危うく100万円の絵を買うところだった
ネットを眺めていたら、県内で開催される展示会の広告が流れてきた。名は「リャド原画展」。スペインの画家ホアキン・トレンツ・リャドの絵が見られるそうだ。せっかくなので行ってみよう、という軽い気持ちから予約フォームに必要事項を入力。予約番号が発行され、手続きは完了だ。
原画展に行くのだから、この際リャドについて軽く調べておこうと思い、Googleの検索窓に「リャド」と打ち込む。検索結果のトップにはリャドのwikiが表示されるのですが、その下の不穏な文字列が目に飛び込んできた。
僕は「リャド」と検索した。「リャド展」とは入力していない。それにしても何だね、この剣呑極まりない検索候補は。調べてみると、どうも展示会場での営業トークが凄まじいらしい。確かに、僕も予約をする際に1つ引っかかったことがある。入場が無料なことだ。特設ページを見てみると、少し小さめの文字で「絵画展示販売会」と書かれている。なるほど、タダほど高いものはない、ということか。
このことを知った僕は、リャド展に行くことを一瞬ためらった。車で片道1時間以上もかけて、わざわざセールスマンの営業トークを聞きに行くこともあるまい。しかし、逆にこうも考えられる。不愉快な思いをすると分かった上で、あえてそこに飛び込んでみるというのも、ある意味で新鮮な体験ではないか。そうでなくとも、単純に美しい絵は見てみたいし。
ということで、本日リャド展へ行ってまいりました。三連休ということで、会場の駐車場にはそこそこ車が停まっている。仲間がいるようで少し心強い。車を降りる際、僕は念には念を入れ、財布とクレジットカードは車内に置いてきた。さすがの営業マンも財布を奪うことはないでしょうが、僕が営業トークに根負けして絵を買ってしまう恐れがあったからだ。
会場の受付で予約番号を伝えると、特典のクリアファイルを渡された。入場すると、薄暗い空間に絵がズラリと飾られている。リャド以外にも、さまざまな画家の絵が展示されているようだ。僕が絵を眺めていると、さっそくスタッフらしい女性がにじり寄って来た。(始まった...!)想定通りの展開に、面倒臭さを上回るワクワク感すらあった。「こちらの絵に使われている技法は〜」スーツを着たお姉さんが、恐らく何十回と繰り返してきたであろう作品解説を始める。ふんふん、ほうほう、へぇそうなんですか、と相槌を打つ僕。僕より歳下でしょうが、かなり小慣れた雰囲気で、雑談の回し方も上手い。仕舞いにはゲームやアニメの話まで始める始末だ。く、オタクを舐めているのか...!悔しいけれど、この会話を楽しいと思ってしまった。
その後も、僕が別の作家のブースへ移るたびに例の女性がやって来ては解説を始める。最後まで一通り見終わると「どの絵が1番好きでしたか」と聞かれた。鈍い僕もさすがに察しがつく。ここで選んだ絵を商材に営業が始まるのだろう。会場に並べられていた絵は、大体50万円前後の値札が付いていた。実際、この金額ならうまく丸め込まれると買ってしまうかもしれない。なので、僕はあえて100万円の絵を指定した。これなら万が一にもうっかり買ってしまうことはないだろう。
「お、なかなかお目が高い!」と、胸の前で小さく拍手をする女性。高いのは絵の金額だ。それから、会場内のパイプ椅子に座るよう案内される。このパイプ椅子は場内のいたるところに設置されていて、付近に絵画を置く用のイーゼルもある。椅子に座ると、目の前のイーゼルに僕の指定した100万円の絵が置かれた。リャドの作品だ。僕の横の椅子に女性が座り、二人で絵を眺める構図になる。わざわざ絵画をライトアップまでしてくれて、作品鑑賞としては申し分ない状況だ。彼女から営業らしい営業はなく、この部分が良いですよね、ここに画家さんのこだわりが見て取れますね〜、など感想会のような雰囲気だった。
話が一段落すると、女性は「ところで」と切り出す。ついに来るか?と思ったが、どうも違うようだ。「実は私よりも詳しい者がおりまして、よければそちらから話をお聞きください」と言い残し、その場を去っていった。「詳しい」とは、一体何について詳しいのだろう。ものの1分もしないうちに、パリッとスーツを着こなした若い男性が現れた。彼が営業マンだ。こんな古典的な手法が現代でも使われているのか...と驚きを隠せなかった。
彼の話はいたって淡白。ゴリゴリの営業と言うほどではないが「ぶっちゃけ、絵に対していくらくらいなら払えます?」「うちで絵を買う人の96%は衝動買いなんですよ」と、先ほどまでの女性とは打って変わって商売っ気の強いテンションだった。良かった、これなら断りやすい。
しかし、彼の営業スキルもなかなか侮れなかった。適当に聞き流すつもりが、いつの間にやら乗せられかけている自分がいた。しかも、目の前には大変すばらしい絵画が設置されている。もしかして100万円って安いのでは...?僕があまりに愚かな錯覚を引き起こしたタイミングで、彼は狙い澄ますかのように電卓を叩き出した。そして両膝の間に電卓を隠すようにして「78」という数字を見せてきたのだ。「これならイケそうですか?」僕は生唾を飲んだ。
いかん!さすがにダメだ、今日の朝起きた時の気持ちを思い出せ。営業トークをされることは予め分かっていたではないか。それを断るつもりで、財布もクレカも車に置いてきただろう。ここで折れていいわけがない。僕は2〜3度まばたきをして「いやあ、いいですね。大変すばらしい絵だと思います。今すぐ決断できる金額ではないので、一旦考えてみますね。」と、やんわり断った。すると、今の今まで前のめりで熱い営業トークをしていた彼は、突然すっくと椅子から立ち上がり「また機会があればどうぞ」と、驚くほどあっさり身を引いた。そして手際よく絵とパイプ椅子を片付け、別の客のもとへと営業先を移していた。この切り替えの早さには恐怖すら覚えた。
会場を後にして車に戻る頃には僕も正気に戻っており、少しでも100万円の絵に心が揺らいだ自分をひどく恥じた。訳がわからない。会場を振り返り「まるでこの箱の中では催眠にかけられていたようだった」と感じた。良いとも悪いともつかない、夢のような時間でした。