと思ったらこれだったわけよ」
坂塚はそう言って笑った。ぼくはなんだか恥ずかしくなって「悪かったな」と言った。
「いや、いいのよいいのよ。私さ、けっこーいろんなとこでやってるけど、まぁ暑苦しいのばっかりだと疲れるのよ。毎晩、ドラム叩きまくってさ、テキーラやってフェスティバールってのもまぁいいんだけどさ。マンガ読んだり、煙草吸うだけでもよくて、思いついたら叩くくらいのとこも、自分には必要だと思ったわけ。」
「休憩所みたいなもんか」
「まぁそんなとこね」
坂塚は煙草をくわえてうまそうに吸った。
「あと私さ、こんなんだから、女のグループにいれないんだよ。サシだったらいける相手も何人かいるんだけどさ。ニコニコして、わかるーとか言って、ずっとケーキ食ってたら発狂しちまうよ!」そういってゲラゲラ笑った。
しばらく黙っていると坂塚が続けた。
「でもさ、大事なんだぜ、名前」
「Untitled 9 BaseBalls?」ぼくが聞くとうなづく。
「そう。案外さ、売れる売れないーでドギマギしてるバンドとかいるけどさ、はじめっから名前がなってねーのが多いんだよ。逆に、名前を当たりにしただけでさ、中身は大したことないかもしんないけど、けっこういくとこまでいくバンドだっているわけ。"お!"って思わせられる名前があるってーのもけっこーな実力なんだと思うよ、私は。」
坂塚は、まじめな顔で煙草を灰皿に押し付けた。
「そんなにいいもんかね、Untitled 9 BaseBalls。名付けの理由だってもう覚えてないぜ?」
ぼくが聞くと坂塚は「いんだよ、いんだよ。理由なんていらねーよ。どうせここ幽霊バンドなんだし、じゃ私がそのうち名前貰ってやるよ」と言って、新しい煙草に火をつけた。
バンドを一番に辞めたのは、たぶんぼくだった。就職活動が始まり、リクルートスーツを買って、説明会に出向くと、あたりの様相が一瞬にしてひっくり返った。学生時代にやっていたことがなんとも価値のないみすぼらしいものに見えてきて、なんとなく、本当になんとなく、バンドのたまり場に行かなくなった。
バンドメンバーは坂塚含め、誰も連絡してこなかった。それくらいのバンドだったのだ。就職先がなんとか決まり、大学最後の夏休みを楽しむ頃には、バンドのことなど頭から抜けてしまっていた。ぼくのなかで、いや、たぶん全員にとって、Untitled 9 BaseBallsは自然解散した。
センスのいいバンド名はとくに何か力を発揮するようなことはなかった。
大学卒業後、ぼくは都内の中規模の広告制作会社に就職し、30歳になる今もそこで勤務している。営業と企画制作の間のような仕事をしているが、業界のなかでは比較的仕事も安定していて、繁忙期が大変なこと以外は、まぁ卒なくこなせている。仕事の内容も嫌いではない。
こないだ、久しぶりに坂塚と会って話をした。バンドメンバーで久しぶりに集まって飯でも食おうとなったのだ。
バンドメンバーは、坂塚含め、全員音楽を辞めていた。
金曜日、都内の居酒屋で飲みながら少し昔の話をした。バンドでやったことや、当時、流行っていたこと。大学の仲間の近況など、積もった話をするのに、金曜の夜は十分な長さだった。
坂塚は2児の母となっていたが、シングルマザーだった。実家のある栃木県で、農家の親と一緒に暮らしているらしい。
「あのときさ、最後までいたの私だったんだぜ。」
坂塚は煙草を片手に、笑いながらそう言った。ぼくは驚いて「そうなの?」と聞き返した。坂塚がそんなにあの場所を気に入っていたとは思えなかった。
「そうだよ!お前ら、情けねぇなー!」坂塚は豪快に笑った。目尻が垂れ、彼女はたしかに母親らしい顔をしていた。
「Untitled 9 BaseBalls。いい名前だからもらうことにしたんだよ。なんとなくお前ら、就活でいなくなりそうだったからさ、まぁじゃあ最後のメンバーになってやるかと思って。結局、卒業のギリギリまであの部屋ひとりで使ってたよ」
「なんだよ、言ってくれりゃ行ったのに!」
「バーカ、来ちゃったら私が最後のメンバーになれねーじゃんよ」
なぜか罪の意識が芽生えた。やりかけのものを坂塚に無理矢理おしつけてしまったような罪悪感がぼくを襲った。坂塚は、本当はずっとなんとなくのバンドを続けたかったんじゃないかとさえ思った。
「悪いことしたな」ぼくは坂塚に謝った。坂塚は当時より少し垂れた目で、笑いながら煙草を吸った。
「住所教えてよ、今度さ、うちの米送ってやるよ!うまいんだぜー♪」帰りがけに坂塚は、笑いながらそう言った。「あの坂塚が米農家とは、まいったね」メンバーと口々に言って笑った。「バーカ」坂塚も笑っていた。今夜は都内に住む姉夫婦の家に泊まって、明日、栃木に帰るらしい。
「また飲もうよ」坂塚にそいういうと「おう!お前も仕事頑張れよ!」と彼女は笑った。「あのさ、"Untitled 9 BaseBalls"の名前、結局どうしたの?」ぼくが聞くと、坂塚は少しだけ笑みを止めてこう言った。
「私がもらったんだから、お前に教えてやる筋合いはねーよ」
「そうだな」ぼくは言って、やっぱり「なんか本当、悪かったな」と謝った。
坂塚は笑っていた。「バーカ」と笑って言ったあと、坂塚はいつまでも足元を見ていた。
end.
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