五輪中止という「区切り」
一時期は本当に「このコロナ禍で、ジャニーさんだったら、どうしていたかな」と思った時もありましたけど、逆に考えると、この世の中を見なかったのは、ジャニーさんにとって幸せなことだったかもしれないなと考えるようになりました。
確かにずっと光一さんは「ジャニーだったらどうしてたんだろう」みたいな話はしていたのでこの考えの推移は本当で。個人的な実感としても結構最近はジャニーの死に対してようやく2019年夏というタイミングというのは良かったのかもしれない…と思ってきていることもあって、すごく納得がいくわけですよ。
普通に考えればオリパラはもう無理で。というか、そもそも開会式・閉会式の演出を変えるとか言いだした時点でもう何もわかってないし新チームの人選見てもベルリン五輪2.0っぽいって思うんですが……。
このままオリパラが中止になればその時がようやくジャニーの死に対しての(ジャニーの創作活動を見てきた者が共有できる)一区切りになるんじゃなかろうか…と思ったりするんですよ。ただこれが2032年開催と引き換えとかだとまたややこしい話になってくるんですが(全く適切でないことを言っているのは分かっています)。
「亡くなった直後にやっぱりそういう言説がジャニオタ界で散見されたのもあってそういう見方をしてしまう」だけなのかもしれないけど、氏の発言の推移を見ていると、オリンピックを見せたかったという心残りがあるままずっとここまで来てしまった感があるんですね。当初の構想の中身を変えて実現したTwenty★Twentyも、さんざん解釈違いで叩かれたけど趣旨としてはそうだったわけで。
冒頭の発言に至るまでの第一段階としてこの状況の長期化というのがあるんだとすれば、第二段階(というより、最終段階)はオリパラの中止だと思うんですよ。ジャニーが亡くなった直後でいえば五輪の閉会式がそのポジションだっただろうし、ジャニーじゃない人だったとしたら一周忌とかがそのポジションに来るんだろうけど、五輪開催時以上にジャニーを求めてしまうような状況になって、死の受容における「時の経過」というファクターが無効化されて、またひどい状況になって来てようやくそのターンが来たというか。
オリパラが中止になれば、ジャニーが晩年につくったミュージカルで度々言及されてきた「13月」と、「オリンピックが開催され、少年たちが東京に夢を見る2020年」が結果的に見ればほぼ同義だった、という話になるからね。
話が逸れるけど、つまりそれらのミュージカルを「“少年”をキーワードに戦争と五輪とを対比させて描いた」と言い表せるのは今のうちで、いずれ「ジャニーが幼少期に体験した事実としての戦争と、ジャニーが晩年まで描いていた幻想としての五輪とを…」っていう表し方がより強いものとして君臨するようになる、(もともとは些細なものでしかなかった)実在対不在、事実対幻想の構図が強まって見えるようになるよね。