吉沢亮の生き方


俺の名前は吉沢亮だ。吉沢亮であり「吉沢亮」ではない。いわゆる同姓同名というヤツなのだが俺は自分の名前が好きではない。自分の価値というものを「吉沢亮」と比較して測られているような気がして仕方がない。捻くれた考えだと思うだろうか、確かにそう感じてしまうのもわかる。だが、そう思っている人たちはぜひ吉沢亮と同姓同名になってみて欲しい。誰かに自己紹介するときに「はじめまして、吉沢亮です。」なんて自己紹介する身にもなってほしい、微塵も面白くないクソみたいなギャグを初対面で挟んでくる微塵も面白くないやつだと思われるだろう。齢37にして会社の後輩が「吉沢亮を見るたびに主任が頭にチラつくのマジ無理なんだけど」なんて言っているのを聞いてしまった時には「吉沢亮」に理不尽な怒りを覚えた。なにも自分だって同姓同名になりたかったわけでもないし、両親だって37年前に「亮」という名前をつけた時にはこうなることなんて予測していなかったわけだ。ごめん、父さん、母さん。この漢字、高くて明るいことを指す漢字なんだって?だから「明るく前向きに生きてほしい」って願いを込めてこの名前にしてくれたんだって?息子はこんな卑屈な人間に育ってしまいました。というか37歳にもなって主任止まりなのはなんなんだよ、新卒で入社してから15年間、突出して能力が高いわけでもないがそれなりに頑張ってきたはず、課長にはなれなくたって係長くらいにはなれたはずなんじゃないか?このまま俺はうだつの上がらない窓際社員としての吉沢亮として生涯を終えることになるんだろうか、ますます気が滅入ってくる。
「吉沢先輩」
俺を呼びかける声が背後から聞こえる。
「佐藤、どうした?」
「吉沢先輩、この資料のチェック、お願いします」
佐藤健、文字面だけで見たらこいつも「佐藤健」だ。もっとも、こいつの場合は「たける」じゃなくて「けん」なのだが。佐藤は三ヶ月前に入社してきてそのままみるみるうちに頭角を表してきていてすぐに出世するだろうなんて噂も飛び交っている。俺とは違って。
「お前はさ、『佐藤健』ってどう思う?」
なにを思ったのか手渡された資料に目を通しながら俺はそんなことを聞いた。
「『佐藤健』ですか?うーん…まあかっこいいと思いますよ」
「嫌いじゃないの?」
「嫌い?嫌いになる要素あります?まあ別に好きでもないですけどね」
その返答に妙なイライラを覚えた。まったく、いいご身分なことだな。「たける」じゃないってだけで。自己紹介する時だって「さとうけんです」って言うんだもんな、自己紹介のハードル低すぎ。
「どうですか、資料」
「…OK。これでいいよ」
完璧だ、何にも無駄がない。一番の期待な星なだけある。俺とは違って。
「ありがとうございまーす」
こいつがもし「たける」だったら、一体こいつの性格や能力はどうなっていたんだろうか、今みたいに社内で評価されることなんてきっとなかったはずだ、そうに違いない。きっと友人関係もそこまでの関係は築けないで受験は失敗して第二志望以下、卒業後に入った会社でも大した地位にはつけないで漫然と生きてその生涯を終えるんだよ。
せめて、俺も「あきら」だったらよかったのに。

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