逸れる器
2009年冬から神奈川県川崎市〇〇区黒川の山の中で生活しいわゆる土方をやっていた日々。
なるべく丁寧に書こうとするも、書いているうちに疲れてきた。それは当時を思い出そうとすると当時のからだの感覚になり、疲労感がフラッシュバックするからなのかもしれない。色々経験したが二度と経験できないことだったことが今になってわかる。二度と経験するべきではないとも思っている。土工と鳶手元をやった。こういった仕事は基本的に苦しいので、仕事をしてない時仕事のことを考えたり調べたりする余裕が無く、いまだにちゃんとした説明はできないのだが、土工というのは土を掘ったり、盛ったり、コンクリート関係の仕事をしたりなど、という説明で大きく間違ってはいないと思う。鳶というのは柵の無いところを往来しながら足場を作ったり解体したりする人達のことで、高い、落下の危険がある場所で物を受け渡したり持ち上げたりと自由に動く様を鳥に例えたのだろう。ちなみに、わりと大雑把に呼称する人が多いが、昔から現場に携わっている人達は、高層の単管足場を組む人達を鳶と呼ぶが、低層専門の楔式足場の人達のことは〈足場屋さん〉と呼んだりするが、しかし、わりと言葉は雑というか、そこまできっちりしていないので、低層の人達を鳶と呼ぶ人もいるし高層の人を足場屋さんと呼ぶ人もいる。ぼく的には鳥の鳶は獲物を獲る時以外は低空飛行はしないイメージだし高層は鳶と呼びたい。この妖怪会社の場合は鳶だった。
仕事は毎日疲労困憊したが、若かったので、今とは違う類の体力があり、就労後には就労後、デザートは別腹みたいな感じで、知らない町で暮らすことをそれなりに楽しんでいた。休日や仕事の後はブックセンターいとうをめぐったりした。
土工の仕事は色々とやることが多くてわけがわからなかったし、只管土を掘るとかもあったけど仕事の流れを覚えられるような物ではなくて、小学生が大学の授業を受けているような感じだった。四角いスコップを角スコと呼んで先の尖ったスコップを剣スコと呼ぶということくらいしか覚えていない。鳶の手元に関しては、枠足場単管足場の高層の足場を主にやっていたが、手元なので、体力はそれなりに使うけど覚えることは少ない、というようなことをやっていた。あとアンチ(安全地帯)を運ぶときは五枚くらいを一度縦置きしてからそれに背を向けて両手で掴んで背中につけると楽に持てるとかそういうことを教わった。これは日常生活ではあまり役に立たないが、普通の人が1つ持つのに苦労するものをわりと楽に2つ持てたりするので、男の子の見栄的なものをごく稀に充足させることができる。
足場を解体するとき部材の受け渡しのときにはみんなの「もらったあ!」という声が順々に聞こえた。声を出すことは大事だと思った。もらってないのに渡すほうが手を離したら人が死んだりするからだ。目の前で人が死んだのを見たという人もいた。
ある日鳶歴20年40歳の大ベテラン木村さんと仕事をしているとき巨大な印刷工場の上層のベランダに切り出した足場を木村さんが指さして「美しいだろう」と言った。水平と垂直の組み合わせにより整った足場を指して美しいと言うのは不思議だと思った。それはたぶんいつか機械で作れるものだし、人が作ったところでまったく同じものを別の人がつくるのも可能なものである。綺麗というのを間違えて美しいと言ってるのか、それとも美しいという感覚はちゃんとわかっていて木村さんはそれを美しいと言っているのかわからなかった。今でもわからない。木村さん自身はきれいな逆三角形が目立たないように髪を伸ばしていた。
休みの日はライヴなどに行ったし、ライヴなどに行くために休んだりした。
阿佐ヶ谷にあるひねもすのたりという陶器などを置く店で辺境プロジェクトというイヴェントに行った。
鬱陶、という工藤冬里さんの一連の陶芸展ツアーのうちの一つでもあって、新しい鬱陶が欲しいと思ったが、8000円という値段を見て、今のぼくにはつらいと思った。「取り置きって出来ますか」と店主にきくと、店主が、2階にある店から階下におりて、作家本人である工藤冬里さんに聞きに行った。もうお店のものなのだろうと思っていたのだが委託販売なのだとしたら自分で聞けばいいものをわざわざ聞きに行ってもらって、自分が子供のように思えた。帰ってきた店主が、「手取りの100分の1の値段でいいんですって」と言った。日当8000円で1ヶ月に約25日働いていたが寮費が月10万だったので手取りは10万だった。1000円で譲ってもらえることになった。
外国の音楽雑誌の中のCDのレビューを読んで、そのCDを聴かない状態でその音楽を演奏する、という辺境プロジェクトを観終えて、会場からの去り際「この後別のところでライヴあるけど来ますか」と工藤さんに言われて、1日で2回のライヴは金がもたないと言って断ろうとしたら、「スタッフとして入ればタダですよ」と言われて物販スタッフをやることになったのだった。会場に向かう電車の中で「ボーカルやりませんか」とも言われた。「大谷の希望でニルヴァーナの曲やることになったんだけどぼくあんまわからないからやりませんか」と言われたのだった。スメルズライクティーンスピリットをやるとのことだった。ぼくはニルヴァーナもその曲も好きだったが、ただただ恥ずかしくて断った。そのとき「歌います」と言っていたら幾分か違う人生を歩んでいたかもしれなかったが、とにもかくにも、その日は工藤さんのスメルズライクティーンスピリットを聴くことになった。あんまり好きじゃなさそうだな、という感じだった。
ぼくは物販スタッフになってマヘルとシェシズのライヴを観た。リハーサルでの高橋朝さんが面白かったが、数年経って朝さんにそのことを話すと、〈そんな記憶はありません〉と返ってきたので、もしかしたらぼくの中にしかないリハーサルの記憶なのかもしれない。
その後『美代子阿佐ヶ谷気分』という映画でmaher shalal hash bazの音楽が使われることになり上映に際してマヘルの演奏があるというのでその日に映画鑑賞も兼ねて行ったのだった。映画に泣いたしマヘルの演奏にも感嘆した。
で、『美代子阿佐ヶ谷気分』に関しては映画の上映がメインだったので普通にお金を払って鑑賞して上映後のライヴを観たのだったが、帰り際に今度は変に積極的になってしまったぼくが冬里さんに「来週の渋谷のライヴもスタッフやっていいですか」と尋ねた。
そしたら、「あれはレーベル主催のレコ発だから物販スタッフはできないんだけど、演奏だったら出来ますよ」
と言われた。
演奏することになった。
セラデルニエールシャンソンというアルバムを発売するに当たってそのレコ発をやるという主旨だったのだが、177曲あるアルバムの曲を1曲目からすべて演奏するというものだった。ぼくが提案したのは、その曲に関する冬里さんの説明を1つずつ聞いてノートに書き写し、それを本番で鬱陶の上で書写するというものだった。
〈若林奮の銅板みたいでいいと思います〉〈アルミホイルを敷いたら良い音が出るかもしれませんね〉そういったメールが届いて、そうすることにした。
高円寺駅前の噴水の前でマヘルの練習が行われることになった。1曲1曲冬里さんがぼくの前に来て、大きな声ではない普段通りの声量で曲の説明をするので、「みんなに聞こえるように話してよ!」という文句も聞こえ、少しいたまれない気持ちにもなる。ぼくが何をやるのかみんな知らないので、ストレンジャーという感じがする。みんな最初はそうだったのだろうか。曲の説明をきいてるだけで楽しかったが、罪悪感を覚えた。
曲数が多すぎるので当日にも説明を聞くことになったけどそれでも間に合わなかった。つまるところ、すべての曲の説明を聞かないまま本番を迎えることになった。
力強くボールペンで文字を書いた、いや、掻いた。
音は観客に届かなかった。百均のアルミホイルは途中で無くなったし、よくよく考えてみれば様々な楽器、ホーンやエレキギターなどの音が溢れかえるステージである。ボールペンの音なぞマイクで拾ったところで響くわけがなかった。ので、客観的に見ると最後まで何をしているかわからない人になってしまった。恥ずかしい。
その時の映像はセラデルニエールシャンソンのDVDに収録された。
そのDVDにはぼくを含む当時の東京マヘル、岐阜マヘル、関西マヘルなどが映った。
その時から色んなものが動き出していたが、ぼくは音を鳴らしただけで、伝えたわけではなかった。その時の価値は、曲の説明が無い最後の数曲を自分のからだを削るように掻いたことだけなのかもしれない。と振り返りながら思ったりする。そうやってぼくは5年ぶりくらいに人前で音を鳴らした。
そういうある種の非日常から、また違う種類の非日常である飯場に戻り、建築現場に行き、現場仕事をした。
「なんか趣味とかあんのー」と、高橋政信がゴリラ化した風貌の木村さんに聞かれて、趣味という言葉は嫌いだったが、実験音楽やってます、みたいなことを言ったと思う。こういう時ぼくは困る。縦と横の棒でつくられた檻を美しいという人に説明する言葉を持たないからだ。
実験音楽って何?と訊かれて、ぼくの場合は、こないだ、陶板をボールペンでガリガリ削りました。と言うと、スタイリッシュかつマッチョなゴリラである木村さんは、
「あー。そういう感じかー。わかるわかる。鉄パイプとかも叩いたら良い音鳴るもんなー」
わかるわかる、という言葉を聞いて、ぼくはやっぱりこの人は苦手だな、と思った。そう言ってしまうと苦手な人ばかりなのだけれど。
わからないはわからないでいいじゃないか、と思うし、10数年経った今でも同じような感覚をよく抱く。