マリア
失恋をしたことがない。なぜなら恋をしたことがないからである。
であるからして当然、俺には失恋の痛みというものが分からない。人を好きになったこと自体は何度もあるが、手を繋いだことも唇を重ねたことも躰を抱いたことも一度たりとも経験がない。かつて好きだった(そして恐らくは今もまだ好きな)人がふとした拍子に夢に出てきてゲンナリすることはあれ、そこに恋しさや悲しさを覚えることももうない。臆病と怠惰にかまけて他人との関わりを極力避けてきた俺にとって、恋とはその始まりと同時に、あるいは始まる前から既に終わっているものであり、常に約束された諦めと共にあるものだった。誰かや何かを好きになろうとする時、その感情よりもずっと強く深い域で、それに心を尽くす大変さや億劫さ、それに裏切られる不安、それを失う恐怖といったものが先立ち、脳の防衛機構のようなものが俺から切実さを奪い去る。深く入り込むほど、深く食い込ませるほど、それは喪失の道連れに多くの質量を引き剥がしていくから。その痛みにきっと俺は耐えられないから。軽薄さを盾に、壁を幾枚も隔てた他人事のような、画面越しの絵空事のような、真実味を欠いた虚妄として扱うことで、俺はどうにか自分を保っていた。酒や薬と大差ない。あんなものに依存して、それが失われて尚、正気を保っていられる自信なんて俺にはない。だからしない。俺にとって恋とは、つまるところそういう、明確な脅威として拒むべき類の概念だった。
世の中では、ドラマでも映画でも漫画でも小説でも音楽でも、とにかく他人の色恋沙汰の顛末を描いたものばかりがいつも蔓延っていて、俺はもちろん物心ついた時分からその手のものが大嫌いで全く触れてこなかったので深く語れるほど通じている訳ではないからこれは完全に偏見まみれの印象論になってしまうが、なんか「いわれなき悲劇による恋の終焉」的なストーリーって一般大衆からのウケがめちゃくちゃ良いような気がする。調べたことないからよく知らんけど、たとえば、ええと、タイタニックとか、あと、タイタニックとか、タイタニックとか、まあ映画なんてロクに見たことがないのでタイタニックぐらいしか思いつかないが、というか別にタイタニックも見てないんだが、とにかく愛し合う二人が不慮の事故や不治の病といった運命的な不可抗力に引き裂かれるタイプの話に涙する人々をよく見る。まあ確かに分かる。起伏があってドラマチックだし、悲劇に翻弄される登場人物の姿に自分を投影して酔ったりすることもできる。カタルシスというやつだ。一つの作品としてみれば確かに優れているんだろうし、何もそういう作品やそれを愛好する人たちを馬鹿にするつもりはない。が、しかし、俺はそんな彼らに賛同も共感もできない。
(ここまで書いて「花束みたいな恋をした」という特大の反例を自分で思いついてしまったが、今さら軌道修正するのも面倒なので無視する。そもそも俺はあの映画に何故かあまりいい印象を持っていない。本編は一ミリも見てないし粗筋も斜め読みした程度だけど。たぶん主題歌が好きじゃないのでその悪印象に引きずられているのだと思う)
結局のところ彼らの中には、「恋愛は素晴らしく尊いものである」という、ある種の信仰が、疑いようのない通奏低音として流れていて、俺にはそれが理解できない。いや、理屈の上でなんとなくは分かるし何なら同意もしたいところだが、そんな不安定でハイリスクな信念を無批判に抱え込める神経が全くもって理解できないのだ。恋は素晴らしく、愛しいあの人は神のような絶対の存在で、その関係が悲劇によって終わるのは嘆かわしいことである。確かにそうだろう。お説ごもっとも。だけど俺には、もっと恐ろしいものがあるように思える。恋が終わることより、恋が恋じゃなくなることの方が、もっとずっと恐ろしくて悲惨なことじゃないだろうか。
(自分でもかなり感覚的というか、抽象的で雑多な思考をこねくり回しながら書いているので分かり辛いことこの上ないが、こういうのは一晩寝かせて読み直したりするとどんどん粗が出てきて収拾がつかなくなるのでこのまま強引に書き進めることにする)
恋が恋のまま終われば、それは切なくとも美しい想い出になる。時が経って他の誰かと結ばれた後でも、かつて過ごした甘い日々の記憶に浸って懐かしんだり、悲しみを次への糧として前向きに変換することができる。けれど恋が恋でなくなれば、それすらできなくなる。想いが冷めた途端、過ごしてきた時間の全てはきらめきを失い、嘘のような、ガラクタのような、単なる無価値な徒労の記憶に堕してしまう。劇的な悲運など存在せず、顧みるべき想い出は失望の苦味を帯び、ただ当たり前に自分の過ちと醜さだけを理由として、損なわれた信頼の馬鹿馬鹿しいまでの軽さと、過ぎ去った日々の忌まわしい重さに辟易し続けることになる。「どうしてあんなやつのことを信じたんだ」と。恋人が数百万人に一人の難病を発症する確率より、二人で乗り合わせた豪華客船が氷山にぶつかって沈没する確率より、ありふれた無理解と齟齬と言葉足らずで後味悪く決裂する可能性の方がずっと高いなんてそこらの子供にでも分かるのに、誰も彼も同じ事ばかりしている。どうしてそんな前向きに妄信できるんだ。みんな馬鹿なんじゃないか。俺も馬鹿だ。
自分の目から見た愛しいあの人は、どこまで行っても「自分の目から見た」あの人でしかなく、それは決して「あの人」とイコールでは結ばれない。頭の中だけで特別とか絶対とかいったものを作り上げて信じ込んで縋っても、それが本物になることは永遠にないし、そういうものほど肝心な時に限って何の役にも立たない。恋だの愛だの友情だの信頼だの夢だの憧れだの理想だのは結局、どれほど美しく見えてもひとつ残らず手前勝手な妄想に過ぎなくて、それでも構わないと言い切れる潔さはカッコいいかもしれないが、それだけだ。信仰で腹は膨れないし、聖書でケツは拭けない。そんなことしたら痔になる。安易に見返りを求める卑しさを捨てきれない人間には、愛も神も過ぎた代物だ。気持ち良くなりたいだけならそれこそ酒でも飲むか、一人でちんちんでもいじくっていた方が余程コスパがいい。
愛は祈りだと誰かが言っていたが、祈りとは呪いだ。骨身にまで深く絡み付き、心身の芯そのものに置き換わってしまうほどの祈りが呪いと変じたその時、寄る辺と標の全てを失って尚歩みを止めずにいられるだけの強さなど、果たしてただの人間が持ち得るものだろうか。俺にはとてもそうは思えないが、しかしそれでも、生きて他人と関わる限り、その時は必ずやってくる。信仰の敗北。信じた絶対性の崩壊。挫折して脱落した人間の、惨めな現実への帰還。そして言うまでもなく、その後の話がむしろ大切なのだ。
オチは特にないけど、最近はそういうことばかりを考えている。
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