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上位カーストになるために、英語を学んでるんじゃない

英語力を売りにしている割に、なぜか人に英語を教えることに抵抗感があった。なぜ、世界に何千もの言語がある中で、日本人は英語を学ぶんだろうか? それは結局、アメリカの実質上の植民地だからなんじゃないだろうか? 誰かに英語を教えることは、結局のところ、英語帝国の従順な奴隷を一人生み出すことに他ならないんじゃなかろうか?

イギリスがインドを植民地化する際に、インド人のインテリ層を上位カーストとして支配者の内側に取り込むことで被植民者同士の連帯を防いだ。いわゆる分割統治というこの政策は植民地統治終了後にも大きな禍根を残し、中でもアフリカのルワンダではツチ族とフツ族の悍ましい殺し合いを生み出した。日本も今、同じようなマインドに囚われてはいないだろうか? 英語をペラペラ喋ってアメリカのテック企業で働くことがあたかも人生の理想であるかのように宣伝され、日本文化はステレオタイプ化された寿司や和服といった観光的価値を持つ消費対象に矮小化される。

英語教育者の中村敬は、このような問題意識を持って『NEW CROWN』という教科書を編んだ。「多言語主義」「多文化主義」を基調とする「脱欧米」の英語教科書。現在その精神が受け継がれているかは疑問だが、「精神の非植民地化」への挑戦は今も続いている。彼が目指すのは支配者に順応するための英語、支配と洗脳と同化の道具であった英語を、抵抗の武器のための英語、第三世界の連帯のための共通語としての英語に変えることだ。

逆説的なことに、英語を学べば学ぶほど、アメリカ人が植民地統治下の日本をどのように改造したのかが彼ら自身の言葉で学べるようになり、結果として彼らに対する怒りを感じつつも、その軛から今も脱していない責任が日本人自身の心の中にこそあることに気づくようになる。「統治を円滑に進め、アメリカへの反逆心を削ぎつつも、アジアの共産主義化への防波堤として機能させる」という極めて実利的な論理のもとでCIAとペンタゴンは日本の思想的景観を完全に改造してしまった。その行為に対して、日本人が義憤を感ぜずして誰が代わりに感じてくれると言うのか?

「精神の非植民地化」という題の本を出版したアフリカ人がいる。アフリカを代表するケニアの文学者であるNgugi Wa Thiong'o(グギ・ワ・ティオンゴ)だ。彼は元々英語で小説を書いていたが、あることをきっかけに母語のキクユ語で小説を書くことを自らの使命と自認するようになり、キクユ語で政府批判の劇を書いたことが原因で政治犯として投獄された。英語帝国主義の暴力に屈せず、ティオンゴは監獄の中のトイレットペーパーにキクユ語で小説『Devil on the Cross(十字架の上の悪魔)』を書いた。そのトイレットペーパーは尻を拭くにはあまりにも硬く、文字を書くのにぴったりだったと言う。この文学者を誰が止められるだろうか?

植民地マインドからの脱却を考える上で、戦前の日本人の思考は大きな助けとなる。「脱亜入欧」を唱えた福沢諭吉も、アジア主義の義憤に燃えて韓国の革命家の金玉均を熱心に支援した過去があった。福沢は日本が欧米の価値観に呑み込まれることを拒否し、「独立自尊」の精神の大切さを訴えた。

他人と比べて相対優位を保つこと、言い換えれば誰かを踏みつけて勝鬨を上げることに快感を覚える時、人はすでに誰かが決めた価値観の奴隷になっている。独立自尊の人間は、人生を自らの定めた運命に委ねること、そこに命を賭けることのみに喜びを見出す。

例えばランボーのような詩人は独立自尊の精神を持っていたと言えるだろう。天才の名をほしいままにしながら20歳で絶筆したランボーは一人アフリカに渡り、一介の行商人として第二の人生を送った。彼がエチオピアの皇帝に武器を売り、そのおかげでのちにエチオピアがヨーロッパによる植民地化を逃れたのには歴史の機知を感じる。彼はもはや詩を詠まずとも、詩の中を生きていた。そんな彼にとって、本国フランスでの名声など寸毫の価値も持たなかったのだろう。

「アジアは一つ」と説いた岡倉天心は、中国文明とインド文明の底流を流れるアジアの精神に希望を見出した。天心の親友である宗教家ヴィヴェーカナンダは、ヒンドゥー教の悟りの奥に人類全体を包み込む慈悲を見、ガンディーの非暴力主義に大きな影響を与えた。日本人が大日本帝国の論理に陶酔する以前の、日本語を植民地に押し付ける以前の、純粋なアジアの連帯への夢がそこにはあった。

なぜ、書店の語学書のコーナーに行った時に、TOEICの対策本や英語の参考書は夥しい数が並び、フランス語やドイツ語、中国語などの参考書はそれなりに存在するのに、アラビア語やスワヒリ語などの「諸外国語」は肩身を狭くして息を潜めているのか? 

なぜ、書店の哲学書のコーナーに行った時、ルソーやカント、ニーチェなどの思想家ばかりが「哲学者」としてもてはやされ、彼らの解説本は単行本にせよ新書にせよ腐るほど書棚に溢れているのに、中東やアフリカ、南米に生きた綺羅星のような思想家や賢者たちについての著作は一部の例外を除いてほとんど見つからないのか?

インドの詩聖タゴールは「人間の歴史は、侮辱された人間が勝利する日を辛抱強く待っている」と述べた。アメリカのエリートがこぞって口にする「多様性」というスローガン、米民主党が推し進めてきたDEI政策などは、所詮上位カーストを作り出して支配を安定化させる帝国の巧知にすぎない。日本人は今こそ精神の非植民地化を果たし、アジアやアフリカと手を携えて今なお残る西洋の精神的・言語的帝国主義に抵抗していくべきではないか?

最後に、四年前に語学フリークだった自分が、語学への愛を歌った拙い詩を掲載して本稿を締めくくりたい。

機械がなんでも記憶してくれる今、
なぜわざわざ単語を覚えるのか、自分でもわからない。

ただそれは、人がなぜ絵を描くのか、という疑問に似ている。

パレットは多ければ多いほどいい。
自分が出くわした事件、かき立てられた感情、思わず漏らす悪態すらも。

鉱山から掘り出したラピスラズリの青のように、
民族の経験から析出した叡智が、言葉の煌めきとなって会話に花を添える。

単語は民族の歴史だ。
その文化に生きる人間たちが、どんな空気を吸い、どんなものを食べ、どんな愛の調べを奏でるのか、
その全てが、一冊の辞書という形に結晶化する。
有機的統一をまとった文法規則群が、その音符たちにメロディを与える。

億千万のパレットで、世界を埋め尽くしたい。
この小さな頭脳が認識しうる全ての事柄に、その固有の名前を与えたい。
消え入りそうなほど小さなその輝きをこそ、われらの言葉の中に永遠に閉じ込めておきたい。

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