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令和を生きるオタクの3ヶ条

誰に憚ることもなく「趣味はアニメや漫画をみることです」と言えるようになって久しい。今の若い子たちは、躊躇せずに自分はオタクですと高らかに宣言するのでしょう。昭和よりもマシだったとはいえ、それでも白い目で見られがちだった平成のオタクとして、この現状は拍手喝采モノである。ただ、同時に自らの立場が脅かされているのではないか、という不安もある。なぜなら、後ろ指を差されながらも、深夜アニメに熱中していることは自分の個性だったからだ。今や誰しもがサブスクを通じてアニメを見る時代。かつて、アニメはオタク用コンテンツとして他の映像作品と線引きをされていたように思いますが、今の子達はバラエティ番組やドラマを見るのと同じ感覚でアニメに触れているのでしょうね。

「よ〜しwオタクたる拙者、今日も今日とて深夜アニメのパトロールでござるwむむ、今季はずいぶんと豊作ですな〜w」と、アニメを特別視する感覚はもはや古いのだ。SNSもソシャゲもYouTubeやTikTokの動画もネトフリの映像作品も、スマホを介したエンタメは全て一緒くただ。かつて存在したジャンルごとの垣根はほぼなく、ネットに溢れる最新コンテンツは全て、互いに影響を及ぼし合うメディアミックス作品だと大まかに捉えたっていいかもしれない。

となると、僕たち旧来のオタクはどうやってアイデンティティを保てばいいんだ。周りの同世代たちは結婚して、LINEの友達リストに並ぶアイコンは次々と赤ん坊に変貌してゆく。そんな王道の人生を歩める可能性がほぼゼロなオタクサバイバーは、何とかして自分の地位を確立せねばならない。もはや時代遅れか?いいや、オタクは死んでいない。

時代に関係なくオタクがオタクたりうる条件を3つ考えてみました。それは「語る・究める・つくりだす」だ。令和のインターネットでは、単に娯楽としてアニメを見ている者もいれば、かつてのようにオタク活動の一環としてアニメを見ている者もいる。では、その線引きはどこか?そこで、先ほどの3ヶ条と照らし合わせるのだ。まず、作品について熱く語るオタクがいる。彼らは推しの作品をこよなく愛し、その素晴らしさを伝えたり、他者と共感し合うため、とにかくネットでもリアルでも語りまくるのだ。オタクでなければ「あのシーンが好き、あのキャラクターが好き」くらいでしょう。語るか否か、これが見極めポイントその1だ。

また別の者は、1つのコンテンツをつき詰めることに精を出す。分かりやすいのがゲームのRTAだ。好きなゲームをこれでもかと研究しまくり、最も効率のよい攻略チャートを編み出して実践する。一般プレイヤーであれば、エンディングを見てクリアすればそこでお終いだ。エンディングまで辿り着かず途中で投げてしまうこともあるでしょうから、他方で何度も何度もプレイして好タイムを狙うRTAプレイヤーはオタクの鑑と言えよう。究めるかどうか、これが2つめの見極めポイントだ。

そして最後。自ら作品をつくりだす者もいる。二次創作にしても完全オリジナルにしても、創作したいという意欲はある意味オタクとして最も尊いものかもしれない。なぜなら、我々をオタクたらしめた作品群もまた、誰かの創作意欲によって生み出されたものなのだから。いわば、生命の根源たる海と同じような存在。オタクであれば、誰もが心に小さな大海を宿していると言えよう。一般的にクリエイターと呼ばれる彼・彼女らは当然オタクであり、そして同時に母なる大地でもある。何かをつくりだす気概、これが3つめの見極めポイントだ。

文化芸術の世界は自由で、カオスで、そしてシームレスであってほしい。それが僕の願いです。なので、このように「オタクの条件はコレだ!」と枠組みを作ってしまうことは、我ながら不本意だ。カルチャーに対する冒涜ですらある。けれど、僕がこうして表現することもまた自由なのです。もちろん、異議や異論は大いに歓迎です。というか、そうあるべきだ。あくまで考え方の1つとして、この広い大海原に僕の書いた文章を投じられれば、わずかですが自分の存在価値を感じられる気がするのです。

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