「どんな時代がきても人は愛を生みつづける」

先日、近所でこの手の貼り紙を見かけた。

税金の使途を問題視する書き方ならまだしも、「あなたの家の近くの…」などとあるこれでは飲食店やその関係者個人への憎悪を煽っているようにしか見えない。

こういった状況が公正でないとすれば、それは行政の不手際だ。他にも旅行等の自粛に従わない人々を蔑む意見もあるが、そういう人が一定数出ることを前提として政策を立案するのが行政であり、原因を求める対象が間違っているし、しかもその対象に向けるのは憎悪ではなく批判であるべきだ。いつまで戦中の隣組的な、「お手軽」な市民間の相互監視に気を取られて行政への批判を疎かにする罠にはまっているのだろうか。憎悪を向けたところで何の解決にもならないどころか分断が進行し、コロナ禍以上に深刻な社会状況を生んでしまうことがなぜ分からないのだろうか。

家から一歩出ればこういうものを目にすることになり、あまりにも共感や愛のない社会に恐怖を覚えるようになった。前回の記事で取り上げたENDRECHERIは「愛のない 愛もない いまが嫌い」(もちろん作詞・作曲は堂本剛自身)という名の新曲をリリースしたが、これはまさに共感や愛に欠けた今の時代を歌ったものだ。

その質問で 世の中が ダメになってしまう
きみとの恋 きみとの愛を ダメにしてしまう
きっと ずっと 美しいはずだった世界
きっと もっと 素敵だったはずな世界
もっと ずっと 素敵になれるんだよ 人類(ぼくら)
愛のない 愛もない いまが嫌い

こういうことがあまりにも多く、もう都会に住んだまま生きていける気がしていない(東北の役場で働きたいと思うようになった)のだが、それはまた別の機会に書くとして、今回は人という存在を諦めたくなる瞬間にどう向き合っていくか…といったテーマについて書きたい。

そもそも、こういう瞬間を味わっている人間が「特殊タイプ」のように扱われ、そうでない人間が「ふつう」と呼ばれる立ち位置を占め、そういった人々に向けて社会制度が設計されているのはまったくもって理解できない。人間らしく生きている人間が、どうしてこんなに苦しまなくてはいけないのか。自分自身を他者の一例として見たときに、そういう感情に陥ることもある。

気づけず 何しても 同じよ
この時代の 孤独へと hug しましょう
僕も 君だと 理解すんだよ
目覚めない 自分へと ぼろかすの あほんだらの ホゲ

ENDRECHERI『AGE DRUNKER』

そんな時代に響く曲がある。光GENJIのカップリング曲『PLEASE』だ。この曲は、荒廃した世界を歌った表題曲『荒野のメガロポリス』と対照的に、愛や救いというものを歌っている(歌番組では両曲がセットで歌われることも多い)。

懐かしそうに夢を 語る時間じゃないよ
星はいつも 朝のために
愛を投げましょう 夜を止めましょう
未来の鍵は 神様 あなたのエスコート

『荒野のメガロポリス』のほうは、まさに今この情勢を歌っているかのような絶望感に満ちあふれた楽曲である。

命を返す時間が来たよ
冷めた太陽 ささやいている
命を返す時間が来たよ
溢れる涙 何処に誰に使えばいいの
愛を投げて 夜を止めて
愛を投げて 光ごと
崩れて行く時代の景色 見つめてた

これらを作詞・作曲したASKAは、同じく手掛けた光GENJIの曲に関して、あえてキリスト教的価値観を込めたと公言している。

僕は、あの当時、何にも色のついていなかった「光GENJI」を、「光源氏」に置き換え、「幻の国から神話を連れ出したよ」と、あたかも、「古事記」のように思わせました。しかし「光GENJI」が「光源氏」では、面白くないでしょう?考察、お見事でしたよ。はい。僕は、その「古事記」を「聖書」に置き換えました。
https://www.fellows.tokyo/blog/?id=1884

『荒野のメガロポリス』のアルバム版の歌詞にも、このような一節がある。

白いバイブル 胸に抱き 未来祈る 天使たち

また、同様に『PLEASE』には、一般的なアイドルソングが歌う性愛の意味でのラブソング(エロス)ではなく、キリスト教的価値観に基づくアガペー的な意味での「愛」が描かれており、この時期のアイドルソングとしては珍しく相手の性別を指定する言葉が一切ない。

そういった「愛」の描き方が一番表れているのがこの部分。

こわれるほど誰かを 抱き締めつづけたいな
どんな時代がきても 人は愛を生みつづける

〈どんな時代がきても 人は愛を生みつづける〉。今この時代に、これほど希望になる歌詞があるだろうか。

この部分に関していえば、Hey! Say! JUMPが昨年リリースした『Your Song』(作詞:小倉しんこう・辻村有記)にも似た一節がある。

確かなものばかりならば 人生楽になるような… 
でもきっと違って 痛みを知り分かち合う
明日も繋がる 手と手は奇跡

昨日の悲しみにもらい泣きできる涙も 明日の幸せを喜べることも
“HELLO, FRIEND” どんな時代でも変わらない
世界から愛が消えることはない

『PLEASE』がリリースされてから30年。再びジャニーズが似た内容を描くようになったのには、その間2回起こった歴史的変動が大きく影響していると私は思う。

1995年以降もしくはSMAP以降、ジャニーズは(社会人も対象に含んだ)応援歌や「国民的」のような役割を担うことに大きな価値を見出すようになり、ラブソングでデビューすることは少なくなり、またラブソングがヒット曲になるのはせいぜいタイアップしているドラマがヒットした際(『花男』等)に限定されるようになった。

しかし、SMAPの解散や生前退位による改元の予告等により、平成ジャニーズのあり方が問い直され、またKing & Princeのデビュー曲『シンデレラガール』のヒットを機にラブソングの役割が増した。パンデミックが起こり従来のような「国民的」の存在が必要とされることとなっても、単純に平成と同じような形態に戻ることはなく、ラブソングの維持と「国民的」の要請という両方を叶えられるように「愛を歌う歌という意味でのラブソングは継続して作りつつ、その内実はエロスからアガペーへ変え、博愛主義的な内容に傾ける」といった形を採るようになった。

King & Prince『I promise』(作詞:KOMU・草川瞬)や美 少年『Beautiful Love』(作詞:MINE)も、ややコロナ禍前のラブソングに寄っているとはいえ似たところがある。

星の無い夜も照らすような愛を 過去も明日も越えて灯し続けよう

King & Prince『I promise』
Beautiful My Dearest Love 世界中が笑顔になれ

美 少年『Beautiful Love』

〈どんな時代がきても人は愛を生みつづける〉〈世界から愛が消えることはない〉。こういった歌詞によって「大丈夫だ、人は愛を捨てたりなんかしないんだ」と信じる気持ちを支えてもらうことで、微かながらもきちんと望みをもって明日を迎えることが出来る。これが出来ると出来ないとでは、見える景色は全く違う。その意味で、こういった歌詞は確かに救いとなるのだ。

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