急に歴史がおもしろくなったワケ 〜自分を見せてくれる鏡??〜
何物かに興味を持つまでは、自分が人生のうちでその物にただならぬ興味を持つことを、その熱量を、その興奮を、想像だにできない。
想像できない。だから、今この瞬間の人生がおもしろくないと思っているあなたも、これを読んだら急にそれに興味を持ち、世界が輝きはじめ、このnoteが有意義なる人生の第一歩になる、かもしれない。なんつって。
そう、今回のテーマは、中一のときテストで8点をとり、それ以来、苦手教科1位の座を何者にも譲らなかった日本史。それが急に興味深くなった経緯は、こういうことであった。
中山道ツアーでみつけた人物X
地域の観光業に携わっていることから、仕事でとあるツアーに参加することになった。電動アシスト自転車「e-bike」で巡る「中山道ツアー」。正直、歴史にも古道にも興味などない。けれど、秋のいい気候のなかを、自転車で風を切りながら里山をめぐるなんて、PCと首っ引きのオフィスワークと比べてなんという天国か、という並々ならぬ消極的理由で積極的に志願したのだった。
ツアーの行程は、新幹線の佐久平駅を出発し、可能な限り江戸時代の中山道をなぞって走るというもの。途中、交通量の多い国道を並走したり横切ったり、あるいは国道そのものと重なる部分もあるが、総じて、車の往来が少ない、いまはあまり使われない細道や山道である。
途中には「宿場」がいくつかある。宿場は、私のなかでは古い街の総称といった認識だったが、調べてみると、江戸時代になって街道が本格的に整備される1600年頃に始まった「宿駅制度」に関連していた。
幕府が設定した宿場には、街道の輸送機能や軍事機能を維持するため、人足や荷馬などを一定数準備しておく義務があった。それと同時に、物流に携わる人や旅人たちのまさに「宿」泊地として機能した町なのだ。
佐久平駅から西に進み、直近の宿場は「塩名田宿」。それから、現在は佐久市浅科地域の「八幡宿」、そして望月地域の「望月宿」。八幡宿は、皇女和宮が徳川家茂のもとへ降嫁した際の宿泊地にもなった。また、八幡・望月の2宿のあいだには「瓜生峠」という坂があってこの2地域を隔てており、ここでは土を盛った一里塚も形をとどめている。このかつての中山道がもつ急坂の地形は、国道から窺い知ることはできない。
この後、中山道は、佐久市から隣の立科町へと入っていく。
立科町最初の宿場「芦田宿」では、個人所有である本陣を見学させてもらった。和宮が昼食をとった書院造の客間や、襲撃に備えた隠し通路などがある。
芦田宿をすぎると、今度は長和町に入る。現代の大動脈である国道142号からも間近に「笠取峠の松並木」が見えてくる。これは江戸時代に幕府から整備を命じられて植えたもので、峠道に松の巨木がたちならぶ様子は、当時の面影をよく残す数少ないスポットである。
笠取峠を越えると「長久保宿」がある。ここは、地元に住んでいながらあまり耳慣れない地名だったが、江戸や明治の趣きをのこす家屋が多く現存しており、資料館も見学できる。ここも瓜生坂同様、現在の国道からは外れているので、国道を通過するだけでは、味わいある街並みの存在に気づけない。本陣であった建物も、鋭意整備中であり、近年中の公開を目指しているそうだ。宿場の出口には高札場もあった。
さて次の宿場が本ツアーのゴール「和田宿」である。
和田宿は知名度の高い宿場だが、実際、坂道にならぶ映画のセットのような家々はこれまでの宿場で群を抜き、圧巻の佇まいだった。本陣建物は、かつて村役場として使用されたのち現在は資料館となり、和宮行列に関する御触書、和宮行列名簿などが展示されている。また二階へ上がって本陣家屋の内部構造も体験できる。
和田峠の道の駅、和田宿ステーションにてツアーは終了。復路は、ツアー参加者はバスで、そして自転車たちはトラックで、佐久平まで帰還した。
ツアーの行程はざっとこんな感じだった。歴史の知識に乏しい私としては、建物や街並みの「風情は感じられる」ものの、「意味のわからない言葉」ばかりが行き交った。宿場はもちろん、一里塚とか本陣とか高札場とか、なんでランチするだけなのに襲撃される可能性があったのかなど、謎は無数にあった。が、まあ日本史には興味がないのでそれらは放っておけばよい。
そんなことより問題は、とある疑問が、ツアーを終えた私の頭の中でぐるぐる回転しはじめたことである。
「和宮って誰?」
時間&空間をお巡りになる和宮
宿場に寄っては出、寄っては出てくる、その名「和宮」。宿場それぞれに長い歴史があるだろうに、そんな歴史などほっぽりだして、どの宿場の人もとにかく彼女の話がしたくてたまらないようだ。
端的に説明すると、和宮は、孝明天皇(江戸時代最後の天皇であり、明治天皇の父)の妹君。公武合体策により16歳で徳川家へ降嫁(=皇族の女性が皇族以外に嫁ぐこと)した。
公武合体とは、求心力を失っていた江戸幕府が朝廷と手を結ぶことによりその勢力を維持しようという考え方だ。とはいえ結局、情勢は徳川家が盛り返す方へは向かわず、大政奉還によって職位を返上、明治政府が誕生した。
政策によって、許嫁との婚約を破談にし、別の結婚が周囲の都合で決められ、住み慣れた京を離れ、どれほど野蛮かもわからない徳川将軍に嫁がされる。行き着く先は百戦錬磨の図太い女たちが跳梁跋扈するといううわさの大奥。幸い、夫婦仲はよく順調だった結婚生活も、夫である徳川家茂の20歳という若さの逝去であっけなく終了し、その後、江戸城無血開城に幕府方として力を尽くす。
なんとも不憫な、そして世のため人のためにと生きた、和宮の壮絶な人生。なのだが、当時、庶民の注目ポイントはそこではなかった。
降嫁ルートに中山道が選ばれたことで、行列の宿泊休憩のための施設の準備や、見栄えをよくするための古家の建て替え、警備人足の準備などが宿場に求められ、宿場の負担は莫大であった。多くの宿場では、幕府から借金をして急ピッチで改築が進められたようだ。
また行列の当日も、見たことのないような人数・豪華絢爛な人々が、「おらとの村」を通過する(その数は一説に、警備等も含め2万人、一箇所を全員が通過するのに4日かかったと言われる。この全員が宿泊したり食事したりする)のだから、これはおおごとである。
宿駅制度の開始以来260年という長い歴史がありながら、どこの宿場でも未だに和宮行列が語り草となっている背景には、このような理由があるのだろう。
多くの歴史上の人物の人生は、時間をこえて令和の世にも語られる。しかし和宮は、時間にかぎらず地平をもこえて江戸へと辿り着いた。
いや、歴史上のどの人物も、時間に限らず地上を平面的に移動してもいたのだ。
教科書にそんなこと書いてあったっけ?
歴史を味わうための2つの視点
「日本の歴史」という広範囲な視点で見れば、和宮行列は、ある時代を通過していったイベントだ。これより前には「徳川家の衰退」という通過点があり、これより後には「明治維新」がある。
しかし、これはあくまで俯瞰の視点。個人がこの視点を持つことは不可能だ。そこで、とある田舎の宿場から定点的に観察すると、景色はまるで違ってくる。
徳川家が衰退するのを防ぐため、和宮は降嫁することになった。徳川家の衰退を、日本の中枢にいた人々は感じていたし、それぞれが必要に応じて行動していた。しかし、たとえ江戸城が大赤字で修繕もされずにいても、それは地方の庶民にとっては、嘘か本当かわからない遠い出来事だ。また、明治維新にまつわるたとえば「廃刀令」が施行されたとしても、武士でない人々には関係がない。
歴史上の事実とされる「徳川家の衰退」や「明治維新」。それらを身近に、リアルに感じられるのは、ごく限られた他人々だった。個々人はいつだって、自分の見ている景色をこの上なくリアルに感じ、そしてその裏の見えないところに思いを馳せない。そこに、まったくリアルでない、しかしながら事実である、歴史上の出来事が存在している。
ところが「和宮降嫁」は、歴史的事実でありながら、街道沿いに暮らす多くの人がリアルに認知した。
同じ中山道沿いとはいえ、全長500kmを超える街道は、たくさんの村々を貫いている。「一生接点を持たないような、言葉さえもちがうような遠く離れた人々が、同じ出来事を目撃する」というこの状態は、テレビどころか電気もなかった当時における、いうなれば「リアルテレビ」、マスメディアのような現象だったのではないだろうか。
そしてこの「視界の共有」は、「和宮降嫁」という歴史的事実の、もうひとつの特異点を出現させた。それは、この行列が、歴史的な「時間軸を通過している」と同時に「地理的な通過」もしたということだ。
行列なのだから、地理的な通過をして当然じゃないか? そう思われるかもしれないが、これは単なる「地上を移動する」という意味ではない。ここでは、地理的に離れた複数の人々の視点が、一気に行列に注がれている。
その無数の視線の存在を感じてはじめて、時間という1軸で語られ、年号の羅列に終始する、年表上のぺらっぺらの歴史が、現実にはもうひとつの軸である「平面軸」との2軸で構成されていることに、私は気づいた。
平面上のいろいろな場所で、歴史の時間軸がそれぞれに進行している。現代でこそ、人は他人の視界を疑似体験できる。ニュースやメディア、写真、動画などを通じて。しかし、そのような技術がなかった時代に「他人の視界は存在しなかったのか」といえば、そうではない。過去の資料ーー街道のうねりや、本陣・旅籠などの街の機能、一里塚や道標、図書資料や浮世絵など「歴史のスコープ」を通せば、他人の視界を想像することができる。そしてそれら「証拠品」の一部は、現存してすらいるのだ。
なんと重厚な世界観だろう。
「和宮資料大量すぎの謎」のおかげで、私はあらたな視点を得ることができたのだった。
そしてもうひとつ、和宮降嫁が歴史的一大事だったことを示す、端的な証拠がある。それが各地に今も伝えられる「祭り」だ。
・京都府「時代祭」
・岐阜県「中山道赤坂宿まつり」
・岐阜県 「美江寺宿場まつり」
・岐阜県「太田宿 中山道祭り」
・岐阜県「中山道 馬籠宿場まつり」
・長野県「小田井宿まつり」
・埼玉県「桶川市民まつり 皇女和宮行列」
ざっと調べただけでも7件。これらはすべて和宮降嫁にまつわる祭りである。同じテーマを持つ(しかも神様の伝説とかではなく、現実に生きていた一人の人間の)祭りがこれだけあるなんて、ちょっと他にはないのではないか。
一方で、逆にいうと、これらの祭りは降嫁のあった1861年以降につくられたということだから、古来から続く伝統の祭りとは言いがたいかもしれない。既存の祭りの一幕として行列を組み込んだとか、地元の若い女性をモデルとして巻き込みやすいという思惑とか、地域おこしの面をかぶった外貨獲得手段とか、由来はさまざまありそうだ。
とはいえ、これだけの地域が和宮行列の歴史を保存し続けているということが、当時のセンセーションを証明しているように思えてならない。
江戸時代を、自分事のように感じる
江戸時代のリアリティをますます実感したのは、やはり自分の生き物としての欲求に直結することーー「食」である。
江戸とはどんな時代だったかを知りたくてYoutubeでいろんなチャンネルを流し聴いていたのだが、あるところで急に引き込まれた。
「江戸時代中期に、それまで輸入に頼っていた砂糖が国産化されて安価になり、菓子の文化が発達した。」
そう、物資が豊かになる文明開花のはるか以前から、庶民も甘くておいしいお菓子を食べていたのだ! 空腹時に聞いたこのエピソードが、私の「苦手な歴史」観のマジの転換点だったように思う。
先の自転車ツアーでは笠取峠で小休憩をとり、「峠の力餅」を頂いた。峠の力餅とは、当時の街道で峠の前後の茶屋で売られていた流行りの餅菓子の通称だ。
峠の松並木の下で食べた、小豆あんがいっぱいにつまった豆大福。あの大福が本当に、峠の坂を越えて歩き疲れ、お腹をすかせた昔の旅人たちを、幸せいっぱいに満たしていたのかもしれない。
お菓子以外にも、江戸時代(とくに東京地域としての江戸)にはさまざまな食文化が発達したようだ。
たとえば「煮売屋」は、現在の居酒屋の初期の姿。それまで食事は、食材を買って家で調理するものだったが、単身赴任の男性が多かった江戸では外食産業が発達した。食べ物を店内で調理して、店先にはベンチ型の畳を用意し、その場で酒やつまみを器に盛り提供するスタイルの店を煮売屋という。
当時は机はなく、座敷や畳にじかに器を置いて飲食する。このようなエピソードも聴いていると、まるで自分が入店し畳に座って待っている感覚に陥った。店員が酒の徳利と、湯気を上げるおでんみたいな料理を運んできた。吹き曝しの店先で、少しのつまみでしっぽり温まる夕暮れ……い、行ってみたい!
また、店を構えた煮売屋よりも手軽に食べられる「屋台」の文化も発達した。売られていたのは江戸の定番、蕎麦・寿司・鰻の蒲焼きなど。意外だったのは天ぷらで、これは古くなってしまった魚などに火を通して美味しく食べる手立てでもあり、江戸で流行ったとか。
食以外の文化では、湯屋にだいぶ惹かれる。
これは現代でいうところの銭湯。多くの庶民は極小の長屋暮らしで風呂がなく、そうでなくても火事が目下の一大課題であった江戸の街では、基本、庶民の家に風呂はなく、人々は湯屋に通っていたそうだ。
金額もリーズナブルで、毎日、場合によっては朝夕お風呂に入る。なんという贅沢。
さらに忘れてはいけないのが「旅」文化の発達。天下泰平で治安のよかったこの時代、男性だけでなく女性も旅をした。目的はもちろん観光・湯治。時代は変わっても人のやることは変わらない、っていうか、人って本当に変わっているのだろうかと疑問に思えてくる。
庶民の自由な移動が許されていなかったという話がよくあるが、それはまあまあ建前だったようだ。時代が進むにつれ、宗教上の理由など正当な理由っぽいやつがあれば関所を通るための手形を出してもらえた。
そのため「お伊勢参り」など神社仏閣を訪ねる(かのようでいて、実際はお参り後の精進落とし=宴会とか遊郭が目的の)旅が流行ったわけだ。建前に建前を重ねていくジャパンスタイル。せっかく乗せた精進、なんで落とすねん。
こうして公務・物流のみならず、多くの旅人の通過点ともなった街道の宿場文化も発達していった、というわけ。
ちなみに中山道の各宿場を描いた浮世絵「木曽海道六十九次」は、「街道」ではなく「海道」と書く。これは「海につづく道」という意味があって、五街道のなかでも日光道や甲州道は海につづいていないので海道・街道とは言わない。
えっ海? ここ海なし県のはずだけど?
そう。自転車ツアーが催行された「岩村田宿(佐久平駅)」から「和田宿」までの道のりは、中山道のほんの一部中の一部。そもそも中山道は、江戸と京を行き来するために整備された、大大大街道なのだ。
長野県民、忘れがち。
中山道はいずこ?
江戸幕府が開かれ、ほどなく宿駅制度が始まった。
さきに説明したとおり、この制度は、街道を整備して宿場を配置し、各宿場には馬や人足の常駐を義務付けるというもの。その主な目的は公用物資の運搬、幕府の各地への影響力強化、そして「入り鉄砲 出女(武器流入防止と、大名妻子の逃亡防止)」の言葉にあらわされる江戸の防衛だ。
東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中。
(中学のときあんなに苦労して最終的に覚えられなかった5本の名前がいまやするする入ってくる。興味というのは恐ろしいものだ。)
五街道と呼ばれる5本の街道は、江戸を起点とし、縦横に整備された。江戸から各地へむかう移動効率を高めるための整備だが、いちばん重要な経路は、当時の首都である京と、幕府のある江戸の往来。そしてその2地点を結ぶ経路は、2つあった。
有名なのは「東海道」。これは現代の「東海道新幹線」にもそのまま名前を残すほど、400年間ずっと日本の大動脈の地位を占めている、現役の主要道だ。
では「中山道」とは何か?
これもまた、京と江戸を結ぶ道にちがいない。なぜ東海道がありながら中山道も整備したのか。
色々調べた結果、これという明確な答えは見つけられなかったが、それはまあ現代でいうところの「なぜ北陸新幹線を福井までつなげるのか」みたいな問いに近いせいもある。長野新幹線はもともとそういう目的で整備し始めたからだし、じゃあそれはなぜといったら、計画段階の国会答弁とか全然知らないけれど、おおまかな答えならこれひとつでよい。「便利だから」である。(あるいは国会議員のだれそれの地元と東京をむすぶため、なども考えられ、この真偽レベルは江戸も令和も変わらないことだろう。)
東海道と比べたとき、中山道の利点は大きく2つある。
ひとつは、山中を進むため、大きな川を渡る必要がなかった。当時は橋をかける技術が現在ほど発達していないし、さらに防衛の観点から、幕府の許可がなければ橋をかけること自体が許されなかった。
橋を使わずに「川を渡る」。これを具体的に思い浮かべられる人がどれくらいいるだろう? 子供達がきゃっきゃはしゃいでいる親水公園の小川のように、ちょっとまたげばいいというのとは訳がちがう。
川を渡る方法は、自力で渡る、担いでもらう、船で渡してもらう、のおおきく3通りがある。が、自分で渡るのはもちろんつらい。あとの2つ「人に頼む」は、運賃、お金がかかるのである(けっこう高かったらしい。おんぶしたり輿に担いだりして、ビシャビシャになりながら1、2km歩いてくれるんだもんね)。そして増水する季節は船すらも出ず、たもとで何日待たされるかわからない、そのあいだも宿代はかかる(天気予報もない)。
大きな川を渡る必要がない中山道は意外なことに、体力的にも費用的にも日程的にも、だいぶ安心の道だったのである。
もうひとつは、東海道より田舎の街道だったため、宿屋などが安かった・人々が優しかった、というのがあったらしい。少しくらい距離が長くなって山がちになっても、リーズナブルで日程通りに進める。そして夏は山岳地帯をゆく涼しい旅路。
これ、なかなかいい選択肢じゃない?
ではここで、トップ画像に立ち返ってみよう。
この浮世絵の作者は渓斎英泉(けいさい えいせん)。歌川広重と共作で『木曽海道六十九次』を描いた絵師だ。
『木曽海道六十九次』は、中山道の各宿場を描いた浮世絵シリーズ。庶民のあいだで旅行が大ブームとなっていた江戸時代後期、旅先の景勝に馳せる人々の想いは強く、このシリーズも大ヒットした。
そしてシリーズ中のこの絵のタイトルはーー
『木曽道中 岩村田』
これまでの人生で、高校に通い、ショッピングモールで遊び、科学館で仕事をしてきた、私が普通で平凡で現代的な生活をしてきた、まさにその地を描いたものだった。
中山道は、ここにあった。
(六十九次に含まれる70枚の絵のなかでも、この「岩村田」はかなり特殊な部類なんじゃないかと思う。ネットですべての絵を閲覧できるのだが、大半は風景画で、人は遠くに小さく描かれる程度だ。
岩村田だけが、喧嘩している?人々の躍動がアップで描かれる構図になったのには、盆地の地形が見た目のインパクトに欠けることと、当時とても治安が悪かったらしいことが影響していると思う。
その地形も今や「佐久"平"」という地区名、ひいては新幹線の駅名となり、この街が突如として現れたものでは決してないことを示す。さらに、絵の背景にある山々は、左にうっすら見えているのが浅間山の裾野、右手が平尾山なのではないかという想像も掻き立てる。)
歴史は、自分の時代を知り楽しむための必須ツール
街道を調べるうえで見逃してほしくないYoutuberがいる。「 スーツ」さんだ。中山道を自転車走破した動画はぜひ多くの人に見ていただきたい。
私の中では、彼が言及したとある言葉がずっと頭のなかをめぐっている。
「あの関ヶ原の惨劇を二度と繰り返さないように、なんて今だれも言いませんよねぇ」
本当にそうだ。戦国武将の勝った負けたや布陣や戦略を楽しんですらいて、だれも、関ヶ原の戦いをリアルに感じたりしない。関ヶ原に流れるそこの川で首が洗われて、清らかな水が真っ黒にそまっただなんて、想像してみてもなおリアリティを感じえない。過去は、他人顔をしている。
過去は他人顔である一方で、自分は自分の顔を知覚できない。鏡を見ても鏡写しの自分、録画しても現在とは別の自分。となりにいる他人ほど鮮明に自分を知覚することは、生きている限り不可能で、それゆえ自分のことが知りたくてたまらず、占いといった不確かなものに自分の姿を見ようとする。
これはもしかしたら、現代という時代にも当てはめられるのではないだろうか。過去は他人顔だが、現代は見ることができない。
となりにいる他人ほどに自分を知ることができたら、どうだろう? ひとつの個体としての自分の特性がわかり、対策がわかり、よりよい人生を送れるにちがいない。ちょうど、となりにいる他人に「この癖をなおせば、この長所を伸ばせば、もっとうまくいくのに」と心の中で唱えるように。
歴史は、そんな場面で物凄い威力を発揮する、そんな気が今はしている。イギリスの歴史家エドワード・ハレット・カーは、歴史についてこんな言葉を残している。
過去はあまりに他人顔である。
その他人が、友人程度に身近でいとおしい存在となったとき、自分のいい面も欠点もおしえてくれる貴重な友人のように、見せてくれるかもしれない。自分を。自分のいるこの時代を。
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