人生で本当にやりたいこと
10歳のとき両親が別居を始めた。僕は母に引き取られた。あまりに突然のことで驚いた。おばあちゃんの家に遊びに行くよと言われた日から、あの家に帰ることはなかった。引っ越しには慣れていた。元々父は転勤族で3~4年おきに引っ越しをしていた。「せっかく仲良くなった友達に会えなくなるのは悲しいけど、また転校生としてチヤホヤされるのも悪くないか」と、思うことにした。
新しい小学校でもたくさん友達ができた。その中に同じ母子家庭の子がいた。きっと同じ悩みや苦しみがあるだろうから、相談できたらいいなと思っていた。ある日別の友達が「あいついつも不幸自慢してるよな」と言った。その子は家庭の事情をわりとオープンにしていた。僕は別に自慢しているなんて感じなかったが、そう捉えられるなんて可哀想だと思ったしショックだった。それ以来僕は不幸自慢と思われないように気を使った。気を使っているうちに、家庭のことは話さなくなった。
両親の離婚調停は、僕が中学2年生になるまで続いた。その間僕はときどき家庭裁判所や、NPO法人の施設に通った。そこで数年ぶりに見た父は、別人のようにも見えたが懐かしくもあった。しかし近況を話したり父の本音を探るようなことはできなかった。裁判所での面会には、いつもシナリオが用意されていたからだ。面会に不安そうな面持ちで臨み、あまりコミュニケーションは円滑にすすまず、調査官と子供の間で予め決めておいた中断の合図により、子供の意思で面会は終了する。父が「じゃあね」と言って先に退室し、母と弁護士と合流し、ポケットに仕込んでおいたボイスレコーダを返す。「頑張ったね。」と褒められる。面会のあった日はよくレストランなんかに連れて行ってもらった。
高校時代は青春の日々だった。とにかく忙しかった。バイクとゲームとヒップホップと、部活と恋とインターネット。僕は最強だった。原付で日本中にいけたし、イヤホンで音楽を聞くだけで自分だけの世界に行けた。大人になることが楽しみでしょうがなかった。勉強はあまりしなかったので、受験は大失敗した。そのせいで地獄を見た。
大学に入ると同時にコロナ禍に突入した。滑り止めで受かった大学で、オンラインでコツコツ頑張るなんてできなかった。単位を落としまくり留年した。人生が終わったと思った。これまでの道のりは自分で切り開いてきたものではなかった。レールの上を歩かせてもらっていただけだと気づいた。自己嫌悪が止まらなかった。どうして同級生はオンライン学習でもちゃんとついていけるんだろう。どうして滑り止めの大学でモチベを出せるんだろう。僕は真面目にはなれないまま、言い訳を考えるので精一杯だった。母子家庭の長男が、妹もいるのに高い学費を垂れ流している。一刻も早く止めなくては。これからどうしよう、一旦休学しようか、その後は再受験するか復学するのか。復学するなら休学する意味はあるのか?再受験するなら予備校に入る?現役で落ちた大学に1年で合格できるのか?もしできなかったら…?不安で頭がおかしくなりそうだった。高校時代から付き合っていた彼女にも振られた。一人になるのが怖かった。友達といる間は微塵も考えないことを、一人になるといくらでも思いついた。
日本一周に出た。オンライン授業だから、ネカフェで授業受けながら旅をするとか適当なこと言って勉強なんか1秒もしない旅だった。400ccのバイクで全国を走った。結局旅自体は大したことはなかった。旅そのものより、運転に救われた。運転中は大学とか単位とか将来とか関係ない。円滑な交通社会に貢献しているだけでいい。簡単だ。高校時代に原付で走り回って覚えたマナーを遺憾無く発揮した。運転に集中しているから悩みなんか出てこない。一生バイクで走っていたいと心から思った。現実に戻りたくなかったから。
車検をきっかけにバイクを売った。売ってから激しく後悔した。バイクがなくなって気晴らしになるものがなくなった。時速4キロの世界は退屈すぎた。何をしてもスッキリしない。楽しい一日も寝る前には大学のこと親のこと将来のことを考えて眠れなくなる。バイクがないとダメだと気づいた。
ある日友達がバイクを買うことになり、納車の日に原付で送迎した。その店に1台のバイクが並んでいた。初めて見るバイクだった。そのバイクのこともメーカーのこともよく知らなかったが、僕は完全に惚れてしまった。それ以来そのバイクのことが忘れられず、大急ぎで大型免許を取り、詐欺みたいな手口で親の許可を得て、ローンを組んでそのバイクは僕のものになった。新しいバイクが納車されてから、バイクがきっかけでたくさんの友達ができた。今まで夜の港や一般道の湾岸線ばかり走っていたが、その友達の影響で首都高をメインで走るようになった。僕が買ったバイクは20年前に発売されていたもので、当時のレースで勝つために開発されたホモロゲーションモデルだった。最新のバイクには勝てないがそれでも始めはとても扱えないと思わせる性能だった。週に3回のペースで深夜の首都高に上がり、何度も走り方を試した。バイク雑誌やネットの文献を読み漁りライディングを練習した。バイクの特性がどんどんわかっていった。いつのまにかに首都高を暗記し、バイク仲間もでき、僕は新しい居場所を見つけることに成功した。このまま年を取りたくなかった。地元や自宅に戻りたくなかった。中学や高校の同級生には会いたくなかった。僕のことを知らない人たちと話すのが楽しかった。ここで出会う人達が大好きだった。
昼は寝るか悩むかバイトするか、夜は首都高に上がるか音楽聞きながら散歩するか。そんな生活をしていたら20歳になっていた。大学のことを全く考えない日がどんどん増えた。不安に追われすぎて完全に麻痺していた。正直、楽しい日々を過ごせていた。不思議と穏やかな暮らしをしていた。母が心労していたが、見て見ぬふりをした。
箱根へ10台ほどでツーリングしたことがあった。3月のその日、箱根はかなり寒かった。道中僕のバイクがパンクしてしまった。レッカーを呼び、電車で帰ろうかと思ったが、一人が残ってくれた。その人とは顔見知りだったが彼の仕事のことはよく知らなかった。実は彼はIT系ベンチャーの役員で、当時会社を上場させたばかりのエリートだった。だがそんなことはつゆ知らず、ただのバイク乗りだと思って普通に話していた。山の上のカフェでコーヒーをごちそうになり、喋りながらレッカーを待った。
話しているうちに、今まで出会ったことのない人種だと気づいた。余裕のある振る舞いで、話も面白い。僕は彼の話にどんどん引き込まれていった。彼は、作りたい世界があると言っていた。自分が直面した現代社会の問題を解決し、救われるべき人を救うというような話だった。聞いたことのないスケールに僕は拍子抜けしてしまった。世の中に存在する不条理は解決するものではなく、うまくかわすべきものだと思っていた。理想の世界を作るなんて、子供じみた発想だと思っていた。初めて見るタイプの人間の話に次々に疑問が浮かんだが、あまりに圧倒されて質問できなかった。それでも彼が汲み取ってくれ答えてもらえた。よくわからないがこの時間がとても価値のある時間だということはわかった。もしかしたら人生が変わる瞬間なのかもしれないとさえ思った。夢中になって話を聞いていると電話が鳴った。窓の外にはいつのまにかレッカー車が来ていた。レッカーを呼んでから1時間も経っていた。
結局彼のバイクの後ろに乗せてもらい、近道して本隊に合流することができた。その日は都内まで送ってもらい、世話になりっぱなしだった。彼はすごい人だが、聖人のような人間というわけではなかった。バイクで走るときはすごい飛ばすし、あまり人を待たない。どこか子供っぽさもある。そして何よりいつも楽しそうであった。こんなふうに過ごせたらいいなと思った。
バイクがきっかけで出会った大人とは、ときどき親友のような関係になった。彼らはよく僕の悩みを親身になって聞いてくれた。10、20と年の離れた友達ができるのは新鮮だった。亀の甲より年の功、下手に取り繕った自分は簡単に見透かされた。そうしてだんだん素直に話せるようになった。彼らと話すときだけは正気に戻れた。
おっさんたちの話は面白かった。おっさんの若い頃の話は、時代を象徴するものだったり、仕事についてだったり、人生だったりした。そのうち僕は、自分の若さに気づいた。20歳って、若すぎるな。今からなんでもできるし何にだってなれる。逆に何もしなければ、何にもなれない。何度もきいたであろうことをようやく理解した。
さて、これからどうしよう。僕が若いのはわかったけど、これからのことはまだ何も決まっていない。僕は…バイクに乗りたい。いろんなバイクと車を所有したい。好きなときに好きな場所へ。タイヤとかガソリンとか車検とか、何も気にならない世界。いつでも首都高に出たい。いや、さすがに大人になったらサーキットに行くのかな。何台、何十台でもいい。欲しい車なんていくらでもあった。バイクも無限にほしい。きっとこれが僕の理想の世界だ。そうだな、金がかかるな。金を稼ごう。面白そうだ。自分の理想のためならなんでもやるぞ。つまるところ、金持ちになってやろう。車でもバイクでもなんでも買ってやろう。ついでに親孝行もしないとな。究極の目的は、欲しい車バイクを全部買うことだ。楽しそうだ。最高だ。
バイクがきっかけで出会った大人の中に、箱根で世話になった彼のような"成功者"と呼ばれる人がいた。そんな人に自分の年齢で出会える人はなかなかいないだろう。僕が見た成功者は、みなポジティブで、コミュニケーションに長けていて、笑顔だった。世の中に怯えながら生きていた自分とは真逆のタイプだった。彼らは僕を肯定してくれた。僕の利己的な夢を応援してくれた。面白いやつだと言ってくれた。きっと今が人生の転換期なんだと思った。
昨年度、海外の大学に入学した。学費を支援してくれる財団のおかげで無料で通えている。そこではコンピュータサイエンスを学んでいる。ここまでかなり寄り道してしまった。やっと前向きに勉強できるようになり、一緒に仕事をしたい仲間もできた。いつか起業したりするのかな。
どう生きるか考えるうちに、死を意識するようになった。答えの出ない問いに悩んでも、寝て過ごしても等しく死に近づく。何をして過ごしても一日は過ぎる。もうすぐ22歳になる。
お金を稼いで車とバイクを買う。それだけを考えて、あのパンクしたツーリングの日から何ができるか考えてきた。もう過去に囚われることはない。無駄なことで悩む時間はない。僕はもう、悩まない。