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キミという存在は伏線のカタマリ

「あー、なるほどそういうことか!」と叫びたくなる瞬間がある。
例えば、よくできた物語の伏線が回収された時。全ての時空間がそこに凝縮され、あたかもその一瞬のために全宇宙が存在するかのような錯覚を感じる。
人生にも時々、そういう瞬間がある。あたかもその一瞬のために自分の全人生が意味づけられるような、そんな錯覚を感じる瞬間。

仏教には「縁起の理法」という言葉がある。「原因があれば結果がある」、そういう単純な説明の仕方がされるけど、僕はどうにもその説明に納得がいかない。例えばカミュの『異邦人』では、主人公は殺人の理由を問われて「太陽のせい」だとこたえた。合理主義者は笑うかもしれないが、僕はこの言葉に真実を見出す。人間の人生には合理的な「原因」の説明が不可能な瞬間がたくさんある。でも、合理的な「原因」を超えて、説明不可能な「伏線」が存在することを心の奥で感じる。そして伏線が存在する時、それは必ず回収される。その「伏線は必ず回収される」法則のことを、僕は「縁起の理法」だと解釈している。

そして、もっと言えば、その「伏線」そのものが、この世界の全てを織りなしていると思っている。言うなれば、伏線によって編まれた絨毯がこの世界で、その中の模様が私。そして、もちろん私という存在そのものが、「伏線」のカタマリだ。

この世界、なんていう壮大な話を持ち出すと、素粒子物理学の難解な理論を持ち出す必要があるのかなんて思うかもしれないけど、この「伏線」感覚とそれによって編まれる存在の宇宙は、進化した類人猿の社会心理的相互作用の間に生まれる形なきものであって、物理宇宙から見れば実体なき儚い夢のようなものに過ぎない。ところが実際には、その儚い夢の中には永遠がある。予想に反して、「永遠」なんていうものはどこにでもある。別に望遠鏡の中を覗き込まなくたっていい、そこら辺に転がっている石ころの中にも見つかる。問題は人間がその永遠を感じ取れるかどうかだ。

僕は最近になって気づいたが、現象学者たちがさまざまな言葉で説明してきたように、どうやら僕たちが普段暮らしているこの世界は「リアリティ」と呼ぶべき特異な時空間であって、科学が探究の対象とするような物理的宇宙と似たようで全く異なるものだ。言うなれば「リアリティ」とは物理的宇宙に張り付いたオブラートのようなものだ。僕たちの生物的肉体は物理的宇宙に棲んで代謝プロセスに勤しんでいるが、それをコントロールしている(つもりになっている)精神は、この「リアリティ」の中に棲んでいる。これが顕著に現れるのが、夢を見ているときで、誰しも夢の中のものに「リアリティ」を見出す。つまり「リアリティ」なんていうものは物理的実体を必要としない。

「現実が夢で、夢が現実」という言葉がある。僕はこの言葉がいまいち腑に落ちていなかった。夢を見ているとき、人は時間感覚を失う。と同時に「自分」という感覚を失ってただ経験の海を漂っている。そこにはストーリーがあるし、生々しい感覚("sensation"という単語がしっくりくる)があるし、時系列がある。だが、「僕」はそこにはいない。そんな夢が、現実と同じはずがないと思っていた。

「間主観」という言葉に、その謎を解く鍵があった。間主観とは、主観と客観の間を指す言葉で、現象学者が好んで用いる。だがこの言葉がどんな認識を表すのか、いまいち僕はわかっていなかった。だが、「主観」が溶けてバラバラになり、それがまた再編成される経験をして、ようやくその意味がわかった。「私」が「私」を自覚しているこの「主観」そのものが、実は無数の「間主観」によって織りなされていることに気づくと、もはや夢と現実の本質的な違いは存在しなかった。

ある人間が見る「主観的な」夢は、間主観が経験する/織りなしている「リアリティ」のあるときは動的な再編成であり、あるときは予知でもあるが、それは「リアリティ」の異なる編まれ方に過ぎない。「リアリティ」を編んでいる糸は「伏線」という糸だから、その中に過去と未来が凝縮されている。過去と未来があるから伏線があるのではなく、伏線そのもののあり方が「過去」と「未来」という概念を要請する。だから伏線によって織りなされているこの世界も、必然的に「過去」と「未来」の感覚を伴って経験される。

あるいは、言葉を変えるとすれば、夢と現実は「リアリティ」というゲームの異なる遊び方にすぎない。同じトランプやサイコロを使っても、無数の遊び方があるように、この宇宙に存在する無限の感覚と経験の集合体には、無数の遊び方がある。私たちが通常「現実」と呼ぶこの世界は、数十億人の人類が「同期」してリアリティを共有しているという点に特徴づけられるが、それが「唯一絶対」であるという普遍視はできない。なぜなら、その「数十億人の個性を持った人間たち」というもの自体が、単一の「リアリティ」の糸によって織りなされた伏線のカタマリたちであるからだ。

一人の人間がトランプを前にして、「遊びましょ」と言う。するとその人間が2人に分裂して七並べを始める。いつの間にか4人に分裂してポーカーを始める。退屈になったら100人に分裂してもっと複雑なゲームを始める。分裂を繰り返すうちに、分裂そのものの記憶が薄れ、あたかもその分裂した個性同士の間で共有される経験が、自分の外部に自律的に存在する「リアリティ」であるかのような錯覚が強化されていく。一人が分裂して二人になる、なんて言うと奇妙に聞こえるかもしれないが、この「私」と「私たち」という意識の奇妙さの中にしか、存在の謎を解く鍵はないように感じる。

世界の全てはキミという存在の伏線だし、キミの全存在が、来るべき世界の伏線。この一瞬のために全宇宙が存在するような毎秒毎秒を、僕たちは生きている。

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