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逆張りじゃないよ サブカルを好きなのは

サブカルが好き。それは「サブカルだから」好きなのか?だとすれば単に逆張りをしているだけである。が、それもまた良いだろう。頑固で偏屈で天邪鬼なんだから、「大衆娯楽とは一味違うものを好む」ということに価値を感じられる。それに、自分自身で何かを生み出す努力をしなくても、ただ「それを好きでいる」というだけで自分にも個性が生まれる気がするからね。

あるいは、「自分だけがこの世界を知っている」という優越感に浸りたいのか?うんうん、それもあるね。周りの人は知らない、自分だけが知っている素敵な場所を独り占めしているんだから、それはさぞ気持ち良かろう。だからこそ、そのコンテンツが大勢に認知されると一気に熱が冷めるんだもんね。

自分の趣味がサブカルに傾倒することを、そうやって理由付けてきた。けれど、これではまったく物足りない。納得感が薄すぎる。他にもっと核心を突いた理由があるはずだ。自分の奥底に眠る、拗らせの「コア」となる部分を見つけてやらねばならない。

サブカルにばかり目を向けていると、木を見て森を見ず状態になる。これではいかん。俯瞰するためにも、いったんメジャーな娯楽に焦点を当ててみよう。

もしも僕が横道に逸れる事なく、月並みな成人男性として生きていたら何をしているんだろう。普通に一般企業に勤めて、普通に同僚とか友人とか家族とかリアルのコミュニティに溶け込んで、時事ニュースを追いかけて、流行りのバラエティやドラマを観たりして日々過ごしていたのかな。それってすごくつまらない!

なぜつまらないと感じるのか。よく考えて分かった。社会は、世の中は、「いろんなものが覆い隠されている」という気がするからだ。大人はみな仮面をかぶる。それは社会生活を円滑に営む上で当然の立ち居振る舞い。TVの中の世界は特にその傾向が著しい。年齢、実績、資産、人脈。人は数字を持てば持つほど嘘になっていく。大衆娯楽を彩るのは、いつだって偽りで着飾ったお人形たちなんだ。

一方、反体制を謳うサブカルチャーやカウンターカルチャーはどうだろう。その世界との出会いが若ければ若いほど、衝撃と共感をおぼえるはずだ。「こんなこと言っていいの!?」「そんなことしたら怒られちゃうよ!!」これまで自分が見てきた表社会の常識を覆す、けれど極めて純粋な「本音」がそこにはあった。閉じた世界のカリスマ達は「しーっ。みんなには内緒だよ」と、青臭い僕らを魅了したのだ。

後先を考えない、打算抜きの言動にこそ本音を感じる。本音を聞きたい。嘘をつかないでくれ。本当の気持ちを教えてくれ。そんな願いを叶え共鳴してくれるのがサブカルだった。だから好きだったんだ。過激な詞を歌っていたインディーズバンドが、売れ出した途端に反差別だ世界平和だと主張し始めれば、そりゃ興も醒めるさ。それも嘘じゃないんだろうけど、「嘘じゃないこと」と「本音であること」はまるっきり別なんだよ。でも仕方がない。大衆受けするとはそういうことなのだから。

ここ最近は、業突く張りな大人達がサブカルすら食い物にしようとする。サブカルという言葉をファッションのように仕立て上げ、各分野で商業展開してナウなヤングにバカウケ!個性派ぶりたい、他人と違う自分でいたいという若者の欲は金になる。こんな数字目当ての世界に本音は無い。CMで「買えお前ら!俺たちの養分になれ!」くらい言えば話は別ですが、そうは問屋が卸さない。

サブカルはなくならない、形を変えているだけで。誰もが情報発信をできる現代では、数字を持たない一般人の言葉がその一つだ。彼らは失うものが無い。あまりに過激であればしょっ引かれるけれど、有名人に比べれば圧倒的な言論の自由を持つ。そこには嘘偽りない本音が、綺麗な言葉が綴られている。他人事のように言っているが、かく言う僕も数字を持たない一般人の一人だ。こうして本音を叫ぶことで、現代サブカルチャーの一端を担えるのであれば本望です。


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