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九鬼周造が生きていたら、「ラップ」に真の文学を見出すだろうと考える理由。
ラップというと、どちらかというとアンダーグラウンドなイメージがあるかもしれないが、哲学者九鬼周造の文章を読んでいると、どうも彼が求めている文学像は本来の「ラップ」に極めて近いものみたいに感じられる。
ラップの特徴は、何といっても「韻」であり、そしてそれが単に活字として印刷されるのではなく、ラッパーによって「朗読」(※1)されて音楽に乗ることがポイントである。
「韻」には、言葉の頭で韻を踏む「頭韻」や言葉の最後で韻を踏む「脚韻」などさまざまな種類があるが、要は言葉のリズムが似た単語を特定の箇所に配置することで、響きの心地よさを作り出すことだ。
普通は、「ただの言葉遊びの一種」として片付けられてしまう。
でもこれに異議を唱えるのが、『「いき」の構造』で知られる哲学者の九鬼周造。ベルクソンやハイデガーとマブダチであり、サルトルを家庭教師に雇っていたという怪物だ。
私は最近、日本随一の技術を誇るあるラッパーのもとでラップ制作体験をさせてもらったのだが、その際に驚いたのが、「言葉の意味よりも言葉の響きから発想する」というその作詞スタイルだった。
韻を踏むことに意識を集中して、そこから「自然と流れてくる」言葉のフローに従うのだ。そうすると、理性的な頭脳ではなく、自らの内奥の中にある神秘が流れ出してくる感覚を味わえる。そしてこのスタイルこそ、九鬼周造が「文学の形而上学」の中で熱く語っていた本当の詩作のあり方でもある。
言葉というものはその本質からして、「偶然」に満ち溢れている。
どうして犬を犬と呼ぶのか? ものの名付け方は恣意的だ。
どうして「犬」と「死ぬ」の響きが似ているのか? 偶然だ。両者の間に、理性的な繋がりは存在しない。
「九鬼」と「クッキー」、確かに響きは似ているけれど、何のつながりもない。だからこそ笑いのネタになる。実際に九鬼周造はこのダジャレをカフェの店員に向かって発動してスベッている。
〈給仕の少女に紅茶とビスケットを注文するとビスケットってクッキーのことですかと聞き返された。
「クキはここにある。クッキーならこちらからあげるよ」
と駄洒落を言って笑ってみたが、少女は怪訝な顔をしているし、私は自分たちの用いる言葉が古くなってしまったのかと感じて一抹の淋しさを味わされた〉
この偶然の連鎖に身を委ねる行為、それが「韻を踏む」という行為だ。
別の言い方をすれば、言葉には二つのレイヤーがある。「音としての言葉」と、「意味内容としての言葉」だ。言語学的に言うと、「シニフィアン」と「シニフィエ」。普通は後者が重要で、前者はそれを伝えるためのただの道具。でも、九鬼はそこに「世界を解体させる力」を読み取る。
九鬼は(中略)、「音としての言葉」というものが、(中略)「意味内容としての言葉」が形作っている表層の世界を解体させる働きがあることを指摘している。
まず九鬼は押韻というものが人間を〈自己〉という概念から解放させるものであるとする。(中略)押韻詩というものは、個人の感情を超克したところに成立するものである。「現実に即して感情の主観に生きようとする自由詩と、現実の合理的彫刻に自由の詩境を求めようとする律格詩とは、詩の二つの行き方として永久に対せきするもの」なのである。
この発想は南米の作家であるオクタビオ・パスも提示している。彼によれば散文の言語行為は「歩行」であるのに対し、詩の言語行為は「ダンス」だ。ちなみに九鬼もダンスが好きだった。「運命よ、私はお前と踊るのだ。」という彼の言葉に、この発想が凝縮されている。
「言葉」というものが私たちが普段生きている「現実」の忠実な比喩だとすると、(九鬼はこれを冗談抜きでマジで考えていたからこそ「文学」そのものを「形而上学」と位置付けたのだが)、私たちの生きている「現実」そのものにも、この二つのレイヤーに対応する側面があるはずだ。そして後者のレイヤーに参入することこそが、文学の本当の目的なのである。
現実に住むことを好むものは現実に住めばいい。ただしかし、現実を超越した純美と自由に憧れるものには律と韻の世界に逍遥することが許されている。
九鬼周造は、文学、特に詩作の中に「永遠の今」を垣間見させる技法を見つけた。彼にとって小説は過去、戯曲は未来であり、詩だけが「現在」=つまり「永遠の今」(今時の言葉で言うと「今ここ」)を指し示す。そして、詩を通してこの「永遠の今」を垣間見る瞬間のことを、彼は「垂直的脱自」と呼んだ。
この偶然性の問題と言葉の恣意性の問題との関わり、偶然性を取り巻く「運」の問題、「運」を取り巻く倫理的問題などについて、考えたいことは山ほどあるが、とりあえずここで筆をおこう。
※1「絶対の書物」を志した伝説の文学者ステファヌ・マラルメが、死ぬまで架空の理想の「朗読会」の構想を練り続けたことを考えると、「朗読」という言葉の深さを侮ってはいけない。