週刊日記:雨、轟音、軒下にて
◆カレー屋と釣り銭
無印の泡立てネットを使っているのですが、つい先日糸がほつれて壊れてしまった。田舎人間なので近所に無印良品の実店舗はなく、いつも仲介役のローソンにブツを譲ってもらっている。泡立てネットのためだけに車を出すのもなあ、と気乗りしないままハンドルを握り、最寄りの店舗へ。ローソンに入店すると、今の今まで忘れていたのを思い出すかのように、空腹感に襲われた。いやいや、ダメだ。ここで誘惑に負けてコンビニ飯を食らってはならない。昼食こそ買わなかったものの、なぜか食後用のデザートだけ購入するという、よく分からない誘惑への負け方をした。負け…たのか?
ローソンで昼を済ませてもよかったのですが、衝動的にコンビニ飯を買うのは何だか気に食わない。目を閉じ、拳に力を込めて一瞬だけ冷静沈着思考モードに入る。今自分が食べたいのは……そうだ、カレーだ。贔屓にしているカレー屋へ行くことに決めた。
時刻は午前11時。ランチ前とはいえ、店内はあまりにもガラリと空いていた。というか、僕しかいない。混んでいるのはもちろん嫌だけど、エキストラくらいの感じで何人かは客がいてほしいなあ、などと身勝手なことを考えながら、食券機の前でメニューを眺める。カツカレーにしよう。財布を取り出すためフッと視線を落とすと、釣り銭の受け取り口に目が行った。100円玉、あるな。おそらく前の客の取り忘れだろうが、店内には僕と店員しかいないので、前の客と思しき人物は見当がつかない。一瞬魔が差しかけたが、しかし、見なかったことにする。釣り銭が出ないようぴったりの金額を投入して食券を購入した。
「テイクアウトでお願いします。」言って店員に食券を渡し、カウンター席に座る。しばらくすると、親子と思われる女性と男児が入店してきた。さて、彼女らは釣り銭口の100円玉にどういったリアクションを見せるのだろうか。
子どもが釣り銭に気づいて「100円ある!」と大声で宣う可能性もあよなぁ、と思いつつソワソワしながら過ごしていたが、親子は思いのほか静かだった。淡々と食券を購入したようで、気づくと遠くのカウンター席に座っていた。釣り銭口の中が気になる。店員からカレーの入ったビニール袋を受け取り、足早に出口(のそばにある食券機)へ向かう。扉を開ける際、チラリと釣り銭口の中を確認すると、そこに100円玉はなかった。なるほど…と思うも束の間、親子がどういう行動をしたのか想像する間もなく、重大なミスに気づいてしまった。
「泡立てネット、買ってねえじゃん…」
◆大雷雨
僕の生まれ育った石川県は雨が多い。そして雷もよく鳴る。降雨日数が多いことは知識として知っていたが、東京で暮らし始めてその事実を肌で感じた。都内で10年暮らしたけれど、雷鳴が轟くのを聞いたのは数えられる程度な気がする。
去年から再び石川に住み始め、県出身者でありながらその雨と雷の激しさに改めて圧倒された。セカンド童貞を奪われたような気分だ。けれど同時に、懐かしさと安心感もある。電車内にいると安心して眠くなるのは、あのガタンゴトンという音の波長だかが胎内の音に似ているから、という説がある。それとよく似ている。瓦屋根に打ち付ける雨、隣の部屋に落雷したのではないかと思うほどの轟音。音そのものは大きいけれど、なんだか心が安らいで快い。
このように書くと、なかなか風情があって良いではないか。しかし、もし話の冒頭で、2週間前に石川県を襲った豪雨について触れていたら、受ける印象はまったく違うものに変わるだろう。「人が亡くなっているというのに、雨の音で安心するとは何事だ」と指摘されてしかるべき不謹慎な文章になる。なぜこの流れでその発言をするのだ、という、人間の思考回路や意図に対する疑問、不信感が生まれるからだ。脈絡やタイミングというのは、もしかすると話の内容そのものよりも意味を持つのかもしれない。
2024年10月第一週。
お疲れさまでした。それでは、また来週お会いしましょう。