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現代思想と現代数学から、日本の「和歌」を見つめ直してみた

詩とか和歌って、単なる個人の感情を表現するための手段としか思われてない節があるんだけど、バカにしてはいけない。
むしろ、現代思想と現代数学は、その極限において結局「和歌」という概念に収束していくということも可能なのでは?

古代への憧憬:ニーチェと本居宣長、畜群のためのキリスト教道徳と「漢意」

現代思想の源流であるニーチェとハイデガーの思想は、どちらも「ギリシアへの憧憬」に立脚している。

彼らは、存在が無垢な形態であった古代ギリシアを理想視し、一方でソクラテス(パルメニデス)以降の哲学や、その存在論と密接に絡みついたキリスト教道徳を否定的に捉える。

その「存在論の解体」(デリダ流に言えば「脱構築」)の作業は、古代から現代に至るまでの文献を解剖学的に精査するというアプローチによって行われる。

目を転じると、日本でも江戸時代に全く同じような試みがなされていたことに気づく。

国学の源流である賀茂真淵と本居宣長の思想は、どちらも「万葉・古事記への憧憬」に立脚している。

彼らは、人々が和歌の中に精神的生命を見出していた古代日本を理想視し、一方で「漢意(からごころ)」、すなわち中国から輸入された儒教・朱子学的な感性を徹底的に批判した。

ここで言われる「漢意(からごころ)」とは、日本古来の自由闊達な「和」の精神を束縛し権力の奴隷と化す儒教道徳を指していると言っていいだろう。

「石平氏による好著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』を読むと、「論語」に説かれた孔子の本来の精神が、いかに捻じ曲げられて「儒教」という支配の正当化の論理に成り下がったのかが良くわかる。彼曰く、「中国人は儒教に権力を求め、日本人は愛を求めた。」つまり同じ孔子の教えであっても、論語と儒教は全く別物だということである。

全く同じ構図が、ヨーロッパでも当てはまる。ニーチェが批判したキリスト教道徳とは、イエス・キリストの本来の教えを、キリスト教会が支配の道具として捻じ曲げた結果生まれたものに他ならない。彼の批判の矛先はキリスト本人ではなく、彼の言葉を権力の道具へと変貌させたキリスト教会に向けられているのだ。

共通点は他にもある。

・古事記は極めてディオニュソス的である。

・賀茂真淵が「たをやめぶり」(技巧に満ちた女性的な弱々しい歌風)に対して「ますらをぶり」(心情を率直に歌い上げる、男性的でおおらかな歌風)を優遇したことは、ニーチェが女性蔑視とも受け取れる発言を繰り返して「超人思想」というマッチョイズムとも受け取れる思想を説いたこととも合致する。

などなど。

本居らの思想は「国学」という形で早くから熱狂的に受け入れられ、朱子学的な上下関係に支配された江戸時代から脱却して明治維新が勃興する引き金となった。一方、周囲の理解を得られず狂人として生涯を終えたニーチェとハイデガーの思想はナチスと接近し、結果的にドイツをナショナリズムの悲劇へと向かわせる結果となった。どちらも古代への回帰とナショナリズムの復興という点では共通しているが、受け入れられた時期の早さと政治的結末が異なる。(もちろん、第二次世界大戦期の日本のファシズムを、国学の思想に安易に絡めて論じることはできるかもしれないが)

要は、この頃のドイツの思想と日本の思想は極めて類似しており、どちらもその理想は「古代」の「詩」=「和歌」に向かっている。

数学者が和歌を愛するのはなぜ?

日本において和歌を好む種族のかなりの割合を占めるのは、実は数学者、特に恐ろしく抽象的な代数を扱う数学者だ。

岡潔がその代表例だが、代数幾何学の立役者である当時の数学者たちは、日本人と外国人の区別を問わず、詩作や和歌を愛した。また、グロタンディークが書いた「収穫と蒔いた種と」は、文学者と見紛うほど美しい詩的文章で綴られている。

これを単なる偶然や「当時の流行り」と見なすこともできるが、彼らの言葉を辿ると、むしろ和歌や詩作こそが、彼らの抽象代数学のインスピレーションの源泉であったことに気付かされる。

ここで私は、「現代数学」と「和歌」のつながりに目を向けたい。

「語り得ぬもの」を語りうる言葉としての「詩」

哲学者ウィトゲンシュタインの「論理空間」は、集合的な数学観に立脚しているが、当時の彼がもし集合を超えた概念である「層」の概念を知っていたら、もしかしたら別の結論を引き出していたかもしれない。

彼は論理的に把握できる真理の領域があまりにも小さいことを悟り、語り得ぬことについて沈黙することを説いた。もちろん、「論理哲学論考」におけるその結語は、後期ウィトゲンシュタインにおいて「言語ゲーム」理論によって覆されることになったが、論理に対する諦めという彼の思想的基調は変わっていない。

では、論理において語り得ぬものを、語るための手段は存在するのだろうか?

ハイデガーは『存在と時間』の執筆を断念した後、奇しくもヘルダーリンの詩の研究に没頭することになる。彼が、通常の論理においては「語り得ない」ものを語る方法を、詩という言語体験の中に見出していたことを推測することは、あながち間違いではなさそうだ。

論理哲学:「集合」 ↔︎ 論理を超えた詩作:「層」

「層(シーフ)」とは、20世紀中盤における代数幾何学で登場した概念であり、それまでの集合概念に変わって、空間の秘められた構造を解析するための強力なツールである。

この理論を学んでいると、不思議と「詩」を思い出す。まず、層の概念の構築に使われている「圏論」の言語の特徴をなす「関手」という概念が、詩における「比喩」の概念と構造的に類似している。(圏論についての細かい話は、いろいろな場所で述べられているので、ここでは省略する。)

関手の図示

次に、「集合」から「層」への関心の重点の移動が、「個々の単語とそのネットワーク(位相)を中心とする論理的言語観」から、「メタファーとメタファーが動的に交流し合う場としての詩的言語観」へのシフトに対応しているように感じられる。(この点についてはまだ直感的な説明しかできないが、認知言語学における「概念メタファー理論」を基盤にもうちょっとちゃんとした言葉に落とし込んでいきたいと考えている。)

ウィトゲンシュタインが生きた時代の主流だった集合論が行き詰まりを見せ、そこから層のコホモロジーに注目することで全く新たな次元から数学の問題を解決できるようになった流れが、論理空間において表現・認知不可能な真理や感覚が、詩というメタファー空間によって表現可能になるという流れと対応しているように私には思われてならない。(もちろん、ただの思い違いかもしれない。)

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