言語の壁
『The Amazing Digital Circus』の続編が5月3日に公開されると発表がありました。オリジナルの音声は英語なので、日本語しか聴き取れない僕が公開初日に楽しめるかどうかは分かりません。前回、というか1作目は、公開後に有志によって日本語字幕バージョンが公開され(グレー…というか完全に”黒”な転載ですが)、それによって日本人の視聴ハードルが下がっていたのではないでしょうか。実際、Xでも日本人の絵師による二次創作が溢れている。そして後日、満を辞して公式映像のほうに日本語吹き替えが追加されたのだ。次作は初めから吹き替えがあるのか、あるいは前作と同様に後日追加なのか、せめて字幕だけでも…なんて思いますが、そこも含めて楽しみです。
さて、僕は本作が公開された時、そのキャラクターデザインや世界観に一気に惹き込まれました。カートゥーン調の可愛らしいアニメーション、でも蓋を開けてみればどこか狂っている登場人物たち。そのヘンテコで混沌とした映像を観ているだけで、「秩序秩序!」とやかましい現実で溜め込んだ暗い気持ちがスッと晴れ渡るような感覚があった。なので、初めは台詞の内容がいまいち理解できなくても、なんとなく楽しめていたのです。けれど、次第に登場人物の話している内容が気になってくる。そりゃ当然だ。なので、なんとか知っている単語を拾い、映像の雰囲気からストーリーを想像していた。繰り返し視聴することで、自分のなかでの作品像が固まっていくのをひしひしと感じた。
後日公開された公式の吹き替えverももちろん視聴し、自分の思い描いていたイメージとの”答え合わせ”をした。勘違いしていた部分もあるし、より詳しく内容を把握できた部分もあるしで、よりTADCの世界にハマった。ただ同時に、こうも感じた。「日本語の吹き替え、なんか違う…」と。けれど、決して吹き替えをこき下ろすつもりはない。というか、僕は洋画を観る時はほぼ吹き替えですし。
しかしながら、僕がオリジナルの英語版で感じていた狂気が、日本語吹き替えではかなり薄れていたように思えたのは事実。もっとも、僕は英語話者ではないので、ネイティブが感じ取るような細かいニュアンスやその言語独自の感覚的な側面はまったく理解できていない。あくまで”外国人からみた英語”であり、それは所詮僕の勝手な解釈によって色付けされた偽物なので、純粋な英語とは異なる。一方、日本語吹き替えverは日本語話者として聴くことになるため、言葉選びからイントネーションから、なんなら声優の内面にまで感覚をフォーカスして視聴できてしまう。単語1つとっても、英語版に比べて音声から得られる情報量が違いすぎるのだ。そのため、英語版と日本語版を単純比較するのは難しい。
とはいえ、作品を素のまま楽しむのであればオリジナルであるに越したことはない。例えば、日本の漫画やアニメを海外の人たちに見てもらう際、できれば日本語で楽しんでほしいなあと思わないだろうか。日本人が、日本人の感覚で、日本語で表現した作品なのだから、それを翻訳すればオリジナルとかけ離れたものになるのは想像に難くない。逆もまたしかり。英語の作品にしてもフランス語の作品にしても、可能なら原語で楽しみたい。
そもそも日本語とかいう超逆張りドマイナー言語しか理解できない時点で、見えている世界はかなり狭いのだ。もちろん日本語は大好きなのですよ。しかし例えば、チョコ漬けパクチー入りおにぎりしか食べたことのない人が「これは世界で1番ウマイ食べ物だぜ!」と言っていたら違和感があるでしょう。もっと色んなものを食べてみてくれ、と。だから、他言語を学び世界を広げた上で、やっぱり日本語っていいよなあと帰って来たいんだ。まして、世界共通語である英語を捨てているのは本当にもったいない。英語を理解できるという圧倒的優位な立場にもかかわらず、「ニホンノアニメ、マンガ、ヘンタイ、シリタイ!」と、ニッチな日本語を積極的に学ぼうとする英語圏オタクたちには感服いたします。その姿勢をぜひ見習っていきたいものです。