カエルさわれる? 鼓動の高鳴り

へやに奴がはいってくるともう悲惨。

腰高の出窓は、降りられるくせに、窓の高さまで壁紙をのぼれない。夜のうちに入ってきて、朝になると明るい窓めがけてぴょんぴょん失敗している。

私は、さわれない。

もしくは、ものすごく膨大な勇気を要する。

出せないからといって、見うしなった蚊のように放任するわけにもいかない。奴らは半端にかしこいから、へやの中でも私の生活圏のある中央部へあつかましく進出してきては、物音がするとまたへやの隅へ跳んでいって家具のうらに姿をくらまそうとしたりする。

隠れられるとこちらもお手上げで、安寧の夜は二度とおとずれないと悟。それも困るから、奴のいどころを逐一確認する。ものかげに近寄ろうものなら、ティッシュで追い込んで目のとどく場所へ誘導する。でも出せない。

見ていなくてはいけない。けれど、完全に追いだすこともできないまま、時は過ぎる。

前に読んだ自負心(self esteem)の本にも、同じようなことが書いてあった。幼少期の気がかりなとっかかりが、自負心の形成を阻害している。幼少期の自分を直視し、抱きしめることができれば、自負心が育ち自信がうまれる、という内容。

そのとっかかりはふだんの生活で意識することはない。しかし脳というのは優秀なのか間抜けなのか、無意識のなかでそのとっかかりをずっと直視しつづける。PCでいえばずっと何かの処理中状態だから、目の前にある生活のための処理につかえるメモリは少なくなる。だから、目の前のことに集中できなかったり、誤った人生の選択を是正できなかったりする(誤ることだけなら誰だって何度もある)。

まえに、悪いことしちゃった。

初対面の人が「人生を1からやりなおしたい」と言っていたから、「じゃあどこからやりなおしましょうか?」ときいたら「やりなおせる訳ない」。初対面のうえに将来的につきあっていく人でもなかったから、もうめんどくせと思ってそれ以上言葉は交わさなかった。

でもたぶんあの人、メモリの余裕がかなりギリまで来ているんだと思う。だから、やり直すという発想すら浮かばない。ただ漠然と、何かはやりなおさなくてはいけない、って思っている。そのこと自体、あの人が頭わるくないってことを示している。

だからって、私の時間をその解決のために使うかっていうと、どうだろう。

とっかかりっていうのは、不幸のたねだと自分が自分にたいして信じているもの。たとえば虐待とか、両親の不仲とか、目前でみた暴力とか、子供心に衝撃のはしるような体験。

慣れていくと、そんなこと普通にあるもんだ、とたいして動揺もしなくなる。しかし、「それらは根本的に良いことではない」と直感した子供の自分は、ずっとそこにいる。その子供の感じている衝撃を、どれだけやわらげ、万事OKだと伝えることができるかどうか。

カエルを見つめながら、そんなことを思った早朝。カエルも困った顔でこっちを見つめていた。

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