a.k.a.の天井

自分ではない 何者かに

投薬治療のせいで顔の輪郭がいつもとちがうのに、この時期の写真が今後5年のあいだ、自分の免許証に載って、身分を証明しとおすなんて、なんか、

「そんなんで、何が証明できるんだ?」

っていうかなんか、まあ、納得がいかない。

本来の自分の顔がすき、ということなのか。

自分の顔を、うつくしいとも、みにくいとも、思ったことがある。

うつくしい、と毎日思えるようなら、モデルや俳優や、そのうつくしさを最大限に輝かせる仕事につきたい、と考えるかもしれない。

みにくい、と毎日のように感じるのなら、整形手術を希望したり、だれにも負けない頭脳や技術をもとめるかもしれない。

わたしは、三十代のいま、そのどちらをも、こころざしてはいない。

一方で、古い免許証を切ってすててもいる。

更新は2度めで、1度めの頃の写真を見ても、それがどういう背景をもった、どういう身分の人間なのか、思いだせはしなかった。

撮影した年齢は、計算すれば、わかる。顔は、その分だけ、若々しくもある。ただし、その顔はいったい、なにを表すのか。

なにを表せるっていうのだろう。

更新は2度目で、1度目の更新のとき、自分の精神はいまより5年分、若かった。あるいは、精神なんて二十歳をすぎたら成長もなにもしない、と考える向きもあるかもしれない。

わたしは、精神が「いまだ…」とつねに思ってきた。この人生で、それ、つまり精神のことを「いまだ…」と考えなかった瞬間など、一度もなかった。

いまだ、こんなにも、山の麓にいる。いまだ、山頂どころか、空も、見えずにいる。

その5年前のわたしも、免許証を切って捨てたその証拠に、わたしの手元には、かつての免許証がない。だから、今回の更新をしたわたしと、5年前の更新をしたわたしは、どうやら、同一人物らしい。

切って捨てた理由は、これらの思考には無関係だった、とはいいがたい。としても、5年後のわたしもまた、何のヒントもなくとも、それを切って捨てることだろう。

それを成長のなさとみるか、精神の同一性とみるか。

「いまだ…」

なにをしていても、学業をしていても、アルバイターであっても、就活をしている間も、した後も、就職しても、休職しても、わたしはつねにこれでありつづけた。

自分は、何者か。

自分は、ほんとうに「何者か」なのか? 思いつくかぎりの、その、どれでもないのでは?

それとも、漠然としたイメージを持っている?

そうだ、持っている。何者か、よくわからない、けれど、「そういう人間」になりたい、とわたしは、自分に求めつづけてきた。

そして、「それに、なれていない」と、免許証を切る。

「それ」が、若さとしての美しさを持った自分であるなら、それはもう達成されたことだろう。そして、過ぎさった。達成された肉体をもつ自分の写真を、大切にすれば、それでよかった。

「それ」が、大人としての苦楽をもった自分であるなら、きっと達成されている。そして、その効果はいまも続いているはずだ。その効果をともにしている、自分の写真を、わたしは、大切にしている? していない。

「それ」が、なにかを得、なにかを失った、その経験のすべてを手にした、自分だとしたら。そんなものは、写真にもつまでもない。すべてが、てのひらに載っている。

自分以外の、何者か。しかし、世界中どこをさがしてもいない、とある人物。

その者は、5年後には、捉まえることができるのだろうか。はたして。

過去に、捉まえた経験はない。けれど、捉まえることを予想しているわたしなら、ここにいる。

想像しないことを、人間は、実現できないものだ。想像すれば、実現できる。ぜったいに実現できるわけではないが、想像しないよりは、実現できる。


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