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もはや文章を書くことは無意味なのか

先日、北野武が中田敦彦のYouTubeチャンネルにゲスト出演していた。約1時間にわたる二人の対談動画。たけしがYouTubeでこれほど長時間、それも楽しげに語っている様子は必見です。

動画のなかで、たけしは映画作りに言及している。

まず、中田から映画を撮る理由について訊かれ、「映画って総合芸なんだよね」と。そして、「(映画の歴史は)まだ100年も経ってないので、残された余地っていっぱいあるんだよね」と付け足す。

なるほどそうだな...と動画を観ながら納得していましたが、翻って「じゃあ『文章を書くこと』はもう進化の余地がないのか??」と焦りを感じた。記録として、詩として、物語として、形式は様々だけれど、人類が文字を書き残す文化なんて何千年も前から存在するわけで。

今は紙やコンピュータ上に簡単に文字を書き起こせますが、その昔は石や木に文字を彫っていた。思えば凄いことだ。石に彫るって...どんだけ文字書きたいんだよ!貪欲すぎるぜ。人類の執筆に対する執念が感じられる。しかし、僕も幼い頃は近所で小石を拾っては地面やブロック塀にゴリゴリと文字や絵を彫っていた(よい子は真似しちゃいけない)。しっかり祖先の血を引いているということだね。

けれど思う。いくら文字の組み合わせが無数に存在しようとも、流石にそのパターンも出尽くし煮詰まったのではないか。数千年もの歴史があるんですよ。しかも人類は文字を書きたくてたまらない性分ときた。ならば、こうして僕が書いている文章も、明日、明後日に書く文章も何もかも、長い歴史の中に既に同じような文章が存在しているのでは?そんな風に疑心暗鬼になる。だとしたら、もう僕が文章を書く意味がなくなるではないか。

が、そうは言っていられない。僕は今後も文字を書き続けたいので、どうにか自分の文章に価値を見出すロジックを展開しなければ。

日本では明治時代に言文一致運動が起こった。古典文学に触れた時、「文章クッソ読みづれぇなあ」と感じたことはありませんか。それもそのはず。もちろん、当時の時代背景や文化風習を知らないから、というのもありますが、そもそも「書き言葉と話し言葉が分けられていた」ことが最大の理由でしょう。「文章を書く時に話し言葉を使うなんてお下劣ですわ」みたいな高貴なノリで、平安時代くらいに作られた文体をそのまま使っていたそうです。そりゃ読みにくいよね。

そこで、二葉亭四迷が「分かりにくいから書き言葉と話し言葉を一致させればよくね」と発表したのが『浮雲』。これに漱石や鷗外も乗っかったわけです。

言文一致運動が起こったのは明治時代ですから、僕らが書いているような文章の歴史は約100年ということになる!ふんふん、映画とあまり変わらないね。それに、話し言葉は日々変化しています。今は話し言葉がそのまま書き言葉に反映されるのだから、つまり文章にもまだまだ進化の余地が残されている!と言って差し支えないでしょう。

ふう、ひとまず安心だ。当分の間、文章作りのリソースが枯渇することはなさそうです。欲望に任せて、ひたすら書きたいだけ文章を書いていこうぜ。

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