2つの顔 持ってみたくない?
現実逃避、変身願望、羽目外し。
わかる、その感じ。自分のことだいきらいという訳じゃない、ただ、ちょっとだけ、別の人生があったとしたらそれは今の自分より愉快なんじゃないか、と疑ってみてるだけ。
ほんのちょっと、人生をスライドさせて、行動してみたい。
その程度の2つめの顔だったら、自分で用意することもできる。ファッションを変えたり、ネットだけの交友関係を広げていつもと違う人たちと接してみたり。旅に出るのだって、現実の自分ときょりを置く行動。
けれど本当に、芯から、ちがう性格の自分になることはむずかしい。性格とは「判断基準」のことだから。
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わたしたちが日々おこなっている判断は、あるものはスムーズに、あるものは思索をかさねて、と、さまざまな経路で結論へたどりつく。ただし経路がちがっても目指すところは「より良き判断」つまり「より良き人生」。そこはおなじ。
どんな判断も、自分という一個の性格が所有する一個の「人生」へむけて「より良さ」を与えようとしている。
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どんな人生が「良い人生」なんだろ。そんなこと突然いわれてもわからないって?
人生を1つの物ととらえず、無数の判断の連続ととらえれば、わかるかも。
つまり、性格を変えるということは、判断のひとつひとつの結果を変えるということ。そんなことをしたら、結果は明らか。人生を変えるという一大現象をひきおこす。
自分のことがだいきらいな人は、実践すればいい。だが、自分のおおかたは好きだけど、ほんのちょっとだけ逃避したいという人にとって、性格を変えることは、実はなんの価値もない。だから、性格を変えようとしても、ものすごいパワーの反対圧力が生じる。
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ところで私は、2つめの性格を「経験」したことがある。
引き金は薬。ホルモン治療だ。病状が悪化してやむを得ずホルモンを大量投与したとき、わたしは明らかに、べつの人格をしていた。
他人から「おなじだよ」と言われようとなんだろうと、自覚は別人だった。人格はあとにもさきにも1人分だし、記憶も1つだったが、判断基準はかつての私のものではなかった。
そして「別人だった」と理解したのは、投与量がだいぶ減ってきたここ1,2か月のこと。べつの人格を経験して、それから、かつての自分が戻ってきた。そうして持った感想は「なんて生きにくい世の中なんだろう」ということ。
できることなら薬も治療もない健康な人生がよかった。もう、うんざりだ。それでも私は、こころのどこかで、当時のわたしを羨ましがっている。
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別人格のこまかな性格については、べつの機会にはなそう。ただ1つ説明するとしたら、その私はまちがいなく「アホだった」。
これはまことにけっこうなことだ。簡潔に説明するなら、究極に空気がよめない性格。自分のしたいように生きていた。人に迷惑をかけていたわけじゃない。ただし、他人と自分の心情を、峻別していた。
「迷惑をかけられた、と感じるかどうかは、その人の性格次第。もし私の行動を迷惑だと思う人がいたら、私に注意すればいい」。
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生きにくさ
その原因はいろんな場所に見いだすことができる。しかし、原因というのはけっきょく、原因をもとめる人間の都合で見いだされる。100人いれば100とおりの原因があって、その根拠が科学的であれたんなる直感であれ、すべては同価値だ。賛同する人間がどれだけいるか、というだけの差。
それでも原因を求めているのは、生きにくさから抜けだしたいと願っているから。でしょ? 生きやすい人生がいいから。
他人の心のなかは覗くことができない。だから、自分が相手に迷惑をかけているかどうかは、その人の口から聞くまでブラックボックス。相手の心情をかってに想像しないこと。その不確かな想像をもとに、気をつかいすぎないこと。
これが、生きにくさを少し生きやすさに変えると、私の経験は申しておりますが、どうでしょう。あと、アドラーもおなじこと言ってた。