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落空

もちろん全員嫌いだし今すぐ死にたいのだが、しかし事はそう簡単な話ではないのである。たとえば道行く人を無作為につかまえてアナタ死ぬのが怖いですかと問うたならば、常識的というか一般倫理的に考えて大抵の人間はハイ怖いですと答えるだろう。人間は死を恐れ忌む。これはもう生き物の本能なので当然と言えば当然なのだが、そういった本能的な部分を取り払い理性というか理屈で以て考えてみた時に――断っておくと俺はあの世とかおばけとか輪廻転生などといった所謂死後概念の類を一切合切全くこれっぽっちも信じていないので、そういうのは抜きにして、死んだ人間は無に還るというある種の単純な唯物論に即した前提のもとに話を進めさせてもらいます。あしからず――絶命への過程に伴う、傷病などによる直接的な苦痛を除けば、いったい如何なる要因が、人に死を忌避させるのか。別に深く掘り下げてるわけじゃないし完全な素人考えだけれども、俺は偏に「未練」の存在が故だと思う。人が死を恐れるのは、そこに未練があるからだ。当たり前と言えばあまりに当たり前だが、死ねば、生きてやりたいことができなくなる。叶えたい夢があって、共に歩みたい誰かがいて、捨てきれない何かや遺したい何かがあって、それが果たせなくなるから、当たり前に死を拒む。つまるところそれが世間一般における死にたくないンゴニキネキ達の主張なわけでしょう。もちろん分かります。御説御尤も。しかしそもそもの話をするならばこの時点でまず構造的な撞着というか破綻があるンゴねぇというのがワイ将の主張なわけです。だって考えてみるがいい。死ねば人は無に還る。すなわちお前の後ろ髪を引く未練も執着も後悔も何もかも、それを意識する自分ごと一緒くたに闇に溶けて消えるのだ。どれだけ恐れ、悔やみ、嘆き絶叫しようとも、畢竟、脳が活動を停止すればスイッチを落とすように全ては終わる。至極単純な道理である。これがどれだけ有難い事かっつー話ですよ。怖がる理由なんかそもそも無いし、怖がったところでどのみち意味も違いも無いんですよ。だって死ぬんだもん。死んでも死にきれないくらいの悔恨を抱えたそこのあなた、おつらいでしょう。何もない虚無の闇を恐れる気持ち、大いに結構。その悔いや恐れすら死は呑み込んでくれる。太っ腹な話ではないか。嘆くことなど何一つありゃしないのだ。さっきも書いたけど、というかもっと前の記事でも書いた気がするけど、俺は死後の世界を一切信じていない。見たことないから信じないとかいうレベルではなく、積極的にその存在を否定している。そんなもの在ってたまるかと思っている。理由は簡単で、死んだ後も人生が続くなんて嫌すぎるからだ。おばけそのものが怖いという話はいくらでも聞くが、自分がおばけになることを恐れる考え方は(少なくとも俺の観測範囲においては)あまり主流ではないっぽくて、俺にはそれが不思議でならない。絶対に嫌だろ、おばけになるなんて。それこそ死んでも御免被る。ただの一つも心残りなく死ねる人間なんかいやしないんだから。死後の生などというふざけたものが仮にあるとして、しかし生と死が不可逆の断絶であるならば、死を経た我々は決して届き得ぬ対岸に山ほどの未練を遺したまま、何処とも知れぬ暗がりを永劫彷徨う羽目になってしまう。最悪だ。うんこのプールに飛び込んだ方がなんぼかマシだ。いや、流石にそれは言い過ぎでした。うんこのプールにだけはたとえ死んでも飛び込みたくありません。お詫びして訂正いたします。とにかく、死の幕引きが誰にも等しく必ず用意されているという事実がいかに救済的なことであるかについて、我々はもっと常日頃から思いを馳せ、その有難みを噛み締めるべきなのだ。言い換えればそういう意味で、俺は死を信じている。俺の全てを呆気なく無に還してくれるそれを心から信頼している。どれだけみっともなく生きたとしてもとりあえず死にさえすればきちんと終わってくれるという事実がこの上なく頼もしい。というのが僕の考えなんですが、とはいえこれだけカッコつけて大言壮語しといても、いざ実際に死ぬとなると多分めちゃくちゃビビり散らかして泣き喚いておしっこ漏らしまくると思うんですよね。僕は。ダサすぎるけど実際そうなる。絶対にそうなる。だって人間だもの。死ぬこと自体は怖くないが、死を意識するのは怖い。ドデカい矛盾を呈しているがその通りなんだからしょうがない。本能を無視すれば明日死んじまっても別に構わない、なんて歌ってる人もいましたが、だからといってそう簡単にできることでもないんですよね。なんぼカッコつけても所詮は動物なので。ともあれここが人生の極め付きに最悪な点で、とにかくどこかしらの時点で何かしらの形で死を通過しなければ、我々は自分の生に区切りをつけられない。おもろい人生もいつかは必ず死んで終わるし、おもんない人生を自分から終わらせようにも死ななければ終わらない。最悪だ。詰みセーブだ。生きるか死ぬかは選べても、そもそも生きない、生まれてこないという選択肢だけは絶対に選べない。自由意思でもって自らの進む道を選ぶことこそが人間の特権だというのに、一番重大な選択の機会を初めから奪われているのだ。それってとんでもなく理不尽なことだと思いませんか?僕は思ってるんですけどね、ずっと。なんだっけ、芥川龍之介の短編で、河童の子供が母親の胎内で生まれたくないメンス~とゴネる話があったが、ああいった事前申請の仕組み的なやつをきちんと作っといてほしい。世の中、やれ確定申告だ、やれ保険料だ補助金だと、むやみやたらに煩雑な手続きの類が横行跋扈してるくせに、一番最初の肝心な部分がザルすぎる。俺は俺として生まれることについて、何かを選んで取り決めた憶えなど一度たりとも無いというのに。こんなにも手続きが多い世の中なら生まれてこなければよかった。何もかもがダルすぎる。こちとら電車通勤の経験が無さすぎて上京してから4ヶ月くらい毎日駅で切符買ってたんだぞ。ようやっと定期券を使うという発想に至ったと思いきや半導体不足でカードが発行できませんとか言われて未だに毎月券売機に名前と生年月日と使用期間を打ち込んでペナペナの磁気定期券を発行してもらってるんだからな。スマホでどうにかしろと思うかもしれんがやり方が分からんのですよ。あと去年の10月あたりから部屋の電灯が壊れて点かないんだけど業者を呼んで修理してもらうまでの手続きというか流れが分からなすぎてずっと放置してるんだからな。卓上電灯ひとつを頼りに薄暗い部屋で毎晩パーリナイだ。なめるなよ。めちゃくちゃ話がずれてきたが、ともあれこのようにして(どのようにして?)一切の同意も交わされないまま、気づけば我々は大空の彼方から地の底にぽっかりと口を開けた大穴へと落下し続けている。いつ辿り着くかは分からないがいつか必ず辿り着くことだけが確定しているネタバレの結末。底が丸見えの底なし沼。確約された墜落死を待つ、いわば人生とは大いなる投身自殺の謂である。そう考えると「生まれ落ちる」「産み落とされる」という形容は何とも示唆に富んでいて最悪だ。開闢以来、今この瞬間も無限のように膨張し続けている宇宙だっていつかは熱的死を迎えてしまうように、どれだけ希望的な人生も可能性も永遠に発展し続けるなんてことは有り得ないのであって、何かが始まったり何かを獲得したりするということは取りも直さずそれらの終焉や喪失を己の未来に約束するということなのだ。そう考えるとなんだかすべてが虚しくなってくる。どうせ最後には全部台無しになって何も残らないのに、何ゆえ必死こいて生きねばならんのか。むなしい。今我々が歩む、一人称では山も谷も紆余も曲折もあるように思えるこの道が、しかし俯瞰で眺めてみれば実に単調で味気ない、遥か彼方に聳える己が墓標へと続く、終着の知れ切った一本道でしかないという事実を吟味するにつけ、俺自身を筆頭にしょうもない夢やら恋やら社会問題やらで一喜一憂喧々諤々している人間どもが一人残らず救いようのないクソバカに思えてくる。思えてくるというか、事実そうです。このクソバカどもめが。つまらん。お前らのやってることは全くつまらん。心の底からみんなが嫌いです。全員死んだほうがいい。それが無理ならせめて全員ずっと黙っててくれ。もちろんどちらかと言えば死んで頂いた方がベターであることは言うまでもありません。頼む!後生だから死んでくれぇ~~い!思わず精一杯の憎しみを吐き出してしまいました。このところずっとこうなんです。楽しそうにしている人間を見ると心の中で反射的に汚言症の発作が出てしまうんです。羨ましいのではなく純粋に不快なんです。キラキラした人や物で溢れているこの街で、僕みたいな気持ちの悪い人間はどう生きればいいのでしょうか。クソが。あれほど渇望していた東京生活を満喫しているにも関わらず最近は常にうっすらとした虚無感が消えない。労働することに慣れ、この調子で変わらぬ日々をやり過ごしながら心も体も老いて枯れてゆく未来の自分の想像図が次第に明瞭の度を増していくにつれて、「なんだ、こんなものか」という、いっそ離人感めいて思えるほどに克明な諦観が俺の全てを軽薄にしていく。上京してたったの9ヶ月で、自分の人生はどうやらもう頭打ちであり、現状以上の歓びが今後自分の前に立ち現れることは有り得ないという事実が「言葉」でなく「心」で理解できてしまった。良い意味でも悪い意味でもなく、俺の心が劇的に動くことは多分もうない。全てのエネルギーというか精神的なリソースを使い果たしてしまったような、曰く言い難い虚脱感、大学時代の狭く埃っぽい六畳間を埋め尽くしていたアレに近い閉塞感が、あの頃よりずっと自由になったはずの今でも変わらずにある。よく「宇宙のスケールで考えると自分の悩みなんてちっぽけに思えてくるよね☆」みたいな愚にもつかない慰めを訳知り顔でほざくボケカスがいるけど、正直、だからどうしたという感じだ。そんなの、どこにも届かないちっぽけな自分の存在が改めて意識されるだけで、全く何の解決にもならんだろうが。ぶち殺すぞ。東京に来て分かったことは、生きるということがいかに難しく複雑で儘ならないことであるか、そして自分がいかに幼稚で無力で愚劣な人間であるか、その二つだけである。地元には別に戻りたくないが、この街で唯一無二の有象無象として生きることが正解だとも思えない。今すぐに仕事をブチ辞めて外界との繋がりの一切を断ち切りたい。全ての記憶を消し去りたい。もしくは全員の記憶から消えたい。クソ田舎の汚い部屋に閉じこもって孤独と酒に酔いながらちんちんを触っていれば一日が終わってくれていたあの酔生夢死の日々に戻りたい。財布に学生証の一枚さえ入れておけば轟音でポストロックを聴きながら深夜の町を泥酔徘徊していても最低限の人権が担保されていたあの頃に。あるいは生まれ落ちるより遥か以前、二重螺旋を綾なす因果律の輪の外側で、原初の荒れ野に打ち捨てられた名も無き一握の土塊に過ぎなかったあの頃に。何の意味も帯びずに、ただ透明な茫漠の中を漂っていられたあの頃に。還りたい。還らなければならない。くだらないノスタルジーなんかじゃなく、もっと真に迫った義務意識として俺はそう思う。自分という生き物に相応しい在り方はそれしかないという確信がある。何を書いているのか自分でも分からなくなってきました。もうね、本当に全てが嫌だよ。うんざりだ。振り返れば実に4年間にも渡って(noteのアカウント作ったのがちょうど4年前の今日だったらしい。死ね)このビチグソみたいなブログ擬きの駄文を飽きもせず、いや正直もうめちゃくちゃ飽きてるけど完全に辞めちゃうのもそれはそれで据わりが悪い気がするのでダラダラダラダラとそれはもうまさしくキレの悪いうんこの如くに漫然と書き殴ってきたわけだが結局のところ俺が言いたいことは今も昔も変わらずただ一つだけで、いずれ何もかも消えて失くなってしまうのにどうしてお前らはそんなにヘラヘラしていられるんだと、それだけだ。ふざけるんじゃないよ。もっと真面目にやれ。お前も、お前も、お前もお前もお前も、そこのあなたも、いつかは必ず死ぬんだぞ。どうなってるんだ。もっと真面目にやれ。もう全部うんざりだ。うんこまみれのザリガニ、略してうんざりだ。あんなにも望んだ全てが近づくほどに色褪せていく。何もかもが手応えのないまま上滑りしていく。そのまま消え失せてしまえばいいと心底思う。どいつもこいつも、どうせ死ぬんだから生まれてくるな。どうせ裏切るなら希望させるな。どうせいなくなるんなら俺と出逢うな。何もかも最後は闇に還るというのなら、初めから光なんて見せないでくれ。俺は死にたいわけじゃないし、生きたくないわけでもない。ただ、生まれてきたくなかっただけなのだ。そういうことです。そういう話で、そういう人生なのです。押忍。


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