Living Dying Message
驚くべきことに俺は26歳にもなってクレジットカードを持っていなかったのだが、このたび諸般の事情からついにカードを作成することになった。生来の壊滅的な金銭管理能力の欠如ゆえ今まで頑なに固辞してきたが、いざ持ってみるとこれがすこぶる便利だから困る。日常の細々した買い物は現金で済ませるとして、アマゾンやら何やらで比較的デカい買い物をする時、今までのような手数料のかからない平日に銀行から金を下ろしてコンビニの端末に番号を打ち込んで出てきた払込用紙を持ってレジに並ぶとかスマホの画面のバーコードを提示するとかいう煩雑な手続きがたった一枚の薄い金属の板っぺらを介するだけで一息にすっ飛ばしてしまえるのだから全く文明の利器というか人間の智慧は素晴らしいものであるなぁと感嘆せずにはいられない。しかしながら当然、便利な手段に頼りすぎることは意識の弛緩を招くものであり、調子に乗って別に今すぐ買わなきゃ絶版廃盤になってしまうというわけでもない本やCDを買いまくったりラーメンを食べたりしていたらあれよあれよという間に利用残高がビッグバン直後の宇宙空間くらいの勢いで膨れ上がり、かなりビビっている。手元の現ナマが減るという実感の有無は想像している以上に大きいものだと、想像はしていたがやはり、それは想像以上に大きいものなのだ。今はまだそこまででもないからいいけどこのまま調子に乗り続けたら将来的に俺は間違いなく破滅するだろう。腎臓を売ったり角膜を売ったりサラ金に手を出したりした挙句アパートにカチ込まれヤクザにシバかれドラム缶に詰められて東京湾に沈められる悲惨なバッドエンドが容易に想像できる。絶対にやばい。ドラム缶にだけは詰められたくない。そもそも俺は純粋に決済を簡略化するための手段としてカードを使うだけであって何もパチンコを打ちまくろうとかキャバ嬢に貢ごうとか友人の借金を肩代わりしようとか仮想通貨に投資をしようとかそういうウシジマくんの債務者みたいなことがしたいわけではないのだが、それでもカードを使うとき、そういう恐ろしい未来へのうっすらした不安というか、釈然としないものが必ず脳裏を過る。自分では正当な手続きを踏んでいるつもりのこの会計のやり取りが、実は目に見えないインターネット的な通過経路のどこかでとんでもなく大きな過失や何者かの悪意に基づく陥穽を経由していて、そうした錯誤が積もりに積もっていつの日かドラム缶に詰められてしまうのではないかと。絶対に嫌だ。ドラム缶にだけは詰められたくない。こんな特級呪物みたいなカード、一秒でも早くへし折って捨ててやりたい。現金での手続きは物理的というか肉体的な面では確かに面倒っちゃ面倒だが、そのぶん簡明で、不確実な要素が目に見える限りではあまり無いから安心できる。生年で言えば1996年生まれの俺はギリギリZ世代のデジタルネイティブだが、どうも根っこの部分ではほとんど石器時代の原始人めいた極めてアナログでアナクロな感性しか備わっていないようだ。いや、感性なんて曖昧な言葉で誤魔化すまでもなく、単純におつむのメモリが少なすぎるだけだろう。もうちょっと年を食ったらZ世代のくせにデジタル社会に順応できない無能の老害扱いされて窓際に追いやられるのが目に見えている。Bluetoothとか怖くて使えないし。OneDriveが何なのかも未だによく分かってないし。クラウドって何?FF7の主人公?全然わからん。みんなから馬鹿にされる前にさっさと死んでおこうかな。とにかく、キャッシュレス決済オンリーの店、やめてくれ。絶対に。俺はドラム缶にだけは詰められたくない。
完全に話は変わるが俺は童貞である。生まれてこのかた母親以外の異性にちんちんを見せたことがない。もちろん長じてからは母親にも見せていない。26歳にもなって未だに性交渉の経験が一度たりとも無いというのは、まあ世間一般のまともな人間の基準からすれば比較的遅い部類に入るのだろうが、俺はと言えば全然気にしていない。こんなこと言うと非モテの陰キャの負け惜しみ扱いされるんだろうけど本当に気にしていない。気にしてないならわざわざ言及するなと言われるかもしれないが言及しておかないとそれはそれで実は内心気にしてると思われてしまうという誠に鬱陶しい認識の衝突事故が往々にして発生しうるのでここはハッキリ明言しておきます。僕は童貞であり、かつ、そのことに対して一欠片の劣等感も懐いてはおりません。もちろん逆に誇っているわけでもありません。性経験の多寡を誇るのも恥じるのも、はたまた自虐してウケを狙うのも、アイデンティティの拠り所をそこに据えているという点では同レベルのくだらなさだ。本当にどうでもいい。とにかく俺は自分が完全無欠のチェリーボーイであることに何の感慨も懐いておらず、何故かと言えばそれはひとえに興味がないからということに尽きるのだが、もっと突き詰めてみればこれはつまり、恋愛や結婚やセックスといった営みに如何なる意義を見出すのか、という問題だ。少なくとも俺にとってみれば、それらの行為は全て「手段」に過ぎない。何の手段かと言えば、愛しいパートナーを気持ちよくするための、パートナーと一緒に幸せになるための手段だ。今の俺にはそういうパートナーがいない、すなわち目的が存在しないため、そのような手段をとる必要がない。だからしない。至極当然の論理的帰結である。持たざる者、もといモテざる者たちの恨み節を聞いていると「風俗で童貞を捨てる」みたいな話をたびたび耳にするが、どうも「童貞を卒業しさえすればどうにかなる」的な浅ましい幻想に囚われているというか、焦りのあまり自意識が暴れ過ぎて手段と目的が食い違っているように思えてならない。単純に性欲を処理したいだけならもっとコスパに優れた手段がいくらでもあるし、何よりそんな風にして自暴自棄じみたやり方で童貞を捨てた自分自身におまえは納得できるのか、と胸ぐらを掴んで問い質してやりたい気にさえなる。恋愛は見栄でするものじゃない。あくまで好きな相手の存在が先にあって、その上でどうするか、どうしたいかという手段や願望が後からくっついてくるものだ。そういうことをしたい相手がいて、だけど何らかの理由でそれが叶わないというのであれば、それはもちろん悲しいことであるし何とかして叶ってほしいと切に願うが、そもそも相手がいないのなら、別にそこまで急がなくてもいいじゃん、と思う。今にきっと、ちんちんを見せても構わないと思えるような素敵な人が現れるよ。おまえのがむしゃらで稚拙な愛をまっすぐ受け止めてくれる奇跡の人が。ディオネアの花が咲くまで待てと大槻ケンヂも歌っているじゃないか。信じてもらえないかもしれないが俺は本気で言っている。こう見えて結構ピュアなんだからな。なめるなよ。誰でもいいからセックスしたいだなんて、まず第一に相手に失礼だし、加えて言えば無意味だし不合理だ。タバコを吸わないのにライターを欲しがるようなものだろう。興味があって、吸いたい銘柄があって、そのためにライターを探すというのなら分かるけど。口寂しさを紛らわすためなら他にもっと安価で簡便な手段がいくらでもある。のど飴とかガムとかおしゃぶり昆布とか。だから俺は自分が童貞であることを全くビタイチ気にしていない。少なくとも今のところは、おしゃぶり昆布で間に合っている。今のところはね。
哲学者のパスカルといえば「人間は考える葦である」という金言でお馴染みだが、この葦ニキはもう一つ、「人間の不幸は部屋でじっとしていられないことから始まる」という言葉を遺している。何とも優美な換喩表現だが――余談ながら俺は結構最近までこの言葉を秋山瑞人のオリジナルだと勘違いしていた。鉄コミュニケイションの上下巻が近所のブックオフで100円で売ってたの、今思えばすごい掘り出し物である――もうちょっと敷衍してみれば、つまるところ全ての不幸は「いらんことをする」ということから生じるのだ。必要もないのに多くを望むから必要のない傷を負う羽目になる。考えなくてもいいことを考えるから思考の袋小路に陥る。呑み込めばいいことをわざわざ吐き出すから軋轢が生まれる。別に買うほどでもないものを買うから金がなくなる。あるいは金もないのに欲しがるから買えなくて残念な気持ちになる。高望みしたぶんだけ挫折のダメージは大きくなるし、深く入れ込むほど喪失の痛みは強くなる。得るから失う。考えるから悩む。出会うから別れる。愛するから悲しむ。生きるから死ぬ。全部そうだ。そんなの、言ってみれば1+1が2になるのと同じ次元の簡単な道理であるはずなのだが、しかし俺も含めた多くの人間はその道理に屈することを頑として拒む。どいつもこいつもたかだか100年にも満たない暇と孤独を大袈裟に持て余して、置かれた場所で咲けばいいくせに今以上の光を浴びたがる。どれだけ傷を重ねて泥にまみれようとも一向に学習せず、1+1は10にも100にもなるのだと叫び続ける。そんなわけないのに。アホかと思う。心底。
俺はスタンドアロンであることを何より信頼している。ゼロには何を掛けてもゼロだし、ノイズに何を混ぜてもノイズのままだ。それは最も安定していて安全であるということに他ならない。出来ることを増やそうとしてみだりにあちこちへ手を伸ばしたり、外界や他者との繋がりなんてものを求めてしまうから、そこから悪いものや悲しいことが流れ込んでくるのだ。クレカの便利さにかまけて身の丈に合わない買い物をしてしまうように。性欲を人恋しさと履き違えて傷ついてしまうように。でもそれが人間ってものだよね、なんて悟ったようなお決まりの結論を受け入れられるほど俺は器用じゃなければ達観もできていないし、かと言ってそれを全力で拒絶できるほど強くも若くもないけれど、どうせみんな最後には一人で死ぬんだとして、だから少しでも孤独を遠ざけようとするのか、あるいは今のうちから慣れておこうとするのか、どちらの方向へ舵を切るにしても、リスクヘッジなんて気取った言葉に逃げず、自分の選んだ生き方に自分一人分の責任をきちんと持てるくらいの甲斐性は、そろそろ身につけておかなければならないなぁと、なんとなく思っている。うまくまとまった気がしないけど、今日のところはとりあえずそんな感じでしょうか。あと、おしゃぶり昆布はうまいし体に良いのでみんな食べたほうがいいです。クレカは絶対に使うな。危ないので。そういう話でした。ご清聴ありがとうございました。バイビ~!
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