趣味趣向と健康被害の狭間で
昨晩のこと。
ある居酒屋の看板の横にこう書いてあった。
「全席禁煙のお店です」
時代だなぁ。
喫煙者だった私も、声を大にして「喫煙席を排除するな!」とは言えない。
それは、非喫煙者からの罵声が怖いと言うわけでもなく。
ただ、小学生の頃から教科書で見せられてきた真っ黒な肺の写真や
非喫煙者への配慮の呼びかけ広告を前に、ついに時が来たか…と思うばかりだ。
これは、諦めの感情に近いものがある。
百害あって一利なし。
煙草による健康被害や非喫煙者の不快感は痛いほど理解できる。
しかし、煙草を嗜好品として生活に取り入れている人の気持ちも理解できるのだ。
それは、私が過去に喫煙者だったから。
私にとっての煙草は「時間・空間」と深い関わりがある様に思える。
慣れ親しんだ銘柄の煙草に火をつけて、その煙の味を考えつつ煙草を吸う人は少ないと思う。
喫煙者は煙草の煙を吸って吐く。
自分の呼吸や気持ちを整えるようにして、白い煙を眺める。
直前の仕事の内容だとか
過去の出来事を思い返したりだとか
人によっては作品を浮かばせたり。
そんな風に頭の中での「ひとりごと」の時間を過ごす個々の人間が集まる喫煙所という空間がやけに落ち着いたり、その時間に安らぎを求めたりする。
仕事や、学習の前に煙草を吸うことで今日という一日のリズムが整う人がいる。
会社の部署や学校のクラスとは別に、喫煙所仲間というコミュニティが確立することもある。
そんな時間をわざわざ有害な煙で過ごすことに意味を見出せないのが非喫煙者である。
その意見は正しい。
しかし、非喫煙者となった今でも煙草は止めろ!無くせ!と私は言えない。
これは、文化であると思うから。
現代の喫煙者と同じ様に、煙草を吸う時間を大切に想ってきた古人がいる。
これは築きあげてきた文化である。
古き良き、という言葉を使いたいところだ。
それぞれに思い耽ながら喫煙をする人々に、私はどうしても趣を感じてしまう。
しかし、医学が進んだことによって明らかになってゆく健康被害を前にこの文化は消えざるを得ない状況である。
喫煙者と非喫煙者の共存はいたって困難。
「全席禁煙」の居酒屋を前にして、複雑な気持ちを抱えながらの帰路になってしまった。
マイルドセブンの香りを身にまとった祖父に会いたくなった。