沈黙もまた会話
自分にとって最適な他者とのコミュケーションについて、日々模索をしている。どういう相手と、どのくらいの距離感で戯れればよいのか。
これはとても難しい問題だ。その時々で自分が他者に求める会話の熱量は異なる。その上、相手もロボットではないですから、同一人物でも時と場合によって対応に温度差が生まれる。いくら仲の良い友人であっても、毎回自分の思い通りの答えをくれるわけではない。
更に面倒なのは、自分の求めているものが何か不明瞭なケースだ。自分のことなのに、自分が今どんなコミュニケーションを欲しているのかよく分からない。ただ漠然と人恋しさだけを感じる。困ったな...しかし、欲求が漠然としているなら、それに対する答えも漠然とさせればいいだけの話だ。
WEBFISHINGというゲームをやった。ただひたすら釣りをするだけの内容。釣った魚を売り、そのお金で道具を強化したりもできる。グラフィックは64くらいの印象で、ゲーム内の雰囲気やBGMはどうぶつの森。まったりゲーの極地だ。
現状は日本語非対応なのですが、それがまたいい。一瞬目に入っただけで意味を読み取れてしまう母国語の日本語とは違い、英語はしっかり読まなければ意味が分からない(僕程度の英語力ならば、という話ですが)。
日本は深夜でも、欧米諸国では皆起きて活動をしている時間帯だ。なので、オンラインに潜ると海外プレイヤーと思しき人たちがチラホラいる。チャット機能もありますが、誰もが文字を使わず、せいぜいがエモートでコミュニケーションを取る程度。そうだ、現実の人間関係に疲れた同志たちがこの場所に集まっているのだ。彼らと横に並んで釣りをする。ただそれだけで、なんだか十分に心が通っている気がする。
言葉は便利すぎる。そして、情報量が多すぎる。対人関係において言葉は必要不可欠だが、かといって常時使い続ける必要もない。スキンシップも、身振り手振りも、時には沈黙さえも会話の一環なのだ。