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藤村生誕150周年記念 馬籠旅行記 ①藤村記念館編

小諸に行ったおよそ1週間後、馬籠にて開催されていた「島崎藤村生誕150年記念 第10回 中山道馬籠宿場まつり」に参加するべく、藤村生誕地でもある岐阜県中津川市の馬籠に行ってまいりました。
1泊2日と短めの旅程ではありましたが、初めての島崎藤村生誕地――ここで藤村が幼少期を過ごしたのだと思うと、街の隅々が藤村所縁の地であるという実感がジワジワ湧いてきて、小諸に勝るとも劣らない充実した時間を過ごすことができました……!

馬籠について

さて、今回の馬籠旅行についてお話する前に、簡単に馬籠と藤村の関係について説明してみようかと思います。既にご存知の方も多いかとは思いますが、馬籠は藤村の生まれ故郷であり、藤村の生家は馬籠宿にて代々本陣(江戸時代に参勤交代などで諸大名など身分の高い人が泊まるのに利用した家)・庄屋(地方三役の一つ、名主のこと)・問屋(「宿役人の上長として宿の運営に当たる責任者」)(*1)を兼ねていました。藤村の生家そのものは明治28年の大火にて消失してしまいました(*2)が、その跡地は現在「藤村記念館」として一般に公開されています。

藤村記念館についての詳細は後述しますが、さすが生誕地なだけあって資料の量も質も圧倒的でした。本当におすすめ……もうこれだけでも馬籠に行く価値がある……。

島崎家は元々相州三浦の家系でしたが、永禄元年(1558年)、木曽谷に移り住んだ島崎重通が馬籠島崎家および馬籠村を拓き(*3)、島崎家代々の菩提寺となった永昌寺を建てました(*4)。

明治14年、藤村は14歳年上の長兄・島崎秀雄さんに連れられて上京しています(*5)ので、藤村が馬籠で暮らしたのは幼少期の僅か9年間に過ぎず、この年に郷里を離れて以来彼自身が馬籠の地に定住することはありませんでした。しかし、藤村がこの故郷から受けた影響は大きく、代表作『夜明け前』がこの地に深く根差した物語であることは勿論、その他の様々な作品でも事あるごとに「山間地の北国生まれ」という彼のアイデンティティが強調されています。

人はいくつになつても子どもの時分に食べた物の味を忘れないやうに、自分の土地のことを忘れないものです。たとひどんな山の中でありましても。

島崎藤村『藤村少年読本』3の巻 より「ふるさと」

彼の粗く剛(こわ)い髪、大きな鼻、身体の割合に幅の広い肩なぞは、寒い山国の生れといふことを示して居る。

島崎藤村『春』
*ここでいう「彼」は作中における岸本捨吉のことで、島崎藤村自身がモデル

また、藤村の長男・島崎楠雄さんは藤村の勧めにより大正11年に馬籠にて農家としての暮らしを始めます。楠雄さんの馬籠行に際しては、藤村だけでなく次男・鶏二さんに三男・翁助さん、それから四女・柳子さんも同行してしばらく馬籠に滞在したそうです (*6)。この時に、藤村は当時既に亡くなっていた妻(冬子さん)と娘さんたち(長女~三女)の遺骨を永昌寺に埋葬しました。(*7)

馬籠は単に藤村の生誕地という以上に、藤村文学に大きな影響を与えた「島崎家」そのものと深い関わりがある土地で、藤村の死後も楠雄さんを中心に多くの方々のご尽力のもと、藤村に所縁のあるものが多く保存されています。

さて、そんな馬籠への行き方ですが、各地から出ている高速バスを利用するか、名古屋まで出てJR中央本線にて中津川駅へ、そこから馬籠行のバスを利用するのが便利かと思います。名古屋ー中津川間はおよそ1時間~1時間半ほど、中津川ー馬籠間は30分かからない程度の時間で着くようです。

高速バスは神坂パーキングエリアが発着場となっていまして、ここから馬籠宿までは歩いて15分ほどの距離があります。道の途中にある神坂小学校は、かつて明治時代に藤村が通った「神坂学校」の流れを汲む学校(*8)で、昭和3年に藤村が講演を行った「神坂村小学校」もこの学校のことではないかと思われます。

その日の午後は、木曽教育会南部小学校長会組織により、神坂村小学校において講演会が開かれた。その講演は父のそれであった。

島崎楠雄『父藤村の思い出と書簡』

先日伺った小諸の藤村所縁の旅館、中棚荘にて飾られていた「血につながるふるさと、心につながるふるさと、言葉につながるふるさと」という一節が登場したのも、昭和3年のこの講演だそうです(*8)。

ところで、上に引用した『父藤村の思い出と書簡』ですが、家庭における藤村の様子などが垣間見えるおすすめの一冊です。上述の講演について、楠雄さんいわく「私は父の講演を聞いて、冷や汗を流すような思いをした。余程講演半ばにして座を外そうとは思ったが、耐えた。それほど父は講演が不得手であった。」とのことで……

さ、散々な言われよう~~~~……!「耐えた」はもういっそ面白い……。
実際に藤村の講演がどの程度のものだったのかは分かりかねるのですが、ご子息にここまで言われる藤村の講演、逆にちょっと気になりますね……。

そんな神坂小学校を通り過ぎ、秋は紅葉が綺麗な道のりを歩いていくと石畳の敷かれた馬籠宿に辿り着きます。馬籠宿の入り口から少し入ったところには早速「島崎藤村生誕の地」の案内板が……!

馬籠宿入り口付近の案内板

いよいよ馬籠に来たんだ~~という実感がドッと湧いてきてワクワクしますね……!

注釈・出典

*1:伊東一夫編『島崎藤村事典』「問屋制度」「本陣制度」
*2:
昭和51年 愛蔵版『藤村全集』第17巻「藤村年譜」瀨沼茂樹編
ただし、『藤村文庫』第9巻「静の草屋」の年譜によれば馬籠の大火は明治27年であるとしてある。(後年に出ている他の年譜や資料を見る限り本陣焼失の大火は28年と思われるので、藤村の記憶違い……?)
*3:昭和51年 愛蔵版『藤村全集』第15巻「島崎氏年譜 一」「重通 永禄元年馬籠に住し砦を守る」とある
藤村記念館 久我山人編「藤村年譜」や伊東一夫編『島崎藤村事典』「馬籠」の項にも前述のものと同様の内容が書かれているが、財団法人藤村記念郷「島崎藤村生家の建築」には「永禄元年(1558年)、島崎家初代重綱、相州三浦より木曾谷に移り住む。木曽氏に仕え、馬籠村を拓く。」とあり、馬籠を拓いたのは重綱であるとされている。藤村記念館の「藤村年譜」によれば島崎重綱は重通の父。
*4:昭和51年 愛蔵版『藤村全集』第15巻「島崎氏年譜 一」の重通の項に「一宇建立、永昌寺殿昌屋常久禪定門」とある
*5:昭和51年 愛蔵版『藤村全集』第17巻「藤村年譜」瀨沼茂樹編
*6:島崎楠雄『父藤村の思い出と書簡』「馬籠の土を踏みつつ」
*7:『藤村文庫』第9巻「静の草屋」年譜
*8:昭和51年 愛蔵版『藤村全集』第17巻「藤村年譜」瀨沼茂樹編、および中津川市公式HP「学校の紹介」より「沿革」参照(https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/soshikikarasagasu/school/misaka_ps/1_1/1712.html)アクセス日:2022年12月26日
*9:伊東一夫編『島崎藤村事典』「馬籠」

藤村記念館

馬籠といえば、まずは藤村記念館……!
ということで、今回はこちらの記念館の感想から書いてみたいと思います。

島崎藤村宅(馬籠宿本陣)跡 藤村記念館

焼失を免れたものたち

前述のとおり、藤村の生家である「本陣」と呼ばれる建物の母屋は明治28年の火事にて消失してしまいましたが、幼少期の藤村が勉強部屋として使用していた祖母の隠居所やその付近の井戸など、一部の建物は(改修工事などはされていますが、基本的には)当時のまま残っています。

隠居所・藤村の勉強部屋(内部非公開)

味噌藏の階上(うへ)には住居(すまひ)に出來た二階がありました。そこがお前達の曾祖母(ひいおばあ)さんの隱居部屋になつて居ました。

島崎藤村『ふるさと』「三九 祖母(おばあ)さんの鍵」

父さんもその書院に寝ましたが、曾祖母(ひいおばあ)さんが獨りで寂しいといふ時には離れの隱居部屋へも泊りに行くことが有りました。

島崎藤村『ふるさと』「四一 お隣の人達」
*「父さん」は島崎藤村のこと
映像コーナー「ふるさとの部屋」と、その前に残る井戸
桶には島崎家の家紋(丸に三つ引き両紋)が描かれています

父さんのお家には井戸が掘つてありました。その井戸は柄杓で水の汲めるやうな浅い井戸ではありません。釣(つ)いても、釣(つ)いても、なかなか釣瓶(つるべ)の上(あが)つて來ないやうな、深い深い井戸でした。

島崎藤村『ふるさと』「七 水の話」

これらの隠居所や井戸、池など敷地内のものは藤村の著作の中でも度々言及されていまして、池や土蔵跡の傍にはそれらの作品を引用した立て札なども設置されています。

井戸の向かい、木小屋(現・藤村記念館第二文庫)にある池

木小屋の前には池があつて石垣の横に咲いて居る雪ノ下や、そこいらに遊んで居る蜂や蛙なぞが、父さんの遊びに行くのを待つて居ました。

島崎藤村『ふるさと』「一七 鳥獣もお友達」
『家』や『ふるさと』に登場する「ぼたん」とそれを紹介する立て札
度重なる大火を逃れ、春になると花を咲かせる

祖父(おぢい)さんの書院の前には、白い大きな花の咲く牡丹があり、古い松の樹もありました。

島崎藤村『ふるさと』「四一 お隣の人達」

記念堂や展示室内部は撮影禁止ですが、お庭や外観などは撮影OK(2022年11月時点)とのことでしたので、半分涙ぐみながら写真を撮って回りました……。

特に『ふるさと』の引用がされている看板などを見ると、本当にかつてここで、この場所で、幼い藤村が日々を過ごし遊んでいたんだ……という実感が湧いてきて感無量……展示室に入る前からもう泣いてる……既に供給が多い……すごい……

記念堂

記念館の構成としては、まず入り口から見て右手側に記念堂があり、現在は中庭となっている旧本陣跡から石段を下りると右手には井戸「ふるさとの部屋」、左手には藤村記念館第二文庫、更にその奥に第三文庫と、主にこれら4つの棟を見学することが可能です。(第一文庫は研究室と収蔵庫を兼ねているため一般には公開されていません)

まず記念堂ですが、ここは回廊のようになっていて、藤村の作品の抜粋や彼の写真などが並んでいます。

中庭の右手に見える記念堂

藤村の友人としてはお馴染みの有島生馬の筆による藤村作品などもここに掲げられていますが、個人的にちょっと面白かったのは佐藤春夫の筆による「初恋」の詩が展示されていたことでした。

藤村よりもひと世代ほど下る文豪・佐藤春夫ですが、二人の間にこれといった親交のなかったことは佐藤春夫自身が「わが追憶する藤村先生」にて「同時代に生まれながらも、さながら有るか無きかと思はれるほどのかすかな因縁」と述べている通りです。しかし、彼は同時に「自分は少年時代から藤村詩集の愛読者でその感化を多く蒙(こうむ)つてゐるであらう。自分は詩に於ては鴎外・寛両先生の外(ほか)に、藤村の入門しなかつた弟子であると自任してゐる。……昨年の暮、……岩波文庫の藤村詩抄を一読して敬意を新にした」とも述べており、詩人としての藤村を高く評価していました。

同随筆によれば、藤村からもらった名刺を大事に取っておいたり、機会があって藤村と20分ほど話した際の印象を「滋味と温さを感じさせる話ぶりに自分は多少藤村先生の心にふれたやうな気がした、話の内容ではないその静かな気分によつてであつた」と語っていたりと、春夫の友人である芥川龍之介や谷崎潤一郎らとは対照的に(*1)藤村に好印象を抱いていたようです。

まだ読めていないのですが、佐藤春夫は「詩人島崎藤村評伝」というものも書いていまして、確か『定本 佐藤春夫全集』の23巻に収録されていたはず……。全集の類、大体ちょっと大きめの図書館や大学図書館なんかに行けば所蔵していることが多いので近々読んでみたいですね……。

ともかく、記念堂に展示されていた佐藤春夫揮毫の「初恋」の詩には、そんな佐藤春夫の詩人・藤村に対する敬愛の念が表れているように思われます。その関係が(花袋や秋聲、透谷、有島生馬などに比べて)メジャーなものというわけではない分、藤村の詩が後進の文学者達に与えた影響を示す面白い展示だな~~と思って楽しい気持ちになりました。

その他にも中村不折の画や、東北学院に勤めていた頃、初めて背広を作った時の藤村の写真なんかもあってとても良かったです……東北学院時代、大変若々しい島崎先生だ……。

中村不折といえば漱石『吾輩は猫である』の挿絵を描いたことで有名ですが、藤村の『若菜集』『一葉舟』『落梅集』の装丁なども手掛けていますね……!

古い所では、一番初め『若菜集』を出した時は中村不折君が、骨を折つて描いて呉れた。自分でも注文もしたが、不折君の自分の考へも入れて描かうと、朝なんぞ写生に出掛けて呉れたりした。中村さんの装釘は『若菜集』で、大分知られて来た様な形も有つた。中村さんは自分で挿絵も描いたが、その時分「日本新聞」にも描いて居たかと思ふが、本の装釘は私の詩集の処女作が、初めてで、不折君も処女作で有つたらうと思ふ。
『一葉舟』を次に出した、詩と散文を集めた物であれも中村さんに頼んだ、字なんぞも自分で書いて呉れた。
……
『落梅集』は、中村さんにお願ひして、矢張骨折つて、古い瓦に梅の花をあしらつた、表紙でした。

島崎藤村「装釘に就て 『春』と『家』及び其他」

不折の挿絵、簡素ながら品と味わいがあって藤村文学との親和性が高い……とても好きです……余白の使い方が良い~~~~……
挿絵の鑑賞としては少々見づらい部分もありますが、国立国会図書館のデジタルコレクションで詩集の初版本など読めますので是非こちらもご活用ください……!

『若菜集』

『一葉舟』

『落梅集』

『若菜集』『落梅集』に関しては初版復刻が出ているので、そちらを手に取ってみるのもおすすめです。『一葉舟』『夏草』も出ないかな……

ふるさとの部屋

隠居所の脇を通り石段を下りてすぐ右手は、件の井戸「ふるさとの部屋」になっています。部屋の名前は藤村の童話『ふるさと』から取ったもののようで、「藤村童話をイメージした部屋、ビデオ室」(*2)だそうです。こちらのお部屋は、展示室というより映像を通じて藤村を紹介するコーナーという雰囲気でした!

部屋の中には記念館で販売している図録や資料集なども置いてあり、手に取って読めるのが嬉しいですね。ここでさ~っと目を通してみて、気になったものを後で買える……!!!最高~~~~

室内には現代の童話なども置いてあったので、お子様連れの方もゆっくり休めるかもしれません……!

第二文庫

さて!
本格的な展示室としてはこの第二文庫と次にご紹介する第三文庫が本番です。第二文庫は主に企画展示室として使われていまして、前述の池の前に位置し、火事の前は「木小屋」があった場所だそうです。

爺やはその木を背負つたり、松葉を背負つたりして、お家の木小屋の方へ歸つて來るのでした。……
 ……爺やは山からかついで來た木をおとしました。木小屋のなかでそれを割りました。……
爺やは山から伐つて來た木を木小屋にしまつて置いて、焚つけにする松葉もしまつて置いて、要るだけづゝお家の爐邊へ運びました。

島崎藤村『ふるさと』「一一 庄吉爺さん」

文アルとのコラボでキャラクター等身大パネルが置いてあったのもこの第二文庫展示室内(パネル撮影可)でした。

文豪とアルケミストのとうそん とてもかわいい

こちらの展示室では全体的に藤村の来歴や作品などが満遍なく紹介されているという感じで、各作品の初版本や年譜などが並んでいました。雑誌『新小説』のアンケート企画に対する回答「雅号由来記」(明治30年初出)なども紹介されていました……!

蔭の深くして多きを好めるよりおぼつかなき花のかげのたゝずまひかりに名けて藤村といふは、たとへば庭草のしげれるほとり柄杓の水をまいても平気の平左面の皮あつかましきを名けて蛙といふにおなじこと、これを蛙といへばかしましくて花鳥の情に似ず蟋蟀の韻にあらず、これを藤村といへばふみのはやしのかたすみにありてわけもなきいたずらたゞたゞ大聲を發して君を驚かさんと思ふばかりにこそ

島崎藤村「雅号由来記」

「雅号由来記」というテーマで「雅号の由来を教えてね」というアンケート企画であるにもかかわらず、明確な由来らしい由来は答えていないところが藤村らしいですね……。

また、ここでは藤村の作品や彼の来歴のみに留まらず、仙台の名掛丁藤村広場の紹介や、藤村記念館設立50周年に贈られたという、当時の仙台市長・藤井黎さんによる藤村「草枕」の書が展示されていたりなど、各地の藤村所縁の地とのつながりを感じさせる内容となっていました。

小諸の中棚荘さんのラウンジに飾られていた島崎鶏二さん画「島崎藤村像」も、中棚荘新築の際に当時藤村記念館理事長を務めていらした島崎緑二さん(島崎楠雄さんのご子息・藤村の孫にあたる)協力のもと撮影・複製したものだそうで、様々な藤村所縁の地がこちらの馬籠藤村記念館を中心としてつながっているような印象を受けました。

第三文庫

最後は記念館最奥にある「藤村記念館第三文庫」です!

藤村記念館第三文庫入り口

入り口付近には来館記念スタンプも設置されていました!

第三文庫は他の展示スペースに比べて広く、展示資料の数も幅も圧倒的です……! 後で馬籠の方に「藤村記念館まで行っても、一番奥の第三文庫まで見てきてくれる人は少ない」というお話を伺ったのですが、何ならここが一番メインまであるので記念館まで来てここを見ないで帰るのは本当にマジでめちゃくちゃ勿体ない……是非堪能して行って欲しいところです……

壁一面に並んだ藤村の蔵書など中々圧巻で、文学にそこまで詳しくない方でもちょっと見てみれば雰囲気だけでも楽しめるんではないかな~~と思います……!

藤村が使用していた辞書の類や、愛蔵書の杜甫や李白、芭蕉の本も展示されていましたし、洋書もかなりの数が展示されていました! ものすごく当然なんですけどフランス語の本がたくさんあって、「藤村だ……!!!」という気持ちになりました。

藤村と蔵書といえば、後年の藤村の夫人、島崎静子さんの回想録にこんなエピソードがありました。

書棚を注意してみると、和、漢、洋の別かと思うと、そういう風に大別されているようだが、必ずしもそうばかりではない。時代別かと思うと、そういう箇所も見られるがこれもそうばかりではない。……
……枕元にゆくと、――あ、一寸すまないが本を一冊とって下さい。と主人が言った。北向きの廊下の書棚、下から何段目、右からいく冊目の本……。という声をつづいて聞いた。わたしは、ハッとした。ちょうどこの時、主人に指図された箇所は、書棚を整理する時に、最も乱雑に思われたところで、英書、和書、フランス語の書という風に並べられていて、それも、一見なんの連絡もないように思われたところであった。……これから後も、わたしは、たびたびおなじような経験をかさねた。主人の書棚には、夜でも燈火の必要がないことを、わたしはだんだん知るようになった。

島崎静子『落穂――藤村の思い出――』「書棚」

これは『夜明け前』執筆時代の出来事だそうですが、改めて記念館で蔵書を見たうえでこの回想を読んでみると、これだけの冊数があってよくその配置をこんなにも事細かに覚えていたな……と驚かされます。ざっくりどこに何があるか、何段目くらいまでは覚えていても「何冊目」というのはそうそう覚えられるものではないのでは……。

一見脈絡のない並べ方でも藤村にとっては何か意味のある並べ方であったというところにも行き届いたこだわりを感じます。藤村は何か事を計画するとき、しっかりと確認を取り入念に下準備を行う人という印象があるのですが(青年時代の東海道放浪のような衝動的なものは例外ですが――例外というか、むしろ普段の綿密さからの反動で、彼の言う通り「極端から極端」にしかいけない藤村の性質をよく表しているように思います)、この書棚についての静子さんの回想からは藤村のそうした几帳面さが伺えるように思います。

『夜明け前』の稿本も展示されていましたが、文庫本6冊分の原稿用紙は伊達じゃない……第一部、第二部合わせて400字詰め原稿用紙およそ2760枚が37冊の稿本としてまとめられ、特製の桐箱におさめられています。常々ものすごい文量だとは思っていましたが、実物を見ると圧倒されます。
写真でしか見たことなかった資料がたくさん並んでいる……すごい……

花袋や長谷川天渓らの賛同のもと出版した文芸入門の第1弾、『新片町より』など、メジャーな代表作以外の展示もあり大変見ごたえがありました。その他にも、藤村の御父上、『夜明け前』主人公のモデルとしても有名な島崎正樹さんの直筆資料や、藤村の同時代批評、手紙など、藤村周辺の人々に関する展示も豊富です。

展示写真の数も多くて、渡仏前に柳光亭(店の名前)にて馬場孤蝶や戸川秋骨、柳田国男らと撮った写真や、帰国後にご子息・ご息女と一緒の写真などなど……。あとは渡仏時に藤村が作ったアルバムなどなど、他の記念館では中々見られなさそうな私物の類も多くありました。この常設展示室には、藤村が最晩年を過ごした大磯の書斎なども再現されています。文豪の書斎再現本当に好き~~~~~~~……!!ありがとうございます……

馬籠の藤村記念館は、その設立にあたり藤村の長男・楠雄さんが多くの資料や遺品を寄贈してくださっていて、その所蔵資料数はおよそ6000点になるそうです。さすが生誕地&ご長男の暮らした地……

余談ですが、展示品に添えられている簡単な説明書きの字がとても綺麗で素敵でした……。あれってもしかして楠雄さんの字だったりします……?
次で紹介する資料の中にある「藤村年譜」(巻物式)が楠雄さんの手書きなのですが、それと筆跡が同じだったような気がして……全然違うかもしれないのであれなんですけど……とにかくとても素敵な字でした……

図録・資料など

さて、「ふるさとの部屋」の項でも少しご紹介した図録や資料の類ですが、馬籠の藤村記念館……関連資料の類めちゃくちゃたくさん売っています……!!!
近くにコンビニなどもないので、あらかじめ多めに現金を持っていくことをおすすめします!!! 私も馬籠に行く前日にTwitterにて相互の方から「資料めっちゃ売っている」という情報を得て、慌てて現金を用意しました。

藤村記念館で買った本は以下の写真の「『夜明け前』への招待」以外のものになります。(「『夜明け前』への招待」は次回紹介する槌馬屋資料館にて購入しました)

馬籠で買った藤村関連資料たち

手前の白い直方体が藤村年譜の入った箱です。包装紙に藤村の「ふるさとの言葉」と島崎家の家紋が書かれている……! しかもこの年譜は巻物式……すご……中を開けると、楠雄さんの字でみっちり藤村の来歴が書かれています。た、楽しい……

講演集と佐藤輔子さん(明治女学校教員時代の藤村の恋愛相手・『春』や『桜の実の熟する時』の勝子さん)の日記はまだ読めていないのですが、図録やら楠雄さんによる回想録やら大変面白くて本当におすすめです……。

図録は写真も豊富で多岐にわたる資料が掲載されていますし、楠雄さんの回想録は、穏やかな父としての「島崎春樹」を見るような気持ちがしました。交わされた手紙からは、藤村がいかにご子息のことを気にかけていたかということが感じられますし、「文豪として」以上にひとりの人間としての藤村の生活の様子が伺えます。

7冊で確か1万円前後とかだったかと……朗読CDとかもあったので次回はその辺も買いたいな~と思っています!!まだ行ったばっかりなのにもう既に次の馬籠旅行が楽しみで仕方ない……

そんなわけで、今回は藤村記念館のご紹介でした!
次回以降、永昌寺や四方木屋さんなど馬籠内にある藤村所縁の場所、槌馬屋資料館や清水屋資料館などその他の藤村関連資料館をご紹介していきます~!

注釈・出典

*1:芥川龍之介或阿呆の一生、谷崎潤一郎「文壇昔ばなし」
*2:
藤村記念館パンフレットより


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