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若きワナビたちに思うこと

 自分はすっかり「若いオタク」ではなくなったなと痛感することが多い。Twitterなんかで10代、20代前半の子達のツイートを見ていると特に思う。彼らの綴る文字列から放たれる感性があまりに眩しい。擦れたおっさんが、「フッ、自分の若い頃を思い出すぜ…」などと挑発しているように見えたら申し訳ない。それどころか、僕はむしろ君たちが恐ろしいのだ。その無鉄砲さ、興味を持った人やモノに果敢に挑む姿、すべてがとにかくエネルギーに満ち溢れていて気圧されてしまう。

 こうやって若い世代に言葉を伝えようと試みるのも、実はけっこう怖い。僕は大人の使うズルい言葉が本当に大嫌いだったから。今の自分がそういうズルい言葉を使ってしまっているのではないかと、内心怯えている。ただもちろん、説教やアドバイスなんてするつもりは毛頭ない。

「君たちは若いんだから、何者にでもなれる」
 文頭に「俺たちはもう若くないから無理だけど」という言葉が隠れているよね。自分が成し遂げられないことを年齢のせいにして、若いというだけで「何者にでもなれる」なんて曖昧で無責任なこと言うのはやめてくれないか?寛容な人間ぶるな。勉強して、受験して、学チカ作りまくって、就活して、結婚して家庭を持つルートが普遍的最適解だと知っているくせに。

「君たちもいずれ大人になれば分かる」
 …は???これは本当にみっともない。話し合いの末、返す言葉がなくなった時のお手上げサインだよね。だって、こんなこと言われたら若者はなす術無しだ。どう足掻いても時間の壁は越えられないのだし。あなたの言っていることが分からない!とどれだけ訴えても、「うん、それは君が子どもだからだね」と跳ね除けられるんでしょ?だったら、そんな汚い大人にならないと分からないようなことは分からないままの方がマシだね。

「大学生は人生の夏休みだから」
 何だそれ、格言っぽく言うな。高校生の時に教員から何度もこれを言われてめちゃくちゃ腹が立った。大学が魅力的な場所であることを伝えようとしているのだろうが、少なくとも教育関係者がその表現を使うべきではない気がする。

 大学生になった後、旧友たちと出身高校へ顔を出しに行く機会があった。謎イベント。その際、大学は人生の夏休み云々と言っていた教員に「いやあ〜、常に課題に追われていて夏休みどころじゃないっすわ!強いて言うなら『毎日が夏休み最終日』って感じっすね笑笑」と痛々しいことを言ってやった。実際は1年生のゴールデンウィークで大学に行かなくなり引きこもってたんですけど。

 若い頃はとにかく「何かを成し遂げなくちゃ、何者かにならなくちゃ」と焦り悩む。上述したように、大人たちがやたらとプレッシャーをかけてもくるし。そんな大人を目の敵にしながらも、心のどこかで「自分も何者かになれる可能性があるかも」という淡い期待を抱いてしまっている。だから余計に焦燥感に駆られる。

 何の芽も出ないまま20代後半を迎えると、自分を客観視しているもう一人の自分が、「【超絶悲報】ワイくん、何者にもなれないことが判明」とかいうクソスレを立てる。分かってるよ。30歳にもなると、かつて共に一生懸命SNSをやっていた戦友たちも次々と姿を消していく。残っているのは惰性で続けている者か、特定の界隈で何かしらの結果を残した者たちだ。何者かを目指したワナビは、こうして淘汰されていく。

 嫌だ。醜くても僕はしがみつきたい。大2病だろうとピーターパン症候群だろうと構わない。

 周りの人間が社会人だらけになると、僕もうっかりそちらへ呑まれそうになる。それが正しいのだと思う。10代が火遊びをするのと、同じことを30代がするのとではワケが違う。社会の目は「年齢相応な立ち居振る舞い」を物差しにして、事の是非をはかる。

 若者へ媚を売ったり、取り入ろうとするのもナンセンス。それもズルい大人のやることだ。僕はただ一人戦場に立ち、君たちから活力をいただく。二人称を「君たち」にすることで、僕なりに自分の立場を主張しているつもりではある。

『こち亀』96巻-9話「コンビニ天国!!の巻」より

 食べ物だって腐りかけが一番美味なのだ。
「大人」という棺桶に片足突っ込んだ状態の10代、20代前半の若き反骨精神が、美味でないはずがない。一緒にマージナルマンを貫こうじゃないか。

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