戦国BASARA 捨て駒の成仏
戦国BASARAの毛利元就が好きだった捨て駒が未練を手放すためのラブレター
《戦国BASARAのこと》
歴史に明るくないスタッフがイメージで作り上げた名の通りめちゃくちゃな世界観、そして個性的な武将達。
その人物像は表層を撫でるだけの記号、つまりキャラ付け。
しかし脚本家による読み手の想像の余地を残す技法と、史実との親和性は非常に高く、行動原理や内面の描写に深みが増した。
ただ、そこに正解はない。
正解は観測者の感じたままで良いのだ。
答えがないのだから間違いはないという意味では親切。
描写不足は不親切とも言える。
このポテンシャルと物足りなさに中毒性を覚えた、どハマリした。
悔しいが製作者の思う壺である。
しかし心は満たされないまま全てが終わってしまった。
《毛利のこと》
出会いは2。
はじめはまるで興味がなかった。
思うがまま自由に生き、光り輝く者達の影に隠れて眼中になかった。
きっかけは輪刀。
ブラッドボーンのような変態武器に強く惹かれ、
使い続けるうちに優美なモーションや使い心地が癖になり、
趣ある言葉回しとそれに相応しい美声に心打たれた。
ストーリーを進めると、彼が内包する複雑なものが垣間見えてくる。
初見では理解が追い付かなかったが、分からないなりに滲み出る悲しみや苦しみを感じ取って関心を抱くようになった。
ここまで来れば好きに片足を突っ込んでいるようなもの。
極めつけは例のキャラ崩壊。
性格と対極の言動に唖然としたが、そのギャップは私を沼へ引き込んだ。
噛むほど旨味が出るオクラというよりスルメ。
ただ、いつも辛そうな彼には幸せになってほしい。
その姿が見たくて追いかけ続けるも、私の願望から外れた結末を迎える。
3の毛利ストーリーED、元親緑ルートEDのことだ。
勝とうが負けようが彼には何も残らない。
当時はただただ胸糞悪く感じた一方、自分の夢を押し付けて彼を理解できていなかったのだと気付いた。
作品のコンセプト上、正解がないのはわかっている。
しかし理想との乖離は、更に認識を疑う羽目になって何が好きだったのか分からなくなった。
それでも毛利のことは好きなまま、やがて公式のやり方に疑問を抱いて離れ、この気持ちを長年に渡って持て余す。
時が経った今、自分の中の彼を再構築してみようと思い到った。
要はトラウマ克服のカウンセリングだ。
国家への滅私奉公に徹する冷酷な謀略家。
弱肉強食の戦国時代を掻い潜るため、心を凍らせ非情を貫く孤高の生き方を望んだ、望まざるを得なかった。
強くなるための孤独が脆さになっているというのに。
そのせいか、瀬戸内のライバル関係は元親が一枚上を行く印象を受ける。
抑圧された自分、出来なかった生き方を象徴する元親が許せなかったし、精神性で勝てなかったのだろう。
使命のため、自分を押し殺す哀愁を好きになった。
自らを駒の一つだと自嘲しながら斃れるのが悲しかった。
そして、その自傷行為のような自己犠牲から救われてほしかった。
誰かと馴れ合って欲しいわけではなく、きっと彼が欲したであろう理解者が現れてくれたらと願っていた。それは名もない捨て駒でも良い。
そうすれば心の重荷から解放されるのではないか。
しかし、自己犠牲はマキャベリズムとのバランスを保っている。
冷酷な思想は、乱世の為政者として合理性を追求した成り行きであり、
決して私利私欲ではないことを裏付ける。
何よりも彼の根底にある共依存的な護国の義務は、無意識の存在証明。
筆が字を書くために存在するように、大名の元就は国家のために生きる。
つまり、己の幸せを求めてはならない。彼自身、許されないことは覚悟の上だ。
元就は孤高だからこそ日輪のように輝く。
結論として過去の私が納得出来なかった結末は、彼の信念を全力で全うした結果だったのだ。
好きだった気持ちを手向けに、インターネットの片隅にこの思いを遺して水葬とする。