サークル
欲望会議、とノートに書いた。
その後何も思い付かずに、そのページを破って捨てた。
捨てられたそのクシャ丸、つまりクシャクシャに丸められたそれが非常に愛おしいと思い、ゴミ箱から拾って、食べてみようとしたが、紙というのは矢張り不味い。吐き気を催して、そこで吐くことができたのであれば映画的であるな、と頭の中で思ったことによって、吐くことが出来ず、ただ胃液が微妙な場所まで上がり、また下がっただけであった。
ということで、内宇宙にて遊ぶ、そういう形容が合うような創作は微塵もできず、舞踏に興じることもできなかったので部屋を後にして旅をしようと思ったのだがドアを閉めた瞬間気付いた。頭の中で「旅」と宣言してしまった時点でそれは旅というより旅行だなと思ったのだった。
昔ゴミ収集の仕事をしていた時分に、藤原の健さんという三十がらみの男がいて、オシャレ髭にオシャレ眼鏡、仕事が終わった途端にプライベートを見せつける、つまるところ更衣室にてすぐさまエスニックかつサイケデリックな服装に着替える男が居たのだが、パッカー車の中での談話にて彼はいつも「〇〇に旅で行った時の話なんっすけどー」とか「元元元カノの場合はー」とか言ってて、つまり言葉がわかりやすく反転してる。旅を一度もしたことが無いが旅行は沢山してきましたということと、恋は一度もしたことが無いが疑似恋愛に関してはプロです、というようなことをアピっていて、一緒にいてとてもつらかった。藤原の健さん、もといフジケンさん。
アンチフジケンさんになってしまったわけだ。アンチということはその人の影響を受けてしまう。だからぼくは頭の中で旅などと言ってしまって、旅ができない体になった。これはとても悲しいことであるが仕方が無い。
とりあえず家を出た。
荻窪の魚介系醤油ラーメンを食べてしまうと色んなことがどうでもよくなったが、色んなことがどうでもよくなったのをラーメンのせいにしてしまうと、やはりどうでもよくないなと思えた。
作家であれば思考の中で沢山走ればいいのだが、ぼくは作家ではないので、まあまあの負荷をからだにかけながら、走った。走りながら自転車吐息を思い出したのでそれはあまり自転車吐息的ではなかったし、青春ですらなくなってしまった。
それに、300メートルくらいの時点でポケットからスマホが落ちて、側面がかなり傷ついて心が傷ついたが、スマホが傷ついたくらいで心が傷ついたことに更に傷つくもそれはなんだかのっぺりした平板な傷で、のっぺりした平板な傷など有り得ない、と思った。
しんどくなったので歩いた。
スマホで、尻について調べているうちにけっこう歩いたようで、中野に着いた。中野で中原昌也に出会えたらラッキーだと思ったが、会えても話すことがないし、そしてもし話すことができたとしたら彼はぼくを嫌いになるような気がした。そういうことを思っていたらまた暗い気持ちになっていった。さほど旨くないタコ焼きを食べた。
中野ブロードウェイに入った。
昔売ったDVDや球体関節人形を買い戻せたらいいと思ったけど、買う金も置く家も無かった。
置く家が無い……。
家が無いのにどうやって家から出たのだろうかと考えたが、タコ焼きでは空腹は満たされなかったみたいで、考えるのもつらくなった。
ホープ軒に入ってラーメンを流し込んだ。
腹に鉄のリングを嵌められているかのように、不思議と膨満感が得られない。こんなことがあるのだろうか。夢かどうか確かめようと思ったが、夢かどうか確かめようとしてこの夢が終わったら悲しい、と思って確かめるのをやめたが、夢の中で空腹感なぞ覚えたことがなかったので、矢張り夢ではないような気がした。
東京都知事選の選挙ポスターを見るとゲバ棒を持った外山恒一がいて、やっとこれが夢だと気付いた。ゲバ棒を持った外山恒一がポスターに貼られているのは遥か昔の筈である。15年ほど前だったろうか。正確には思い出せない。そんなことを考えながら掲示板全体を見渡してみると、山本太郎、小池百合子、宇都宮けんじなども貼りだされていた。更によく見ると、田中角栄の顔を横尾忠則風に加工したものまで貼りだされていて、これは夢というより創作物の可能性がある、と思ったし、そもそも今は都知事選の時期ではない。いや更によく見ると、選挙の掲示板にしてはその全体を囲う枠が金色で、なんだか豪華であったし、これは一体全体なんなんだろうと考えてるうちにその巨大な板がこちら側に倒れて、否、吹っ飛んできて、ぼくの顔面にぶつかった。
痛い。
木というのは本当に痛いということをぼくは知っている。なんで? という思い。鼻がとてもつらいし、ぼくが受動であったのに、ぼくがその板を貫いたような形にも見え、非常に滑稽で、そして板がぼくの後ろになってから、目の前でニヤニヤしている20代そこそこの男の顔がとても丸くて、ぼくはこんなブサイクな奴にやられてしまったのかと思うと、非常にやるせない気持ちになったし、虚脱感に襲われた。
こういう時、反射的に相手を蹴り飛ばす感性が欲しいと昔から思っていた。なぜなら反射的に相手を蹴り飛ばして、それが成功してしまうと、なんだかそれは、滑稽であることには変わりはないのだが、ポテトチップスのような軽妙さにて、見た者からすると後に残らない。そう思ったのだが、見た者とはなんだ。これは実際には見た者というのが居なかったとしても軽妙かそうでないかが問題のような気がする。そもそも、たぶん見た者とは自分に他ならない。
こんな時だが、むちゃくちゃ腹が減った、と思った。そしてドラゴンボールの悟空やワンピースのルフィなどを思い出した。が、全然違うと思った。彼等は無考えに動きに動いて腹を空かすわけだが、ぼくの場合は考えてもいないし動いてもいない。ぼくは人形なのだろうか。イヒヒっ、と声を上げた丸顔が飛び跳ねた。彼の足が着地した瞬間にその足首を蹴って転けさせようとしたのだが、タイミングが外れて、更に馬鹿らしくなった。次に相手の胸ぐらを掴むことさえできなかったとしたら喜劇的だったのだが、それは成功してしまって、相手を仰向けの状態で地面に押し付けて、そこからどうしたらいいかわからなかったので、後頭部をアスファルトに何度か打ち付けることになったが、なんだかこれはとても地味なような気がした。次第に人だかりができた。この時咄嗟に思いついたことがあった。
全力で逃げる、ということを、中学生の頃以来していなかった気がして、今それを実行してみた。誰も追いかけてこなかったが全力で逃げてみた。
昔好きだった高田馬場のブックオフに入ってみたのだが、昔と同じで立ち読みしにくい状態であったし、今はコロナで立ち読み禁止なのだった。何もせずにブックオフを出た。誰も待ち構えていなかった。15年前範馬勇次郎みたいな体格の同級生が教えてくれた大して旨くないつけ麺屋はまだそこに健在していた。どうして誰も追いかけてこないのだろう。追いかけてくれないと物語が始まらないというのに……。
あのバーに向かって走れば劇的かもしれない、と思ったが、そのバーの名前を忘れたし、疲れた。車やバイクを盗んで走れば劇的かもしれなかったがそういったものを盗むスキルがぼくには無かった。
わざとらしく奇妙な手の振り方で走っているうちに同人誌即売会の会場に着いた。目を瞑って自分の年齢の数だけ歩いたところで立ち止まって目を開けたところに『無物語』などという書籍があれば劇的だと思ったが、目を瞑って2歩歩いたら人にぶつかったし、「マスク無いんですか?」と訊かれて気まずくなったのですぐに会場を後にした。
会場の外に出ると先程の丸顔を筆頭に不良の集団のようなかたまりがみな金属バットを持ってこちらを睨んでいたから、やっと物語になってくれるのかと胸を撫で下ろしながら目を瞑ると、彼等のとてもゴキブリじみた叫び、フォアフット着地を一から学んだほうがよいぞと言いたくなるような汚らしい足音が近付いて、少しだけぼくの肩に服が擦れたりしながら通り過ぎた。
目を開けたら誰もいなくて、金属バットで殺された場合というのはこういう風に、まるで現実の風景であるかのような、人生と地続きの、しかし目の前には人がいない風景を見させられるのか、と考えたりしたのだけれど、よく見ると5歳くらいの女の子を連れた眼鏡でハゲのお父さんがその娘の頭をなでなでしながら、自分がとても娘を可愛がっていてその愛は無上のものです、という外向けの笑顔が見えて、死んだ後というのは自分が1番嫌いなもの、つまりぼくの場合で言えば偽善の象徴みたいなものを見させられることになるのか、という学びがあった、と思ったが、振り返ると丸顔の集団が同人誌即売会を壊滅させていた。
丸顔とはおあいこくらいのように思っていたし、同人誌即売会には大した思い入れは無かったが、この時ぼくは凄まじい運動神経を発揮して数秒で3人殺した。最初の丸顔はまだ生きていたし、さすがに怯えた顔をしていた。素手で3人殺した後3人目から金属バットを奪い取ったので誰もぼくに向かって来ようとしなかったがそういう問題ではなかった。これからぼくに向かってくるのは警察だ。罪だ。自殺をしようと考えたがとても恐ろしく、刑務所生活と天秤にかけようとした時、精神障害者のふりをして入院すれば沢山寝れて幸せなのではないかと思ったのだが、そういったことを想像しているうちにある思いに囚われた。
ーーそういえば近々、マトリックスの新作が上映されるとの噂だーー
マトリックスの新作が観れないのは絶対にイヤだと思った。服役なりなんなりした後、この世界に映画館やDVDが残っているとも限らない。
ぼくは丸顔に近付いていった。彼の気持ち悪い、常に少し口があいていて息が臭そうな顔に自分の顔を近付けて、言った。
「もうこれ以上殺さないから助けて逃がしてお願いします協力してくれたらなんでもします死ぬこと以外はいや他にもできないことはあるけど極力希望に沿うようにしますですからお願いします助けてお願い」
翌日からぼくは丸顔になった。