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何がサブカルだ、何がアングラだ

僕はリアルでこそ「ちょっと変わってる」とか「サブカルだ」なんて言われますけど、自分がいかに薄っぺらい人間かはよく分かっている。ネットを見ていると、そこかしこにスゴい人たちがいます。SNSもパーソナライズ化が進んでいるとはいえ、基本的にバズっている投稿がおすすめ表示されるアルゴリズムですし、どこを見ても質の高い投稿やコンテンツばかりだ。そんな状況の中に置かれれば、おのずと「もしかして自分は相当無能なのでは…?」という錯覚に陥ります。だって周りがスゴい人だらけなんだもの。けれど、僕たちが”見せられている”のは上澄みの部分で、その下に有象無象がたんまりと埋もれているんだ。その事実を俯瞰しているつもりでも、やはり自分のちっぽけさを感じずにはいられない。

僕が好きなイラストレーターの1人に、10代の方がいらっしゃいます。イラスト以外の日常投稿が多いイラストレーターは積極的にフォローしないのですが、その方に関しては例外です。イラストだけでなく、描き手の内面にも興味がわいたからだ。僕にとっては、10代というだけで1つの価値を感じられる。こう書くと犯罪臭を拭いきれませんが、決してそういう意味ではない。自分と10歳以上も年齢の離れた人間が何を考えているのか、そこに関心があるのだ。

まいどまいど「そのイラストレーターは〜」と書くのも冗長ですから、Eさんとしておきます。Eさんは不登校気味らしいのですが、その分日頃から色々な作品に触れ、絵を描きまくっています。商業イラストレーターとは異なり、描きたいと思ったものをどんどん描いては投稿してくれるので、ファンとしてはありがたいですね。10代らしい並々ならぬ熱量も感じられてよいです。イラスト以外にも、見たり読んだりした作品、気になっているコンテンツなどについて言及してくれるので、Eさんのパーソナリティが伺えます。思うに、これがサブカル人間なのだろうなと。自分が10代だった頃と比べると、その差は歴然としている。変に定義に拘るところもエセっぽくて虚しくなりますが、これが僕という人間の性なのだ。

Eさんは学校での青春という一般的な文化体験を犠牲にして、自室でのサブカル努力に精を出しているわけだ。何かを得るためには、何かを捨てなければならない。制約と誓約。僕は小学校〜中学校と、それなりに学校での青春を謳歌してしまったため、割と一般的な価値観が形成されてしまっている。10代で酸いも甘いも味わっておきながら、サブカルをも享受したいだなんて虫がよすぎる。良いトコ取りをしようったって無駄さ。結局は上辺だけの中途半端なサブカルもどきが出来上がるだけなんだ。健常な道も歩めず、かといってサブカルに傾倒することもできず、こんなどっちつかずな人間がもっとも哀れなんだ!

まあいいさ。別にサブカルの質に上も下もない。こだわりが強い偏屈な人間たちの自己満足の世界ですから、自分が自分をどれだけ許せるかがポイントでもある。今の僕は自分を許せていないのでしょう、1mmたりともね。こんなにも浅学なくせにサブカルぶっているのが薄気味悪くて仕方がないからだね。鬱屈としたオーラだけは一丁前で、そこに奥深さも面白さも外連味もない。やめよう、もうやめよう。ストイックなのは作品に対する熱量だけでいい、自分にはもう少し優しくしてあげようよ。正解というか、とりあえずの妥協点がないのもアングラ趣味の良いところではありますからね。言いたいことも言えないこんな世の中さ、自分くらいは自分を許してあげよう。

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