ゲームはつぎのステージへ 最強の武器はことばのその先(前?)

「自分のことばで 説明して」

ってなんか、こっち、責められてる……? 

と感じてしまう。物言いがやさしくても、笑顔で言われても、微弱ながらに圧力を感じる。それに対して、体が反射的に身がまえる。

「自分のことばで 説明して」

ってわたしが言うと、相手が多少、硬直するのがわかる。こちらのかってな思いこみかな? でも、なんかある気がする。

そこにはトラウマが、ある。トラウマ。

小学校のころ、作文が得意だった人はけっこういて。羨ましかったな、鉛筆をはしらせる音がひびく教室の中、スタートからものの10分15分で、教壇にいる先生のところへ、完成作品を誇らしげに提出しにいく人たち。

のこった時間は自習になるから、絵とかかいてるんだよな。わたしは時間まるまるつかっても終わらず、持ちかえり残業組だったな。

起承転結、という話はきいた気がする。まあ、それを作中に実践できたかといえば、むずかしかったけど。

それよりも、「なにを書けばいいのか わからない」という思いが先行して。


自分のことば

これが厄介者。だって、自分のことばを持っている人なんか、いなくない? ことばは人から人へと伝わるもの。そりゃ流行語を発明する人は、ときどきはいるけど。ほんの少数。

とうとつに発明したところで、その意味というか、ニュアンスを相手に伝えるところから出発しなくちゃいけない。

先生が言いたかったのは、本当は「自分のことば」じゃなくて、「ことばの組み合わせを、自分で考える」だったんじゃなかろうか。

「自分のことば」ではなくて、「今までにきいたことがある言葉」。

今までにきいたことがある言葉で、説明して。

まあなんか、説明過多だけど、言っている意味はクリアになったでしょ。求められている新規性に、恐怖感があったんだ。「世界で初めてで、唯一の、作文をつくらなきゃいけない」という気負いが。

すべき練習は、起承転結じゃなくて、きいたことのある言葉をくりかえし書いてみること。好きな言葉を、なんでもいいから書きちらすこと。くりかえし、脳内にインプットしていくこと。

それが、だんだん、自分をつくっていく言葉。

でも、ふしぎ。小学生のころ「作文のテーマを、まず決めましょう」となって、いろいろな記憶をさぐっているときの感覚、いま思いだした。すごく混沌とした場所だった。記憶のおいてある脳内。

みちばたの草花や、きらいな男子や、帰り道のだがし屋のガムや、ハナコさんなんかが、なんの色も感触もない空間に、ぽつぽつ漂っている。

今、作文のテーマを決めるなら、日記から記憶を引きだそうとか、友人を思いうかべてから、その人との思い出をたぐりよせたりとか、するだろう。

ようするに、標識があり、地図がある。

それらは、日記帳やSNSなどで、じっさいの世界と、記憶のせかいを、確実につないでいる。

RPGゲームではよく、出発しはじめの頃は、地図がもくもくした雲でかくされていて、自分のいる村しか見えていなかったり。それによく似ている。それが、地理的な記憶についてではなく、記憶そのもののことについて、いえる。面をクリアするにつれ、雲がはれて、記憶が定着する。

地図があるということは、いちど訪れた記憶にふたたび触れたいとき、効率よく道をたどれる、ということだ。思いだすのが、速くなる。成長するにつれ膨大にふくれていく記憶や認知。それらを多くの部分で制御できるようになる。

でも、なんでだろな。

子供のころの混沌とした脳内と、いまの膨大にふくれた脳内。全体の広さはそんなにちがわない感覚が、ある。そしてあの頃、雲でかくれてみえなかった部分は、雨あがりの夕日をかくした雲みたいに、限りなく魅力的だったんだ。

いまでもまだ、なにかのきっかけで、なにかの記憶にふれると、その魅力のもと、みたいな光にさわれる。

そして、そのなにかの記憶は、具体的なかたちなんか、持っていない。

まだ行ってない面がある、証拠だね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?