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【カメラマンのエッセイ】承認欲求はクソ。自撮りと他撮りについて考える。


リプトンのグレープティーを飲んでいたらふと文章を書きたくなったのでつらつらと。

人間には自分を好きになってもらいたい、認められたい、評価してもらいたいという承認欲求があるのを理屈では分かっているけれど、僕はそれが嫌で堪らない。

なんだか汚らしい生き物に感じるというのは些か中二病的発想だとは思うけど実際その通りなのだ。思春期真っ盛りのアラサー。

ここで一つ、承認欲求の最たる例と言える自撮りについて考えてみよう。

そもそも写真なんてものは誰でも撮れる。一眼レフを持ってロケに出てインスタ映えスポットに行ってライティングに気を遣って……云々はわざわざしなくても5秒あれば十分だ。

それらは自分の部屋で自撮りした写真とどう違うのだろう?少なくとも同価値ではないように思える。

自撮りの最たる目的は「記録」。SNSに載せることはフォロワーにいいねを貰ったりコメントを貰ったりして自分と周囲の間を測る物差しになるかな。コミュニケーションツール的な側面もあると思う。

僕が仕事でやっているようなスタジオカメラマンの業務も「記録」の部分が大きい。誕生日の記念写真、七五三や成人式の前撮り後撮り。

役割的には自撮りと変わらないのかもしれない。

けれど被写体と周囲の他に、僕という第三者がいることによって違った見方が生まれる。被写体は僕から見た他人で、写真は僕という違った価値観や観点を持った他人の記録ということになる。

だからこそ僕は撮影中「この人はどういう人なんだろう」とか、「自分をどんな風に思っていてどういう風に見せたいんだろう」とか「はよ煙草吸いたいな」というようなことを考えている。

そうして撮られた写真は「僕が見聞きして掴んだ被写体の像」だ。そこには「記録」以上のものがあると思うし、写っているのは被写体自身が知り得ない可能性を孕んだ人物だ。

「記録」と「表現」のバランスが絶妙に均衡している。

ここまで書いて、「いや、自撮りだって加工したり、自分を綺麗に見せる角度探したりするから。それって表現じゃね?」と思う逆張りギャルもいるだろう。いるかもしれない。

それこそが今回の記事のミソ。「承認欲求」の正体。

「記録」するだけなら目をデカくする必要性はないし体を細く見せる必要もない。なのにどうして加工するのか。「可愛い」「綺麗」と思われたいからに決まってるだろと僕の中の逆張りギャルは言う。確かに然り。

SNSでいいねいっぱい貰えたら嬉しいね。

そんな論点が生まれるのは自己認識の歪みが原因じゃないか。「こう加工してこの角度で見られるのが自分だ」という風に歪みが生じる。鏡で見た自分と写真の自分が違うと眉を顰めてしまう時のように。

承認欲求に飲まれるなよ。この言葉は記録と表現のバランスを守り、求められるものを提供しなければいけない自分への警句。

逆に自撮りする人間は承認欲求に飲み込まれ続けていて欲しい。世の中も多分かわいい女の子やイケメンの写真を求めていると思うし。




全く関係ないラーメンの写真です。美味しそう。


ここまで書いた後で調べてたらマズローの欲求五段階層説にやっと至った。先行研究あるやんけ……。

マズローが生きてたらインスタでバチバチの自撮りあげてる女見て「おもしれー女……」ってツイートしてて欲しい。

今回はここまで。ほな。

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