自然言語の多義性が持つパワーについて。
言葉そのものを疑うことで、本当の思考が始まる。
しかし、言葉はその「多義性」によって、真実の生命を得る。
本当の詩人は、多義性を操ることで言語の限界を軽々と超えていく。
本記事は、以下の本に刺激を受けた筆者の主観的な感想である。
すべてはガロアから始まった。
「五次方程式の解の公式は存在するのか?」という存在論的な問いに対して、彼は、解そのものの背後に自明視されていた「数体」すなわち「代数構造が規定する空間」の暗示的支配を見抜き、数学のあり方そのものを転倒させた。
この転倒こそ、真理を表現するための「言葉」を疑う第一歩だった。
「我々は自らが道具として自明視しているこの言葉そのものの檻の中、すなわち論理空間の構造に囚われているのではないか?」
現代哲学者の苦悶が始まった。ガロアの群論から、フロイトによる無意識の発見、フレーゲに始まる分析哲学の興隆を経て20世紀後半の構造主義につながる流れは、すべてこの一本の懐疑の糸で繋がっているように思える。
だが、我々はいまだに、自分自身が使っている「自然言語」の本当の力に、気づいていないのではないか?
「完璧な人工言語」を想定する論理学者は、自然言語を「進化の残骸の集積」として嘲笑うかもしれない。だが、その中に圧縮された「叡智」は、彼らの見えていない領域に沈潜している。
自然言語の本当の力は、その「多義性」にある。どの自然言語を取っても、同音異義語が本質的な役割を担っている。その単語が、その音素の組み合わせによって表現されるのは、決して偶然や妥協の産物ではない。むしろ、その偶然に見える結合の中にこそ、その民族が歩んできた数千年の叡智が詰まっているのだ。
「とく」→「解く、溶く、説く」といったように、ある音素の結合が複数の意味を持ってしまう事実は、あたかも2の平方根が±√2になって分裂してしまうかのような気味の悪さを抱かせる。しかし、この分裂こそが、数学者リーマンをして「リーマン面」と言う新しい空間概念を創造させた。
言うなれば、我々の言語を用いた指示行為は常に、「多価関数」である。平面上の 1 つの点が 平面上の 2 つまたはそれより多くの点に対応するように、音素集合内の1つの点は常に、指示対象集合上の2つまたはそれより多くの点に対応する。ソシュールが言うような「記号対立的言語観」(記号の差異によって意味の差異を認識する言語観)は、このたった一つの事例でも容易に崩壊する。
自動車の警笛はたった一つの同じ音で、場面が異なれば色々の異なった意味を伝えうる。この意味で、言語の「音」とは、意味という値づけ以前の「象徴」であり、我々は脳内で表象された「意味」の背後に、この「音」が象徴する無数のささやきを感じ取っているのだ。
詩人が操るのは、単なる視覚的イメージの連鎖や連想ゲームの類ではない。意味重視の言語観のなかで軽んじられている「音素」の中にこそ、詩人が美しい詩を生み出す本当の原因がある。そして、絵画や音楽を超えて「詩」という芸術表現だけに与えられた、人間の認識を根本的に揺さぶるパワーを、私はそこにこそ見出す。
天才詩人ランボーの詩「母音」の中にも、彼が「音」の奥に見出していたイマジネーションの威力を感じられる。これは単なる脳内の「共感覚」現象として論じられるだけでは足りない。詩は言語を直接その素材として用いることによって、我々の論理空間そのものに揺さぶりをかけ、意味づけ以前の象徴的次元に私たちを連れ去る。
和歌や詩は、その「多義性」を用いた多重奏によって、その方法以外では伝えようのない情報を我々に伝達する。この情報は、意味空間の間の写像のみを使用する種類の「翻訳」によっては保持し得ない情報だ。
国語辞典に入る程度の有限の音素からなる集合(音の近さによる位相が入っている)があり、そこから同じく国語辞典に入る程度の有限の意味からなる集合(意味の近さや使用状況の類似による位相が入っている)に向かって多価関数が伸びている。この圏を用いて我々は現実を認識する。
論理学者が無視するのは前者の領域だ。音などは偶然の結びつきに過ぎないと断じる。だが実際には、この両者の結びつきそのものが我々の認識を規定している。
「時が流れる」というときに我々が無意識に時を川とみなし、「進路を考えなきゃ」というときに我々が無意識に人生を旅とみなしていること、そしてそれ以外の方法では我々の自然な認識は生じ得ないことからもわかるように、メタファー無くして我々はあらゆる抽象認識をすることができない。そしてメタファーの奥底に横たわる代数構造こそ、この「多義性」である。
多義性を操るとき、私たちは「言語の詩的使用」モードにアクセスする。そして私たちは日常生活の中で、無意識にこの多義性を統御している。というより、多義語についての研究書を紐解けばわかるように、この「多義性」なくしては、実は私たちは何も認識することができない。
多義語は私たちの認識を織りなす基本繊維のようなものである。それは緻密に絡み合って私たちの論理空間を織りなす。ここから「すべてが何がしかの比喩である」という感覚が生まれる。この感覚に対して敏感になれば、すべてはデジャヴとして心に映る。日常を流れる通奏低音が、実は無数の和音によって織りなされる多重奏であることに気が付く。