西川貴教ANN最終回の記憶を辿ってみる話



あんまりの過去の話は好きではないんですが、
今でも鮮明に忘れられない一夜の話を書き留めておきたくなりました。

18年も前の記憶を今更引っ張り出してどうするんだ?
記憶の奥の方で美しく眠らせてた方がいいんじゃないの?
そんな葛藤を抱きつつも、当時の記憶を語り部として書いていきたいと思います。

とはいえ18年も前の話。
多少の脚色と美化は許してよ。
当時の職人さんも実名ならぬ実ラジオネームで登場します。
名前の表記の違いや、削除が必要な方はお申し付けください。



「しゅ〜りょ〜!」
2005年9月、当時19歳の大阪の大学一回生だった私は月曜深夜1時に深い絶望に打ちひしがれていました。

西川貴教のオールナイトニッポン終了のお知らせ。
発表の少し前に当時の2ちゃんねるの掲示板で9月終了の噂がリークされていたので、
覚悟が出来ていなかったかといえば嘘になりますが、
突如突き付けられた8年9ヶ月続いた長寿番組の終了発表に戸惑いと動揺が隠せません。
しかも終了の発表から終了までが2週間後とスパンが短い。
(この終了にはライブドアの敵対的買収事件による影響が大きかったと思いますがそれを書くと長く暗くなるので省略します)

ここからの2週間をどう過ごすか。
絶望していても仕方がありません。

最終回の一週前は通常放送の最終回。
この回のダメ人間日記の最後に私のハガキが読まれたのはとても光栄でした。
感情たっぷりで書いたネタだったので、界隈から「ネタじゃない」とそこそこ叩かれたのを覚えています。
逆に「感動と笑いを同居させるネタは簡単には書けない」とブログで褒めてくださった一個上の某先輩職人さん、
直接お話する機会はありませんでしたが感謝も尊敬してます。
息子がもう少し大きくなったらドリルを買って自慢したいと思っています。


最終回はニッポン放送のイマジンスタジオ(当時出来たばかり)で公開生放送にするのから応募して来いとお達し。
あれだけ毎週ハガキを書いてきて、最後の最後に書くハガキが往復ハガキになるとは予想だにしていませんでした。
数日後、届いた返信ハガキには当選の文字と2ブロック目の整理番号2番の文字。
これがハガキの投稿を頑張ってきたご褒美だったのか、運だったのかは今でもわかりません。
美化するならご褒美なのだと思います。(落選した職人さんも結構いました)

この間に1人の友人からメールが届きます。
当時はSNSもなく、そんなに職人同士の繋がりもなかったのですが、
シーブックたけのりさんの掲示板で繋がり、T.M.Rのライブ(イヤカン)で一度だけお会いしたことのあった、
なにわの天才ハガキ職人ことムカイさんです。(現・総夜ムカイ先生)

「スティックくん、4月から(大学で)大阪に来てるのに全然連絡してくれないよね。
最終回、一緒に行きますか?」という内容だったと思います。
(この人、チクリと一言刺してくるんだよなぁ…)
なんて思いつつも、トップ職人さんからの心強いお誘い。感謝しています。
既に交通の便は手配済みだったため、東京駅で待ち合わせをします。

迎えた最終回当日の月曜日、新大阪を昼発の高速バスで東京へ向かいます。
後にも先にも昼に出て夜に着く高速バスを使ったのはこれが初めてだったなぁ。

深夜の放送後は朝まで有楽町で過ごす予定のため、仮眠をして過ごします。
道中、当時発売されたばかりのiPod miniからはSADSの FINALEが流れていました。

「フィナーレは冷酷を伝えるための合図 そうであれば幸せ 涙は忘れた」


東京駅着。
ムカイさんと合流し、有楽町を目指します。
と言っても、東京駅から有楽町までひと駅隣なんですね。

「ここが有楽町かぁ!」なんて感動しながら2人で駅構内のトイレへ向かいます。
「わぁ!!」
ここでトイレの中からボワっとスーパーレジェンド職人のエビスマンさん登場です。
面識があり雑談を始めるエビスマンさんとムカイさん。
「おいおい、目の前にエビスマンとムカイがいるよ、この2人、直前の職人レースの1位と2位だよ。」
なんて心の声が漏れそうになります。
当時流行りのワードをあてはめるなら、「カウパーが止まりません。」状態。
憧れていたラジオのトップ2が目の前にいる。
これが純粋なラジオイベントだったらどんなに最高なシチュエーションだろうか。
でも悲しいけど、これ最終回なのよね。

エビスマンさんとムカイさんとスティックのりという謎のパーティーを組み、ニッポン放送社屋へ向かうことになりました。
(余談ですがこの後の数年間、T.M.Rのライブに行くと毎回エビスマンさんとトイレで遭遇するという謎のノリが完成しました)

ニッポン放送に到着するとたくさんのリスナーたちが社屋の周辺に集まっています。
当時はスマホもラジコもなかったので携帯ラジオを手に持つ人や、肩にラジカセを担ぐ人が見受けられます。(それは情熱BALLAD)
そこら中でラジオを囲む小さな輪が出来ているという異様な雰囲気のなか生放送がスタートします。

番組開始と同時に地下のイマジンスタジオに向かって整理番号順に整列が始まります。

整列をしてるスタッフを見るとよく見たことのある顔が…。
「えっ…よっぴーじゃん!」(※吉田尚記アナ)
1スタッフとして声を張り上げながら列を整理する吉田アナの姿に一瞬感動を覚えますが、本当に一瞬だけの感動で終わります。
だってそのすぐ先で生放送が行われているのだから。


1ブロック目の皆さんが退室し、私の2ブロックがスタジオへ通されます。
私の番号は2番。当然西川さんの目の前です。
何年も、生放送と録音で何十回、何百回と聞いてきた話し声と笑い声が目の前で繰り広げられています。

私はマジックで「スティックのり」と書いたハガキを胸元に掲げます。
それに気づいた西川さんは「うんうんうん」と3回頷いてくれました。
一瞬の出来事でしたが、数年間の想いが直接伝わった夢のような時間でした。
この瞬間は今も頭の中に鮮明に残っています。
きっと人生の最後に走馬灯の一つになるハイライト。

入れ替えの時間になり再び階段を登ります。
ニッポン放送社内で番組は流れ続けていますが、夢心地すぎて正直話の内容は入ってきていません。
実際、現場にいて録音も出来ていなかったため、この時何を話していたのかだけは記憶にないのです。

外に出てハガキ職人の輪に戻ると最終の新幹線でやって来て合流したジゴロ田中さんの姿を発見。
本当にどうでもいい情報なんですが、ジゴロさんはフリースを着ていました。しかも重ね着。
このときジゴロさんはフリースを重ね着していた。

番組後半に差し掛かるとみんなでラジオを囲み、西川さんの話に耳を傾けます。

笑う者、泣き崩れる者、リスナーひとりひとりに番組への思い入れがあったことを物語る光景でした。
自分はどうだろう?
意外とスッキリした気持ちだったことを覚えています。
深夜のイベントにギリギリ参加出来る19歳だったことや、
高速バスで参加出来る距離の大阪にいたこと、
一年早かったら参加出来ない条件でした。
何より最終回にひとりじゃなかったことが嬉しかった。
今になって振り返ると、番組側が気持ちを整理させるための場所を用意してくれたのかななんて考えたりもします。

こうして青春は幕を閉じます。

そして午前3時を回り各所の携帯ラジオから流れてくる

「斉藤安弘のオールナイトニッポンエバーグリーン」の声

番組受けでアンコーさんが西川さんとリスナーに向けて優しい言葉を掛けてくださったことを覚えています。
あれから18年後の今も現役のアンコーさんも凄い。

場面は戻り、ハガキ職人の輪にぞろぞろと番組内のレイヴに参加していた関東職人の皆さんが合流してきます。

錚々たる面々です。
裏話や感想を聞いているとスタッフの方から「イマジンスタジオ内の打ち上げに職人も参加出来るかも」との連絡が入ります。
いやいやいやいやいやいやいやむりむりむりむりむりむり!!
だって西川さんいるんでしょ?
むりむりむり!!
勝手に舞い上がって現場はざわついてしまいます。

結果…
さすがに素人集団が呼ばれることはありませんでした。

そもそも、呼ばれるとしてもレイヴに参加したメンバーだけでしょう。
この時の舞い上がりは今思い出しても自分の驕り高ぶりに恥ずかしくなります。

その後は始発までニッポン放送前で職人仲間と駄弁り続けます。
お酒の入った広末教信者さん(阿部寛似)が熱く何かを語っていた光景が離れません。
広末なのに阿部寛、もはやひとりバブルへGOです。(時系列的にはバブルへGOの公開の方が後)
私は青森県から来たドルバッキーさんと少し話した記憶があります。
最後にどうでもいい情熱ですが、ドルバッキーさんはオシャレなハットを被っていました。

明け方、各自解散となり帰路へ向かいます。
あの日、歩き疲れたと歩道に座り込みほんわかして見上げた夏の空は美しかった。


思ったよりも長くなってしまいました。
最後までお読み頂きありがとうございました。


次回、西川ANN終了後に行き場を失くしたハガキ職人たちが一斉に押し寄せたニッポン放送の有料携帯サイト内の大喜利コーナーが異常なレベルで展開されていた話、
同じくハガキ職人が流れ着いた本谷有希子のオールナイトニッポン、
同じく笹川美和のオールナイトニッポンの話へと続きます。(続きません)


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